池田政純
池田 政純(いけだ まさずみ)は、岡山藩の家老。天城池田家第6代当主。
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 宝永3年6月10日(1706年7月19日) |
死没 | 明和3年5月26日(1766年7月2日) |
改名 | 長千代、豊次郎、政純 |
別名 | 通称:和泉、号:琴調 |
戒名 | 徳雲院前泉州逸嶽崇俊大居士 |
墓所 | 天城池田家墓所(岡山県倉敷市) |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 備前岡山藩 |
氏族 | 池田氏(岡山池田家→池田内膳家→天城池田家) |
父母 | 父:池田綱政、母:栄光院 |
兄弟 | 吉政、軌隆、政順、継政、政純、恒行、娘(堀田正仲正室)、娘(本多忠国正室)、品子(毛利吉元正室)、菊(山内豊房継室)、春子(立花鑑任正室) |
妻 | 正室:豊子(松平綱国養女) |
子 |
幸子、国子、静子(一条道香正室)、政辰、美恵子(池田政員室のち旗本滝川一道室)、滝川一洪、明命、唯子(養子政喬室) 養子:政喬 |
生涯編集
宝永3年(1706年)、岡山藩第3代藩主池田綱政の子として岡山で生まれる。宝永6年(1709年)、池田内膳武憲の家督を相続するも、同年に藩主世子の兄政順が死去し、天城池田家を継いでいた同母兄保教(継政)が実家に戻り藩主世子となったため、翌宝永7年(1710年)代わって天城池田家由勝の家督を相続した。
正徳4年(1714年)、兄継政が藩主となると、翌正徳5年(1715年)母栄光院とともに幕府の証人となる。享保5年(1720年)、許されて国許に戻り、分家並の待遇を受ける。元文2年(1737年)、継政が正室和子(伊達吉村の娘)と離婚した際に、伊達家側から幕府に、池田家内で家老たちが不行跡の藩主継政を押込め、その嫡子宗政(和子の子)を毒殺し、継政の弟政純を藩主に立てようと図っているとの風聞が伝えられている。
明和3年(1766年)5月26日没。享年61。嫡子政辰は先立って没していたため、娘唯子の夫政喬(継政の次男)が政純の養子となり、家督相続した。墓所は天城池田家墓所(岡山県倉敷市)。
人物編集
兄継政(俳号雪扇子)と同じく、和歌や俳句を好み、俳号を琴調と名乗った。
系譜編集
子孫編集
政純の外孫八代君(一条道香と静子の娘)[2]は水戸藩主徳川治保に嫁ぎ、治紀をもうけ、その子孫は水戸徳川家などに血脈を伝えている。最後の将軍徳川慶喜やその弟の鳥取藩主池田慶徳と岡山藩主池田茂政、また尾張藩主徳川慶勝は政純の来孫にあたる。慶徳以降の鳥取池田家当主は、最後の当主である百合子に至るまで、政純の血筋である(慶徳―輝知…仲博―徳真―百合子)。
池田政純 | 静子 | 八代君 | 徳川治紀 | 斉昭 | 慶喜 | 池田仲博 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳真 | 百合子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
池田慶徳 | 輝知 | 亨子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
池田茂政 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
規姫 | 徳川慶勝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参考文献編集
- 『池田老臣累記』
- 『備前家老略伝』
- 『池田氏家譜集成』
- 『華族系譜20』