毛利 元運(もうり もとゆき)は、江戸時代後期の大名長門国長府藩12代藩主。

 
毛利元運
毛利元運
時代 江戸時代後期
生誕 文化14年12月9日1818年1月15日
死没 嘉永5年閏2月27日1852年4月16日
改名 雅之助、元運
戒名 賢徳院殿荷覚観汀大居士
墓所 山口県下関市長府の功山寺
東京都港区高輪泉岳寺
官位 従五位下左京亮甲斐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
長門長府藩
氏族 毛利氏
父母 毛利元義、林香院
兄弟 元寛元運元承、政子、細川義邵正室ら
正室:欽子土屋彦直の娘)
安子元敏元功、鏻子
養子:元周
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経歴

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11代藩主・毛利元義の三男として江戸にて誕生。幼名は雅之助。

文政10年(1827年)、兄の元寛が早世したために長府藩嗣子となる。天保2年(1831年)に叙任して左京亮と称し、天保12年(1841年)9月21日の父の隠居により跡を継いだ。藩政では節約や海防警備、軍事力の強化に努めた。嘉永5年(1852年)閏2月27日、江戸で死去し、跡を甥(元寛の子)で養子の元周が継いだ。法号は賢徳院殿荷覚観汀大居士。墓所は東京都港区高輪泉岳寺山口県下関市長府功山寺

死因に関して

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喜多村信節安政年中の著作「ききのまにまに」では、死因は自殺であったと記載している。同じ柳間席の某大名を無理に誘って品川にて遊興し、それを役筋に咎められたのを苦に自害したとしている。また、実は家老が元運を殺害し、後追い自殺をしたという風説も流れたとされる。

系譜

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参考文献

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  • 「未刊随筆著作百種・六」