森川一二三
森川 一二三(もりかわ ひふみ、1954年1月13日 - )は、青森県出身の元騎手(地方・新潟→北海道所属)。
森川一二三 | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 青森県 |
生年月日 | 1954年1月13日(70歳) |
身長 | 156.9cm |
体重 | 50.5kg |
騎手情報 | |
所属団体 |
新潟県競馬組合 ホッカイドウ競馬 |
勝負服 | 胴桃・青星ちらし・袖青 |
初免許年 | 1970年 |
免許区分 | 平地 |
騎手引退日 | 2002年 |
通算勝利 |
12382戦1741勝(地方) 14戦0勝(中央) |
経歴 | |
所属 |
斎藤辰三(新潟) 成田春男(北海道) |
経歴
編集1970年11月7日の三条第10競走・イスズキング(8頭中5着)で初騎乗を果たし、同27日の三条第1競走・コダマチカラで初勝利を挙げる[要出典]。
森川を取材した競馬評論家の渡辺敬一郎曰く、森川は「照れ屋でナーバス、悪だくみなどと何の縁もなさそうな、いい男」[1]であったが、昭和30年代に馬主であった暴力団関係者との付き合いで、何度も八百長を強制されたこともあった[2]。騎手という人気のある職業柄、キャバレーや座敷などに招待され、その内に八百長をほのめかされる[3]。関係者の男は自分の馬が人気になったら、森川を乗せて手綱を抑えることにするため、少頭数のレースで森川の騎乗馬が消えれば、連勝馬券はかなり限られてくるため、男が大勝負をした[3]。それで開催委員にも睨まれ、ついには警察にマークされた。森川も随分逃げまくったが、あるレースでとうとう実行してしまい、すぐに発覚して警察に追われた。そのレースは男から「3着に落ちろ」と命令されたが、馬が強くて2着に抑えるのが精一杯であった[3]。これで男の怒りをかい、男の子分たちに追われるようになった。地方の温泉宿でも夜中に渓流の音で目が覚めて跳び起きる[3]など恐怖に怯え、ついに観念して、警察に出頭[4]。以後の裁判で幸運にも執行猶予がつき、厩務員として働き、性来の真面目さが評価され、再度騎手に返り咲く[4]。
復帰後は渡辺正治・向山牧・榎伸彦・酒井忍・山田信大と熾烈なリーディング争いを毎年繰り広げ、1996年には116勝を記録してリーディングジョッキーを獲得[5]するなど、信頼性抜群のいぶし銀として活躍[6]。
1974年12月13日の新潟・アラ3才ヘで10頭中8番人気のリアールに騎乗して勝利し、2着に7番人気ニューキングが入り、枠連104,050円は県競馬が廃止するまで破られなかった[7]。
1986年の東北優駿ではダイスプリンターで岩手のトウケイフリートを破り、1988年にはツカサアコードで新潟皐月賞・新潟ダービー・東北優駿を制覇[要出典]。1987年・1990年には『韓日ジョッキーカップ』、1992年・1994年・1996年・1997年には『ニイガタジョッキーカップ』と韓国の騎手交流競走に6度出場[8]し、県競馬が韓国騎手を招待して行われた『日韓チャレンジカップ』では1993年に優勝[要出典]。1993年にはヘイセイヒメで北日本オークス、1994年にはダービーアールで新潟グランプリを制す[要出典]。
森川は取材に来た渡辺に「いつかは中央競馬で」と目を輝かせていたが[1]、1995年8月19日の新潟(中央)第10競走ダリア賞・ハイフレンドムーンで中央初騎乗を果たし、7頭中4着と健闘した[要出典]。
同年から開始されたJRA認定競走「登竜門」[9]では後に福島3歳ステークス4着[10]となるキッポーリックで勝利し[11]、暮れには青山記念をハギノカムイオー産駒フリーダムワールド[12]で制す。
1996年からは中央から移籍してきたヤングノーブル、中央未出走で移籍してきたロバリーハートの主戦騎手を務める。ロバリーハートでは重賞勝ち前に向山に交代しているが、デビューから手綱を取り、森川とのコンビでは9連勝を記録。ヤングノーブルでは1996年の日本海シーサイドカップ、1997年には三条記念・朱鷺大賞典を制し、1996年の東北サラブレッド大賞典ではクビ差2着と堅実に走った[13]。1999年にはトニービン産駒ミスズトニーオーで新潟グランプリを制し[13]、向山のグランプリ5連覇を阻止した[要出典]。
2001年にはヒシマサル産駒ヤングルーラーで新潟皐月賞を5馬身差圧勝[14]の一冠目、ストロングゲイルで銀蹄賞を完勝[14]でのアラブ古馬ナンバーワンに導く[13]。12月31日の新潟第7競走一般B3ハ・セイワマーブルが県競馬での最後の勝利となり、県競馬最後の日となった2002年1月4日は新潟第2競走3歳B1・グレートアビリティで9頭中2着となるが、第3競走以降は雪で開催中止になったため、最後の騎乗となった[要出典]。
廃止後は道営・成田春男厩舎に移籍し、4月10日の門別第3競走3歳未勝利・スマイルマーク(12頭中4着)が移籍後初騎乗を果たす。翌11日の第2競走3歳未勝利・オンユアスポートで移籍後初勝利を挙げるが、2002年限りで現役を引退。同年6月26日の旭川第5競走3歳オープン・ナイトロクイーンが最後の勝利、7月4日の旭川第10競走池田町長杯十勝ワイン特別・ノーザンウェーで2000年のジャパンダートダービー3着馬タキノスペシャルの2着に入ったのが最後の騎乗となった[要出典]。
通算成績
編集- 地方 - 12382戦1741勝 勝率14.1% 連対率28.3%
- 中央 - 14戦0勝
主な騎乗馬
編集- ダイスプリンター(1986年新潟皐月賞・東北優駿・新潟グランプリ)
- スピードペガサス(1987年新潟記念)
- ツカサアコード(1988年新潟皐月賞・新潟ダービー・東北優駿)
- オールダッシュ(1988年豊栄記念)
- カスミリユウ(1989年銀嶺賞、1990年砂山賞)
- テユーダーソブリン(1990年新潟ダービー)
- マリナデルレイ(1992年若草賞・新潟皐月賞)
- ヘイセイヒメ(1993年新潟皐月賞・北日本オークス)
- ピュアボーイ(1994年新潟卯月賞・東北アラブダービー、1995年新潟アラブ大賞典)
- ダービーアール(1994年新潟グランプリ、1995年豊栄記念、1997年迎春賞)
- クリスタルブラボー(1994年若草賞)
- ツカサエスパーダー(1995年新潟皐月賞)
- フリーダムワールド(1995年青山記念)
- ヤングノーブル(1996年日本海シーサイドカップ、1997年朱鷺大賞典・三条記念)
- ラブリーフレンド(1997年砂山賞)
- ファルコンボーイ(1998年新潟卯月賞・銀嶺賞、1999年新潟アラブ大賞典)
- ミスズトニーオー(1999年新潟グランプリ)
- ハイテンションパル(2000年若草賞)
- ヤングルーラー(2001年新潟皐月賞)
- ストロングゲイル(2001年銀蹄賞)
- その他
- ロバリーハート
- ウットマン
脚注
編集- ^ a b 渡辺敬一郎「日本競馬 闇の戦後史」講談社、2007年11月21日、ISBN 4062811561、p28。
- ^ 「日本競馬 闇の戦後史」、pp28-29。
- ^ a b c d 「日本競馬 闇の戦後史」、p29。
- ^ a b 「日本競馬 闇の戦後史」、p30。
- ^ 歴代リーディングジョッキー
- ^ 新潟の騎手
- ^ 配当金レコード
- ^ web Furlong 2012【クローズアップ】”短期集中連載” 【地方競馬所属騎手の韓国遠征記録】「第1回 90年代までの交流の歴史」
- ^ 1995年
- ^ 福島3歳ステークス | 1995年11月19日 | 競馬データベース - netkeiba.com
- ^ 登竜門 | 1995年8月29日 | 競馬データベース - netkeiba.com
- ^ ハギノカムイオー産駒が重賞勝ち
- ^ a b c 新潟県競馬の活躍馬 - ヤングノーブル・ミスズトニーオー・ヤングルーラー・ストロングゲイル
- ^ a b 2001結果 - 5月3日新潟皐月賞・6月3日銀蹄賞
- ^ 早田光一郎さん… | 西山茂行オフィシャルブログ「西山牧場オーナーの(笑)気分」
- ^ 2010年03月14日 中山牝馬S G3 | 重賞ウィナーレポート | 競走馬のふるさと案内所
外部リンク
編集- 騎手登録情報 - 地方競馬情報サイト