物部 長真胆(もののべ の ながまい)あるいは稚桜部 長真胆(わかさくらべ の ながまい、生没年不詳)とは、日本古代の5世紀前半の豪族、のちに

記録 編集

日本書紀』巻第十二によると、履中天皇は3年の冬、完成したばかりの磐余池(磐余市磯池)に両俣船(ふたまた)を浮かべて遊宴をしたのだが、その折りに、天皇の盃に季節外れの桜の花が紛れ込み、天皇は不思議に思い、長真胆に命じて、

「是(こ)の花、非時(ときじく)にして来(きた)れり。其(そ)れ何処(いどこ)の花ならむ。汝(いまし)、自(みづか)ら求むべし」 (「この花は咲くべきでないときに散ってきた。どこの花だろうか。お前が探してこい)

と言われた。

長真胆は花を尋ねて、「掖上室山」(わきのかみのむろのやま)で桜の木を見つけ、献上した。この地は『和名類聚抄』によると、大和国葛上郡牟婁郷、現在の奈良県御所市室付近だとされている。

天皇は喜んで、宮の名前を「磐余稚桜宮」と命名し、長真胆に「稚桜部造」の氏姓を与えた。この時に天皇に酒を酌んだ膳余磯(かしわで の あれし)も「稚桜部臣」の氏姓を得ている[1]

古事記』には、

亦此(こ)の御世(みよ)に、若桜部臣等に若桜部の名を賜ひ

とのみ記述されている[2]

若桜部造氏は、『新撰姓氏録』によると、「右京神別」に神饒速日命の「三世孫出雲色男命之後也」とある。684年の(天武天皇13年)八色の姓では新しい姓を受けてはいない。

脚注 編集

  1. ^ 『日本書紀』履中天皇3年11月6日条
  2. ^ 『古事記』下巻 履中天皇条

参考文献 編集

関連項目 編集