新渡戸稲造

日本の教育家・農政学者

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、1862年9月1日文久2年8月8日) - 1933年昭和8年)10月15日)は、日本教育者思想家農業経済学農学の研究も行っていた。

新渡戸 稲造
人物情報
別名 太田稲造
生誕 新渡戸稲之助
(1862-09-01) 1862年9月1日
陸奥国岩手郡盛岡
死没 (1933-10-15) 1933年10月15日(71歳没)
カナダの旗 カナダ
ブリティッシュコロンビア州ビクトリア
国籍 日本における郵船商船規則の旗 日本
出身校
配偶者 メアリー・エルキントン(新渡戸万里子)
両親 父:新渡戸十次郎
子供
  • 遠益
  • こと
学問
研究分野
研究機関
学位
  • 農業経済学博士(ハレ大学)
  • 法学博士(1906年・京都帝国大学)
称号
主な業績
主要な作品武士道
影響を
受けた人物
ウィリアム・スミス・クラーク
主な受賞歴 勲一等瑞宝章
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国際連盟事務次長も務め、著書『武士道』は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券D五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現新渡戸文化短期大学)初代校長。

生涯編集

陸奥国岩手郡盛岡城下(現岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛用人を務めた盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として生まれる。幼名は稲之助。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。やがて作人館(現盛岡市立仁王小学校)に入り、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。祖父江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り、幕末に早世した次男十次郎に代わって新渡戸家の家計を大いに助けた。

稲之助は巡幸中に新渡戸家で休息していた明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」という主旨の言葉をかけられたことから、農学を志すようになったという。

盛岡から上京編集

作人館を出て間もない頃、東京で洋服店を営んでいた叔父の太田時敏から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立つ。この時、名を稲造と改めた。

上京後は叔父の養子となって太田稲造として英語学校で英語を学んだ。

翌年には元盛岡藩主である南部利恭が経営する「共慣義塾」に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったという。この日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなっていった。そのため、自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず「店の金を持ち出した」と疑われることもあったという。その一件が有ったのちは、信頼を回復しようと稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。

13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校東京大学の前身の一つ)に入学した。ここで稲造は同じ南部出身で後の北海道帝国大学初代総長となる佐藤昌介と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、その後、農学の道に進むことを決意した。

札幌農学校へ編集

 
内村鑑三、宮部金吾と共に札幌農学校時代

15歳になった1877年9月になると、当時国内で唯一学士号を授与する高等教育機関であった札幌農学校(現北海道大学)の二期生として入学した。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士は既に米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。在学中、札幌丘珠事件が発生し、加害獣である巨羆の解剖をした。稲造は祖父[1]達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり「アクチーブ」(活動家)というあだ名を付けられた。

クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。農学校入学前からキリスト教に興味を持ち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名した。後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けた。クリスチャン・ネームは「パウロ」であった。この時にキリスト教に深い感銘を受け、のめり込んで行く。学校で喧嘩が発生した際「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽ったりするなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。

この頃から稲造は視力が悪化し、眼鏡をかけるようになったが、やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りからうつ病までもを患ってしまう。数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったがため、鬱病がさらに悪化してしまった。その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出る。その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、トーマス・カーライルの『衣服哲学』(『サーター・リサータス』、Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受ける。この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となり、生涯に幾度となく読み返した。

学の道へ編集

 
谷崎潤一郎と新渡戸稲造

農学校卒業後は、国策により級友達とともに上級官吏として北海道庁に採用され、畑の作物を食い散らすイナゴの異常発生の対策の研究等をしていた。

その後、創立後間もない帝国大学(後の東京帝国大学、東京大学)に進学。しかし当時の農学校に比べ、帝国大学の研究レベルの低さに失望したため退学した。1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋になりたい」と米国に私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学した。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め、正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)と出会う。米国の某地で日本についての講演をした際に、聴衆の一人であったメアリー・エルキントンが稲造を見初めて告白をしたという。

その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して、官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)より農業経済学の博士号を得る。そのいきさつとして、米国留学にて農業を経済学と結び付けて考える必要を感じた稲造は、独学で社会科学を学び新たな学問を創設しようと試みたのであるが、ドイツ留学にて農政学が既にゴルツドイツ語版ブッヘンベルガードイツ語版により創始されていたことを知った。この間『女学雑誌』にドイツから女性の摂取すべき栄養や家政学についての寄稿を行っている(巌本善治は文中で新渡戸を「社友」と評している他、帰国後に新渡戸は巌本が主催する明治女学校で講演を行っており、その内容も『女学雑誌』に収められている)。帰途、アメリカでメアリーと結婚して、1891年(明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職して米国西海岸のカリフォルニア州で転地療養した。

この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本及び日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。新渡戸の『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けている[2]

台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。赴任を請われた時、1日1時間の昼寝を赴任条件とした[3]。民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に『糖業改良意見書』を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した[4][5]。台湾糖業博物館(高雄市)には「台湾砂糖之父」として新渡戸の胸像が置かれている[6]

その後、1903年(明治36年)には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。1906年(明治39年)、京都帝国大学より植民政策の論文で法学博士の学位も受けた。同年、牧野伸顕文相の意向で日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)。それまでの東洋的文化色が強かった同校に、西洋色を取り入れようと努めた。愛読書でもあるトーマス・カーライルの『衣服哲学』の読書を学生に薦めるなどした。その新たな学風づくりの試みは、河合栄治郎などに影響を与えた。1911-1912年、日米交換教授の制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米。帰国後、健康を害したこともあって、1913年に一高校長を辞職。東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。その他、津田梅子津田塾に対しても顧問を務めており、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。

「郷土会」の発足編集

1909年(明治42年)、新渡戸の提唱で「郷土会」が発足した。自主的な制約のない立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。メンバーとして柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤牧口常三郎中山太郎(民俗学者)、前田多門らが加入していた。

国際連盟事務次長編集

1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長の一人に選ばれた[7]。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。

エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラント作業語にする決議案に賛同した。しかしフランスの反対に遭って実現しなかった。同年、バルト海オーランド諸島帰属問題の解決に尽力した。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。

晩年編集

1928年(昭和3年)、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(現新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929年(昭和4年)、学監を務めた拓殖大学から名誉教授号を受ける。

 
札幌農学校時代の仲間と共にメリマン・ハリスの参り。1928年

1932年(昭和7年)、第一次上海事変勃発直後の2月4日に、講演のため訪れた愛媛県松山市で地元新聞記者を前にオフレコで語った

「近頃、毎朝起きて新聞をみると、思わず暗い気持ちになってしまう。わが国を滅ぼすものは共産党か軍閥である。そのどちらが恐いかと問われたら、今では軍閥と答えねばなるまい。軍閥が極度に軍国主義を発揮すると、それにつれて共産党はその反動でますます勢いを増すだろう。共産主義思想はこのままでは漸次ひろがるであろう」

「国際連盟が認識不足だというのか? だが、いったい誰が国際連盟を認識不足にしたのか? 国際連盟の認識不足ということは、連盟本部が遠く離れているのだから、それはあるだろう。しかし、日本としては当然、国際連盟に充分認識せしめる手段を講ずべきではなかったか? 上海事件に関する当局の声明はすべて三百代言的というほかはない。私は、満州事変については、われらの態度は当然のことと思う。しかし、上海事件に対しては正当防衛とは申しかねる。支那がまず発砲したというのか? だから、三百代言としか思えぬというのだ」

との発言が新聞紙上に取り上げられた。当時、日本の海軍省によって日本側からの先制攻撃ではなかったとの発表がなされていたこともあり、軍部や在郷軍人会や新聞等マスメディアから激しい非難を買い、多くの友人や弟子たちも去る。同年、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが、満洲国建国と時期が重なったこともあって「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人から反発を受け、失意の日々を送った。

1933年(昭和8年)、日本が国際連盟脱退を表明。その年の秋、カナダバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加した。会議終了後、当時国際港のあった西岸ビクトリアで倒れ、入院。病名は出血性膵臓炎であった。10月15日に開腹手術が行われるが容態が急変し、午後8時30分にそのまま帰らぬ人となった。享年72(満71歳没)。

右翼や皇室研究者からの批判編集

  • 前項にある「この国を滅ぼすのは軍部の人たちだ」「上海事件は正当防衛ではない」という発言を、右翼思想家から攻撃され「非国民」とまで呼ばれている(松山事件)[8]
  • 武士道』(Bushido: The Soul of Japan)は、天皇陛下へのキリスト教徒の不敬を弾劾した井上哲次郎[9]君が代』と『古事記』を英訳したバジル・ホール・チェンバレンなどから内容を激しく批判された[10]。同著の日本版が刊行された直後にも「古(いにしえ)からの史実を全く無視した、キリスト教徒の考えた自分勝手な思想である」「新渡戸の『武士道』が誤った日本像を海外に広め、あるべき概念を混乱させている」との指摘が、「天皇制を立憲君主制に発展させるべき」を持論とした津田左右吉らによってなされている[11]

人物編集

 
新渡戸稲造と妻メアリー

キリスト教徒(クエーカー)として知られ、一高の教職にある時、自分の学生達に札幌農学校の同期生内村鑑三の聖書研究会を紹介したエピソードもある。その時のメンバーから矢内原忠雄高木八尺南原繁宇佐美毅前田多門藤井武塚本虎二河井道などの著名な教育者、政治家、聖書学者らを輩出した。

非常に交流の幅が広い人物で、著作の一つ『偉人群像』には、伊藤博文桂太郎乃木希典らなどとのエピソードも書かれている。

エリザ・シドモアら、日本研究で訪日した外国人とも深い交流がある。

家族編集

 
妻メアリー・エルキントン

1891年(明治24年)にアメリカ人女性メアリー・エルキントン(Mary P. Elkinton 日本名:万里子)とフィラデルフィアで結婚している。二人の間には遠益(とおます)という長男が生まれたが生後8日で夭折している。養子に孝夫(よしお)がいる。メアリーは、夫に遅れること5年後の1938年9月23日、心臓病のため、療養していた軽井沢の別荘で82歳(満81歳没)で死去した[12]

祖父の新渡戸傳は、幕末期に荒れ地だった盛岡藩領の北部・三本木原(青森県十和田市付近)で灌漑用水路・稲生川の掘削事業を成功させ、稲造の父・十次郎はそれを補佐し産業開発も行った。傳は江戸で材木業を営み成功するといった才能もあった。この三本木原の総合開発事業は新渡戸家三代(稲造の祖父・傳、父・十次郎、長兄・七郎)に亘って行われ、十和田市発展の礎となっている。顕彰のため第二次世界大戦後、十和田市立新渡戸記念館が開設された。

このように新渡戸家は稲造だけでなく傳を始めとした英才を輩出していたが、必ずしも恵まれた境遇ではなかった。稲造の曾祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、祖父・傳も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼり詰めた父・十次郎もまた藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、その失意のあまり病没している。

また、従弟に昆虫学者の新渡戸稲雄がいるが、31歳で早世している[13]

後世編集

生誕の地である盛岡市と、客死したビクトリア市は、新渡戸が縁となって現在姉妹都市となっている[14]

1984年(昭和59年)11月1日に発行された五千円紙幣D号券の肖像に採用された。

年譜編集

 
Bushido: The Soul of Japan (1900)

栄典編集

位階
勲章等

ゆかりの地編集

  • 青森県十和田市には「新渡戸記念館」(かつては市営)[28]が、岩手県花巻市には「花巻新渡戸記念館」[29]がある。
  • 新渡戸稲造没後50年を記念して、盛岡市下ノ橋町の生誕の地に、「新渡戸稲造生誕の地」の銅像が建立された。作者は朝倉文夫
  • 岩手県盛岡市与の字橋(盛岡市役所裏)に、「新渡戸稲造胸像」が建立されている[30]。1976年、当時の千田正岩手県知事、工藤巌盛岡市長らが発起人となった募金活動により設置された[31]。作者は、「アリスの家」のある鎌倉市稲村ガ崎にアトリエを構えていた高田博厚
  • 軽井沢にあった洋館別荘跡地の面する通りは「新渡戸通り」と呼ばれている。駐日米国大使エドガー・バンクロフトは、静養先であったこの別荘で1925年に死去した[32]。またこの別荘にはチャールズ・リンドバーグも訪れており、その折に偶然同じく来日して軽井沢に滞在していたイサム・ノグチと別荘の庭で言葉を交わしている[33][34]。なおメアリー夫人は新渡戸の死去後この別荘で死去している[12]
  • 鎌倉稲村ケ崎にあった別荘跡地は、聖路加看護大学鎌倉セミナーハウス「アリスの家」になっている[35]
  • 新渡戸稲造を縁に盛岡市とビクトリア市は姉妹都市を結ぶ、1995年に姉妹都市提携10周年を記念して、「新渡戸稲造生誕の地」の銅像(朝倉文夫作)から与の字橋の「新渡戸稲造胸像」(高田博厚作)までの中津川右岸沿いの道路が、ビクトリアロードと名付けられた[36]

代表的な著書編集

  • 新渡戸稲造『ウィリアム・ペン傳()』新渡戸稲造、北海道、1894年。「ウィリアム・ペンは名家の裔にして数台つづきて高官に任ぜられ皆世に隠れもなき人々なりき」
  • 農業本論裳華房、1898年(明治31年)9月。
  • Inazo Nitobe (1900). Bushido: the soul of Japan, an exposition of Japanese thought. Philadelphia: The Leeds and Biddle Company 
  • Bushido: the soul of Japan (Revised and enlarged 13th Eiton, 1908) - プロジェクト・グーテンベルク
    • 武士道櫻井鴎村訳、丁未出版社、1908年(明治41年)3月。
    • 武士道矢内原忠雄訳、岩波書店〈岩波文庫 青118-1〉、2007年(平成19年)4月(原著1938年(昭和13年)10月)、第91刷改版。ISBN 4-00-331181-7ハルキ文庫、2014年10月
    • 武士道』矢内原忠雄訳、岩波書店〈ワイド版岩波文庫 35〉、1991年(平成3年)6月。ISBN 4-00-007035-5
    • 武士道 現代語で読む最高の名著奈良本辰也訳・解説、三笠書房知的生きかた文庫〉、1993年(平成5年)2月。ISBN 4-8379-0563-3新装単行判、2013年9月
    • 『いま、拠って立つべき日本の精神 武士道』岬龍一郎訳、PHP研究所、2005年8月17日、第1版第1刷。ISBN 4-569-66427-X
    • 『武士道 現代語訳』、山本博文訳・解説、筑摩書房ちくま新書〉、2010年(平成22年)8月
    • 『新訳武士道 ビギナーズ日本の思想』、大久保喬樹訳、角川ソフィア文庫、2015年(平成27年)5月
  • 随想録』丁未出版社、1907年(明治40年)8月。
  • 修養』実業之日本社、1911年(明治44年)9月。
  • 人生雑感國井通太郎 編、警醒社書店、1915年(大正4年)2月。
  • 『ABCびき日本辞典』井上哲次郎服部宇之吉などとの共編、三省堂、1917年(大正6年)。
  • 東西相触れて』実業之日本社、1928年(昭和3年)10月。

※以下以外にも、様々な出版社から新版再刊されている。

  • 『自警録 心のもちかた』講談社学術文庫、1982年(昭和57年)
  • 『西洋の事情と思想』講談社学術文庫、1984年(昭和59年)
  • 『世渡りの道』文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2015年(平成27年)

全集・選集編集

脚注編集

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  1. ^ 新渡戸伝(つとう、1793-1871)は、陸奥国三本木(現在の青森県十和田市)の開拓者として有名(岡田俊裕『日本地理学人物事典[近世編]』原書房 2011年 107ページ)
  2. ^ 武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは』 李登輝 小学館、2003年
  3. ^ 鈴木満『異国でこころを病んだとき』弘文堂、2012年1月30日、211頁。ISBN 978-4-335-65152-6
  4. ^ 松隈俊子新渡戸稲造』みすず書房、2010年12月20日(原著1969年)、204頁。ISBN 978-4-622-06226-4
  5. ^ 越澤明後藤新平――大震災と帝都復興』筑摩書房〈ちくま新書〉、2011年11月7日、102-107頁。ISBN 978-4-480-06639-8
  6. ^ 産業春秋日刊工業新聞』2018年9月18日(1面)2019年2月27日閲覧。
  7. ^ 組織の上で事務総長に次ぐ地位にあったのは Deputy Secretaries-general(総長代理)とUnder-Secretaries-General(事務次官)で、それぞれ複数任命されていた
  8. ^ 新渡戸稲造「松山市講演録」1932(昭和7)年2月
  9. ^ 『明治三十四年陸軍中央幼年学校講演記録』より「近頃新渡戸稲造と云ふ人が武士道といふ書物を英文で書き~」
  10. ^ アレクサンダー・ベネット『近代国家日本が創り出した武士道』(関西大学 准教授、2010年10月)
  11. ^ 菅野覚明「武士道の逆襲」(講談社・日本放送協会ほか、2004年)
  12. ^ a b 「新渡戸稲造」(北海道新聞社、1985年)255頁
  13. ^ 長谷川 仁(1967)「明治以降物故昆虫学関係者経歴資料集 : 日本の昆虫学を育てた人々」『昆蟲』 35(3号補遺), 1-"98-4"
  14. ^ 盛岡市ホームページ「ウェッブもりおか」のうち「盛岡市ガイド: 太平洋の架け橋に: カナダ・ビクトリア市と姉妹都市」。
  15. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、36頁。
  16. ^ 『官報』第2047号、昭和8年10月26日。『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、43頁。
  17. ^ 官報』第2545号、「叙任及辞令」1891年12月22日。
  18. ^ 『官報』第3963号「叙任及辞令」1896年9月11日。
  19. ^ 『官報』第4578号、「叙任及辞令」1898年10月1日。
  20. ^ 『官報』第6273号「叙任及辞令」1904年5月31日。
  21. ^ 『官報』第7020号、「叙任及辞令」1906年11月21日。
  22. ^ 『官報』第8552号「叙任及辞令」1911年12月21日。
  23. ^ 『官報』第32号「叙任及辞令」1927年2月9日。
  24. ^ 『官報』第6148号、「叙任及辞令」1903年12月28日。
  25. ^ 『官報』第7652号「叙任及辞令」1908年12月26日。
  26. ^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。
  27. ^ 『官報』第2045号「叙任及辞令」1933年10月24日。
  28. ^ 新渡戸記念館(2019年2月27日閲覧)。
  29. ^ 「桃の節句彩る人形 花巻新渡戸記念館で展示」岩手日報』(2019年2月17日)2019年2月27日閲覧。
  30. ^ “中津川に温かい目”. 岩手日報. (1976年11月4日) 
  31. ^ 『美の祝祭』杜陵高速印刷、2009年8月1日、158頁。
  32. ^ 竜門社 編『渋沢栄一伝記資料 第38巻 (社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 第9)』(渋沢栄一伝記資料刊行会, 1961年), 329頁に所収
  33. ^ 新潮 45, 第20巻、第7~8号(新潮社、2001)145頁
  34. ^ Masayo Duus, The Life of Isamu Noguchi: Journey Without Borders, p.133, Princeton University Press, 2006.
  35. ^ 聖路加看護大学施設ガイド
  36. ^ 生誕の地とこの像(新渡戸稲造胸像)を結ぶビクトリアロード”. 盛岡商工会議所(盛岡まちなみスポット). 2022年2月26日閲覧。

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集

公職
先代:
(新設)
  台湾総督府民政部殖産局長心得
1901年 - 1904年
次代:
祝辰巳
先代:
(新設)
  臨時台湾糖務局
1902年 - 1904年
次代:
祝辰巳
先代:
(新設)
  台湾総督府農事試験場
1903年 - 1904年
次代:
藤根吉春
先代:
柳本通義
  台湾総督府民政部物産陳列館
1901年 - 1902年
次代:
(台北庁物産陳列館に改組)
その他の役職
先代:
井上準之助
太平洋問題調査会理事長
1929年 - 1933年
次代:
(廃止→)高野六郎
先代:
(新設)
女子経済専門学校
1928年 - 1933年
次代:
森本厚吉
先代:
足立太一
成美高等女学校長
女子経済専門学校附属高等女学校
1931年 - 1933年
次代:
森本厚吉
先代:
(新設)
東京女子大学
1918年 - 1923年
次代:
安井てつ
先代:
松崎蔵之助
東洋協会専門学校学監
拓殖大学学監
1917年 - 1922年
東洋協会植民専門学校学監
1917年
次代:
松岡均平