パヴェウ・ストシェレツキ

サーパヴェウ・エドムント・ストシェレツキ(Sir Paweł Edmund Strzelecki KCMG CB FRS FRGS (ポーランド語発音: [ˈpavɛw ˈɛdmunt stʂɛˈlɛt͡skʲi]1797年6月24日 - 1873年10月6日)、別名ポール・エドマンド・ド・ストルゼレッキ (Paul Edmund de Strzelecki) は、ポーランド[1][2]探検家地質学者[3]1845年イギリス国籍を取得した。姓はストルゼレスキ、ストルゼレツキ、ストレゼレッキなどとも表記される。

パヴェウ・エドムント・ストシェレツキ

生い立ち 編集

ストシェレツキは、1797年に、当時南プロイセンドイツ語版と称されていた、現在のヴィエルコポルスカ県ポズナンノヴェ・ミャスト英語版(「ニュータウン」の意)の一部に位置するグウシナポーランド語版で、ポーランドの貴族(シュラフタ)で地主であった父フランチシェク・ストシェレツキ (Franciszek Strzelecki) と、その妻アンナ・ラチンスカ (Anna Raczyńska) の間の第三子として生まれた[4]オーストラリアでは、ストシェレツキは「カウント (Count)」(「伯爵」の意)と通称されたが、本人がそのように呼ばれることを是としたとも、自ら名乗ったとも、証明する材料はない。

ストシェレツキは、短期間だったが、プロイセン王国の陸軍で第6テューリンゲン連隊ウーラン(ポーランド軽騎兵)として軍務に就いたが、当時この連隊にはポーランド人が多く、ポーランド連隊と称されるほどであった。しかし、プロシア人の指揮官はストシェレツキの性格を容認しなかったので、ストシェレツキは除隊を申し出て、帰郷した。一説には[5]、彼が連隊を除隊となっているにもかかわらず、連隊の公式の記録にはストシェレツキの名がいっさい現れないともいわれている[6]。その後、程なくして、彼は地元の別の貴族の家に家庭教師として雇われた。彼は、その教え子であった15歳の生徒アディナ・トゥルノ (Adyna Turno) に恋をしてしまうが、父親に求婚者として拒まれた。

1834年6月8日、ストシェレツキはリヴァプールからニューヨークへと出帆した。その後、北アメリカ南アメリカキューバタヒチ島などを広く旅行し、ニュージーランドにも、おそらくは1839年はじめに到着した[4]

オーストラリア 編集

 
ジンダバイン英語版にあるストシェレツキの立像。

1839年4月25日、ストシェレツキはシドニーに到着した。彼はニューサウスウェールズ植民地総督だったサージョージ・ギプスの求めに応じ、ギプスランド地域(今日のビクトリア州東部)の地質学鉱物学調査を行なうこととなり、そこで数多くの発見をした。1839年には、も発見したが、ギプスは金発見という事実が植民地に及ぼす影響をおそれ、ストシェレツキを説得してこの発見を秘密にさせた。

1839年の遅い時期には、オーストラリアアルプス山脈の探険に出向き、スノーウィー山脈英語版の踏査を、ジェイムズ・マッカーサー (James Macarthur) とジェイムズ・ライリー (James Riley)、および、アボリジニのガイドであるチャールズ・タラ (Charlie Tarra) とジャッキー (Jackey) のふたりとともに行った。1840年には、オーストラリア大陸最高峰に登頂し、ポーランドの英雄のひとりでアメリカ独立戦争の英雄でもあったタデウシュ・コシチュシュコを讃えて、コジオスコ山と命名した。ニューサウスウェールズの地図ではそのようなことは起こらなかったが、ビクトリア植民地の地図では、コジオスコ山の名が誤って隣の峰、後のタウンゼント山の位置に書き込まれたことがあり[7]、その後、様々な混同が生じることとなり、近年でも、山々の名称の変遷をめぐる不正確な情報が流布する一因となっている[8]

ストシェレツキはここから、ギプスランドを通って旅を続けた。ラトローブ川英語版を過ぎた時点で、馬と、それまでに収集してきたすべての標本類を放棄して、ウェスタン・ポート英語版への到達を試みる必要があることが明らかになった。一行は22日間にわたって、飢餓の危機に瀕しながら、もっぱらガイドのチャーリーの狩猟に関する知識と技術に頼る形で、彼が捕獲した野生動物を食べて命を繋いだ。一行は、披露困憊の態で、ウェスト・ポートに1840年5月12日に到達し、5月28日には、メルボルンに到着した。

1840年から1842年にかけて、当時ヴァン・ディーメンズ・ランドと称されていたタスマニア島ローンセストンに拠点を置き、ストシェレツキは、通常は徒歩により、3人の従者と荷運びの馬2頭を連れて、この島のほとんどの部分を探険した。タスマニア植民地の副総督 (Lieutenant-Governor)サージョン・フランクリンとその妻レディジェーン英語版[9]、ストシェレツキの科学的な取り組みに対してあらゆる援助を惜しまなかった。

ストシェレツキは、1842年9月29日にタスマニアを汽船で離れ、10月2日にシドニーに到着した。同年末には、ニューサウスウェールズ北部で標本採集に従事し、1843年4月22日にシドニーを出発して、ニューサウスウェールズ、ビクトリア、タスマニアまで、11,000キロメートル (7,000マイル)を縦断しながら、行程の沿道において地質調査を行った。その後、中国東インド諸島エジプトを回ってから、イングランドに戻った。1845年、『Physical Description of New South Wales and Van Diemen's Land』(「ニューサウスウェールズおよびヴァン・ディーメンズ・ランドの物理的(地形的)描写」の意)を出版し、1846年5月には、王立地理学会 (RGS) から金メダル(創立者メダル)を授与された[10]

1845年、ストシェレツキは、イギリス帰化した。

ヨーロッパ 編集

アイルランドジャガイモ飢饉が深刻化しつつあった1846年末にかけて、イギリス救援協会英語版は、総額£500,000 を被災者支援のために用意した。ストシェレツキは協会の代理人のひとりに任じられ、スライゴ県メイヨー県で物資の配給を監督した。ストシェレツキはこの職務に打ち込み、一時はチフス(「飢饉熱 (famine fever)」と称されていた)に倒れながらも、これを成功させた。1847年から1848年にかけて、彼はダブリンで、協会の唯一の代理人として職務を続けた。この職務が評価されて、1848年11月にバス勲章 (OB) を授与された。彼は、貧困状態に陥ったアイルランド人家族がオーストラリアで新た生活を開いていく支援を行った。また、クリミア戦争の負傷兵の支援にも活発に取り組み、フローレンス・ナイチンゲールと個人的な知り合いにもなった。

1849年ロンドンに戻ると、彼は王立地理学会のフェローとなり、「オーストラリア南東部の探険」の功績に対して金メダルを贈られた。学会は今も、彼が作成したニューサウスウェールズとタスマニアの巨大な地質図を、公開展示している。彼は王立協会のフェローにもなった。こうして、フィランソロピストとしてのみならず、探検家としても、広く認知されるようになっていった。

ストシェレツキは1873年にロンドンで、肝臓がんのために死去し、ケンザル・グリーン墓地英語版に葬られた。1997年、彼の亡骸はポーランドの故郷ポズナンの聖ヴォイチェフ教会 (Kościół św. Wojciecha w Poznaniu)の納骨堂に改葬された。

受賞と栄誉 編集

ストシェレツキはオックスフォード大学から名誉博士号を与えられ、バス勲章コンパニオン級を受章し (CB)、1869年には聖マイケル・聖ジョージ勲章 (KCMG) を受章してナイトに叙された[11]

1983年オーストラリア郵便公社は、ストシェレツキの肖像を描いた切手を発行し、その栄誉を称えた[12]

エポニム 編集

オーストラリア 編集

カナダ 編集

  • ストルゼレッキ湾 (Strzelecki Harbour)

著作 編集

  • Physical Description of New South Wales. Accompanied by a Geological Map, Sections and Diagrams, and Figures of the Organic Remains (London, 1845).

脚注 編集

  1. ^ Iłowiecki, Maciej (1981). Dzieje nauki polskiej. Warszawa: Wydawnictwo Interpress. p. 165. ISBN 83-223-1876-6 
  2. ^ Retinger, Józef Hieronim (1991). Polacy w cywilizacjach świata do końca wieku XIX. Gdańsk: Krajowa Agencja Wydawnicza. p. 191. ISBN 83-03-03362-X 
  3. ^ “He found Gippsland”. The Argus (Melbourne, Victoria: National Library of Australia): p. 8. (1954年1月16日). http://nla.gov.au/nla.news-article26585171 2012年4月30日閲覧。 
  4. ^ a b Serle, Percival [in 英語] (1949). "Strzelecki, Sir Paul Edmund de". Dictionary of Australian Biography (英語). Sydney: Angus & Robertson.
  5. ^ Heney, Helen (1967). "Strzelecki, Sir Paul Edmund de [Count Strzelecki]". Australian Dictionary of Biography (英語). Canberra: Australian National University.
  6. ^ Paszkowski, Lech, Sir Paul Edmund de Strzelecki. Arkadia, Australian Scholarly Publishing 1997.
  7. ^ Dowd, B.T. 'The Cartography of Mount Kosciusko', Journal of the Royal Australian Historical Society vol. 26 Part I (1940) pp. 97–107
  8. ^ Mountain Systems (Orography) of Australia, Year Book Australia 1910, Australian Bureau of Statistics
  9. ^ Maloney, Shane (June 2010). “Count Paul Strzelecki & Lady Jane Franklin”. The Monthly (57): 74. ISSN 1832-3421. 
  10. ^ List of Past Gold Medal Winners” (PDF). Royal Geographical Society. 2016年11月8日閲覧。
  11. ^ "No. 23512". The London Gazette (英語). 1 July 1869. p. 3750.
  12. ^ Stamp depicting Strzelecki

参考文献 編集

  • Sir Paul Edmund de Strzelecki. Reflections of his life by Lech Paszkowski, Australian Scholarly Publishing, 1997, ISBN 1-875606-39-4
  • Kosciusko The Mountain in History by Alan E.J. Andrews Tabletop Press, Canberra 1991, ISBN 0-9590841-2-6
  • Paul Edmund Strzelecki and His Team. Achieving Together by Ernestyna Skurjat-Kozek & Lukasz Swiatek, FKPP, Sydney 2009, ISBN 978-0-646-51234-1
  • Sir Paul E. Strzelecki: A Polish Count's Explorations in 19th Century Australia by Marian Kaluski, A E Press, Melbourne, 1985, ISBN 0-86787-039-7

外部リンク 編集