百拙元養

江戸時代の画僧

百拙元養(ひゃくせつ げんよう、寛文8年10月15日1668年11月19日) – 寛延2年9月6日1749年10月16日))は、江戸時代の画僧。文人画風の水墨画を善くした。

百拙元養
1668年 - 1749年
尊称 海雲百拙禅師
生地 京都
宗派 臨済宗正宗(黄檗宗)
寺院 天王山仏国寺萬福寺・大雲山興国寺・宝寿山龍象寺・海雲山法蔵寺
大随道亀
弟子 月船浄潭
著作 『破草鞋』・『竹陰詩藁』・『露の衣』

俗姓は原田。法諱を元養。一時元椿としたが再び元養とし、道号を百拙と称した。雅号に釣雪・葦庵叟・葦庵山人など。京都の人。

略歴編集

原田家の次男として京都に生まれる。本貫丹波にあり明智光秀を祖に持つという。6歳にして両親を失い、叔父に養育された。15歳で臨済宗東海祖津に就いてに出家。

初名を子蓮のちに祖蓮と称した。すぐのち東海が武蔵三聖寺住持鎌倉円覚寺後堂になるに、侍者として随った。

貞享3年(1686年)、東海が南禅寺塔頭帰雲院の住持になるに随う。南禅寺では東禅院住持の大随玄機(にちの道亀)と霊芝山光雲寺住持の英中元賢の鉗鎚[1]を受ける。この二人の師はすでに黄檗宗に傾倒し大随は隠元隆琦木庵性瑫に参じていた。百拙も独湛性瑩に参堂し影響を受ける。大随が英中の薦めで黄檗宗[2]に転派したためこれに従い、大随とともに天王山仏国寺(京都市伏見区)の高泉性潡の許に身を投じた。

元禄5年(1692年)、高泉が宇治萬福寺の第5代住持になるにともない大随は書記・百拙は侍者としてこれに随った。元禄8年(1695年)、江戸柳原(千代田区岩本町)の大随が構えた楊岐庵に寓居。翌9年(1696年)に大随に嗣法、この頃元椿と称した。奥州二本松甘露山珊瑚寺[3]・仏国寺に連れ随った。

宝永2年(1705年)、大随が仏国寺を退いた後もその地に留まり紫野(京都市北区)に楊岐庵を構えた。同じ頃、近衛家熙烏丸光栄公家の帰依を受ける。正徳5年(1715年)、48歳で仏国寺第9代住持を務め、享保3年9月(1718年)には但馬の大雲山興国寺[4]の第5代住持[5]となった。享保4年(1724年)、京都に戻ると近衛家熙の岡崎の別荘を預かり、公家の文化サロンに加わり和歌に親しんだ。

その後大和の宝寿山龍象寺[6]奈良市帯解本町)を復興し禅寺とした。家熙の信任篤く、享保18年(1733年)には洛西鳴滝泉谷に近衛家の菩提寺として海雲山法蔵寺を復興し、大随を開山祖師として自らは初代住持となった。この地はかつて尾形乾山が窯を開いたところで書人桑原空洞の所有地を近衛家で購入したものだった。

元文4年(1739年)に黄檗第13代竺庵浄印が退隠すると、長老として泰洲道香などと黄檗山監寺となり、翌5年に黄檗の歴史で初の和僧住持となった第14代龍統元棟によって首座を任じられた。

寛延2年(1749年)、法蔵寺に示寂する。82歳。法嗣月船浄潭は『海雲第一代百拙禅師行状』を伝えている。

百拙は、修行の傍らで詩文書画を善くした。画は禅僧らしく道釈画[7]頂相[8]が残されるが、中国文人画風の四君子山水図など水墨画を得意としのちに田能村竹田が「頗る韵致あり」と嘆賞している。舶載された画譜『八種画譜』の模写も多い。

著作編集

  • 『百拙禅師語録』
  • 『百拙禅師続録』
  • 紀行集『破草鞋』
  • 詩集『竹陰詩藁』
  • 詩集『漁家傲』
  • 詩集『新漁家傲』
  • 詩集『東麓樵集』
  • 詩集『西山晩草』
  • 歌集『露の衣』
  • 『釣雪間稿』
  • 『葦庵文稿』
  • 『奏対録』

作品編集

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  1. ^ 禅の用語。厳しく教えを受けること。
  2. ^ 江戸時代は「臨済正宗」と称したが明治7年に明治政府によって「臨済宗黄檗派」に強制的に変更され、2年後黄檗宗に改称した。
  3. ^ 二本松藩藩主丹羽光重の要請を受け高泉性潡が二伊滝に開山。のちに廃寺となる。
  4. ^ 興国寺は豊岡藩藩主京極高住が高泉を勧請し元禄13年(1692年)に開山した。明治期に廃寺となった。
  5. ^ 享保2年秋、師大随が興国寺に示寂し赴いたところ京極高住に請われて住持となった。
  6. ^ 天平2年(730年)行基の開基とされる。
  7. ^ 十六羅漢図・布袋図・寒山拾得図など。
  8. ^ 黄檗画像もあるが、墨画像も画いた。
  9. ^ 和僧として自賛が確認できる最初の作品。自賛の習慣は日本において渡来僧即非如一が初めて先鞭をつけた。
  10. ^ 城之崎に至るまでの名所図巻。ところどころに瀟湘八景を盛り込み文人の紀遊図に倣う意識がみえる。文人画真景図のさきがけ的作品。

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集