松谷 竜二郎(まつたに りゅうじろう、1964年7月10日 - )は、日本実業家、元プロ野球選手投手)。スチールエンジの代表取締役社長。NPBでは読売ジャイアンツ近鉄バファローズに所属した。

松谷 竜二郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市旭区
生年月日 (1964-07-10) 1964年7月10日(59歳)
身長
体重
182 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1988年 ドラフト2位
初出場 1989年4月15日
最終出場 1996年9月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物 編集

大阪市立高では2年秋は府大会準々決勝へ進むが1失点完投で惜敗、3年夏は5回戦で7回コールド負け。社会人野球大阪ガスに入社。

1985年スライダーを習得し、抑えを任される[1]。同僚に木下文信がいた。

1986年から3年連続で都市対抗野球に出場。

1988年大会では1回戦で中島輝士石井浩郎小川博文らを擁する優勝候補のプリンスホテルと対戦、延長12回の接戦を制し勝利投手となる[2]。同年は日本選手権にも出場するが、準々決勝で東芝に逆転負け、敗戦投手となった。1987年の第8回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出されている。

1988年のプロ野球ドラフト会議読売ジャイアンツから2位で指名され入団。契約金と年俸はそれぞれ5,500万円、600万円(いずれも推定)だった[1]

1989年は一軍のキャンプに参加し、オープン戦でも投球内容を評価されている[3]4月15日には一軍初登板を果たしたが、その後二軍に降格。しかし6月7日にはイースタン・リーグ大洋戦でノーヒットノーランを記録し、6月12日には一軍に再昇格している[4]

1991年5月22日ヤクルト戦ではローテーションの谷間で初の先発を任され、1失点完投勝利をマークした。続く6月6日の試合では自ら適時二塁打を放ち2失点完投勝利。2連勝で飛躍が期待されたが、その後は打ち込まれ、先発に定着できなかった。

1992年5月31日にはイースタン・リーグの大洋戦でリーグ史上初となる二度目のノーヒットノーランを記録している[5][6]

1993年は春先に右肩を痛めて回復に夏までかかったが、同年10月10日中日とのジュニア日本選手権では8奪三振の完封勝利でMVPに選出された[7]

1995年3月に近鉄に移籍。

1997年に右肩を故障[8]。同年をもって戦力外通告を受け、2週間の入院後に巨人の2軍監督だった末次利光の紹介で台湾プロ野球の入団テストを受けたが不合格となり、翌年2月に現役引退を決めた[8]

引退後は巨人入団時の監督である藤田元司とコーチの末次利光の斡旋で建設会社に入社したが経営が不振に陥り、同業他社に転職した。床版の専門工事部門がスチールエンジとして独立した際に転籍して3年間営業を務め、その後2003年には代表取締役に就任している[8][9]

2016年学生野球資格回復研修を受講した上で、翌2017年2月7日に日本学生野球協会より学生野球資格回復の適性認定を受けたことにより、学生野球選手への指導が可能となった[10]

詳細情報 編集

年度別投手成績 編集





















































W
H
I
P
1989 巨人 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 24 5.0 7 1 3 0 0 1 1 0 4 4 7.20 2.00
1991 21 5 2 0 0 2 2 1 -- .500 222 52.2 49 4 21 1 1 53 1 0 29 29 4.96 1.33
1992 6 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 39 8.2 9 0 5 0 0 5 0 0 1 1 1.04 1.62
1993 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 8 1.0 3 0 2 0 0 0 0 0 2 2 18.00 5.00
1994 7 1 0 0 0 0 2 0 -- .000 74 16.2 20 2 3 0 1 16 1 1 10 9 4.86 1.38
1995 近鉄 13 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 84 18.2 23 3 12 1 1 12 2 0 7 7 3.38 1.88
1996 7 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 58 13.0 12 4 7 0 1 10 2 0 13 13 9.00 1.46
通算:7年 59 6 2 0 0 4 4 1 -- .500 509 115.2 123 14 53 2 4 97 7 1 66 65 5.06 1.52

表彰 編集

記録 編集

背番号 編集

  • 26 (1989年 - 1994年)
  • 54 (1995年)
  • 32 (1995年 - 1997年)

脚注 編集

  1. ^ a b 読売新聞、1988年12月2日付朝刊、P.19
  2. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ 読売新聞、1989年3月29日付朝刊、P.43
  4. ^ 読売新聞、1989年6月13日付朝刊、P.19
  5. ^ ウエスタン・リーグでは元広島の城野勝博が1968年に達成しており、2012年シーズン終了現在、二軍での複数回達成者は松谷と城野のみである
  6. ^ 『ベースボールマガジン』2012年11月号、72ページ
  7. ^ 1993年10月11日付朝刊、P.24
  8. ^ a b c “野村ID封じたアノ投手が…年商40億円の社長さんに!”. ZAKZAK. (2011年7月6日). https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110706/bbl1107060931000-n1.htm 2011年7月10日閲覧。 
  9. ^ “元プロ選手「第2の人生」奮闘記 現場作業員から年商90億円社長に 元巨人投手の“復活人生””. 日刊ゲンダイ. (2016年1月10日). http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/172236 2016年1月11日閲覧。 
  10. ^ 元ヤクルト宮本慎也氏ら132人が学生野球資格回復 - 大学・社会人”. 日刊スポーツ (2017年2月8日). 2017年2月8日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集