湯 爾和(とう じわ)は中華民国の政治家・医師。北京政府の要人。後に中華民国臨時政府に参加し、議政委員長などをつとめた。名はだが、爾和で知られる。別の字は調鼐。晩年は六松老人と号す。

湯爾和
Who's Who in China Suppl. to 4th ed. (1933)
プロフィール
出生: 1878年光緒4年)[1]
死去: 1940年民国29年)11月8日
中華民国北京特別市
出身地: 浙江省杭州府余杭県
職業: 政治家・医師
各種表記
繁体字 湯爾和
簡体字 汤尔和
拼音 Tāng Ĕrhé
ラテン字 T'ang Er-ho
和名表記: とう じわ
発音転記: タン アルホー
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事跡 編集

1900年光緒26年)、杭州の養正書院で学ぶ。1902年(光緒28年)、日本に留学して、成城学校で学んだ。1904年(光緒30年)に帰国し、浙江高等学堂で音楽教員をつとめる。1907年(光緒33年)に再び日本に留学し、金沢医学専門学校で学ぶ。卒業後はドイツのベルリン大学医学院で学んだ。1910年宣統2年)に帰国し、咨議局議員に選出された。その傍ら、浙江病院副院長兼内科医師などもつとめている。

1911年(宣統3年)12月、湯爾和は浙江軍政府を代表して、各省都督代表会議に出席した。さらに南京で開催された各省代表者会議で臨時議長に推戴されている。1912年民国元年)10月、国立北京医学専門学校の設立準備に携わり、創設後は校長に任じられた。1915年(民国4年)、中華民国医薬学会が発足するとともに、その会長となった。1920年(民国9年)、欧州に視察に赴いている。

1922年(民国11年)7月、北京政府で署理教育部次長に任じられる。9月から11月まで署理教育総長もつとめた。1923年(民国12年)9月、関東大震災が発生すると、中国紅十字会と共に日本へ赴き、華僑の救済に従事した。1926年(民国15年)10月、署理内務総長となる。翌年12月には財政総長となった。

北京政府崩壊後の1929年(民国18年)3月に日本へ遊学し、医学博士を取得している。翌年に帰国し、東北辺防軍司令長官公署参議となった。1933年(民国22年)、駐北平政務整理委員会委員として、塘沽協定の締結に関与した。1936年(民国25年)7月、冀察政務委員会委員に任命される。

1937年(民国26年)12月、王克敏らの中華民国臨時政府に参加し、議政委員会委員長兼教育総長に任命された。 1938年(民国27年)8月には、日中文化の提携を目指して設立された東亜文化協議会会長に就任[2]1939年(民国28年)には、北京大学総監督も兼任している。同年末に呉佩孚が死去すると、その葬式で弔辞をささげた。

1940年(民国29年)3月に汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府が成立し、臨時政府もこれに合流する。湯爾和は華北政務委員会常務委員兼教育総署督弁、東亜文化協会会長となった。6月には、憲政実施委員会常務委員もつとめている。

湯爾和は王克敏の後継者と目されていたが、同年11月8日、北京特別市で病没した。享年63。湯の妻は日本人で、湯自身、日本語に流暢であった。

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湯爾和(『最新支那要人伝』1941年)
  1. ^ 『最新支那要人伝』166頁は1877年生まれとするが、本記事は徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』に従う。
  2. ^ 日中文化提携目指して、会長に湯爾和『東京日日新聞』1938年(昭和13年)8月30日

参考文献 編集

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
   中華民国北京政府
先代
王寵恵
教育総長(署理)
1922年9月 - 11月
次代
彭允彝
先代
張国淦
内務総長(署理)
1926年10月 - 1927年1月
次代
胡惟徳
先代
潘復
財政総長
1927年1月 - 6月
次代
閻沢溥
   中華民国臨時政府
先代
(創設)
議政委員会委員長
1938年1月 - 1940年3月
次代
(廃止)
先代
(創設)
教育総長
1937年12月 - 1940年3月
次代
(廃止)
   南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
華北政務委員会
教育総署督弁
1940年3月 - 11月
次代
周作人