畠山 長経(はたけやま ながつね)は、戦国時代武将守護大名河内国守護畠山氏(尾州家)当主。畠山尚順の次男で稙長の弟、政国晴熙らの兄。官位左京大夫

 
畠山長経
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文5年(1536年)?
官位 左京大夫
幕府 室町幕府 河内守護
主君 足利義晴
氏族 畠山氏(尾州家)
父母 畠山尚順
兄弟 稙長長経政国晴熙晴国基信
細川晴宣大内義興室、徳大寺公胤室、
日野内光
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生涯編集

「両畠山系図」によると尚順の次男であり、当初は紀伊に在国し、宮原長経を称していたようであるが、弟の石垣政氏を滅ぼしたのちは石垣氏を称したという。

天文3年(1534年)8月、兄・稙長に代わり、12代将軍・足利義晴御内書を得た長教によって守護に擁立される。これは細川高国残党の細川晴国・本願寺と連携して細川晴元に対抗し続ける稙長が、晴元との妥協を模索する守護代遊佐長教と対立したためと思われる。

その後の長経の動向は殆ど見えず、天文5年(1536年)5月には弟・晴熙が高屋城に入っていることが確認される。ただし、晴熙は間もなく屋形号を上表(辞退)しており、正式に義晴や晴元から家督として承認されなかったようである。

長経は遊佐長教・木沢長政に殺害されたとされるが、これは『足利季世記』・『続応仁後記』などの後世の軍記にしか見えず、当時の年代に近い史料では確認できない。また、その原因として応仁の乱以来続く畠山氏の分裂状態に終止符を打つべく河内を2分して、対立する尾州家・総州家両派から1人ずつ守護を立てるという長教の提案に激しく反発したとされることもあるが、やはり同時代史料で確認できるわけではない。何れにせよ天文5年時点で失脚ないし死亡したものと思われる。

天文7年(1538年)、晴熙に代わって畠山弥九郎なる人物が尾州家当主にされ、総州家から畠山在氏が当主に擁立された。両者は河内半国守護となり、長教・長政がそれぞれの守護代として実権を握った。

参考文献編集

関連項目編集

先代:
畠山稙長
河内畠山氏 (尾州家)
畠山長経
次代:
畠山晴熙