横山 安武(よこやま やすたけ、天保14年1月1日1843年1月30日) - 明治3年7月26日1870年8月22日))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての薩摩藩士。通称は喜三次、元四郎、正太郎[1]

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生涯編集

天保14年(1843年)、薩摩藩士・森有恕の四男として誕生。弟に森有礼がいる。

儒学者横山安容の跡を継いで藩に出仕し、後に島津久光に側近として仕える。久光の五男悦之助(島津忠欽)の守役となり、藩外での遊学を勧め、明治元年(1868年)5月より佐賀佐賀藩)や山口長州藩)に同行するが、その際に奇兵隊の一部の隊士の脱隊騒動が発生し、安武は明治3年(1870年)2月に騒動を報告するため無断で鹿児島に帰国したため、久光に免職された。その後、5月に上京して田口文蔵の門人となり、陽明学を学んだ。

明治3年(1870年)7月、時弊10箇条を挙げた書を集議院門扉に公示し、津軽藩邸前で屠腹して果てた。その建言は、上に達することはなかった。

安武は、当時さかんに論じられていた征韓論に対しては「ただでさえ国内が疲弊しているときに、征韓などできるはずがない」という見解をもっており、その自決には征韓論に対する抗議の意味があった[2]。その死は世間で話題となり、それをみた政府は島津忠義に祭祀料100両を下賜し、西郷隆盛は明治5年(1872年)8月に碑文を作って安武を弔い、墓のそばの幟に「精神、日を貫いて華夷に見われ、気節、霜を凌いで天地知る」という語を書いた[3]

脚注編集

参考文献編集

関連項目編集