石橋幹一郎

日本の実業家

石橋 幹一郎(いしばし かんいちろう、1920年大正9年)3月1日 - 1997年平成9年)6月30日)は、日本の実業家ブリヂストンの社長・会長を務めた。ブリヂストンタイヤ創業者の石橋正二郎の長男。

来歴・人物 編集

石橋正二郎の長男として福岡県久留米市に生まれる。旧制・中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)、福岡高等学校九州大学教養部の前身)を卒業後、1年間の浪人を経て1937年、東京帝国大学に進学。1943年に東京帝国大学法学部を卒業後、海軍主計科の短期現役(略称「短現」)に志願して海軍経理学校入学。1944年卒業。1945年に高等文官試験に合格するが、ブリヂストンタイヤに入社。7年間の工場勤務を経て、1952年に副社長に就任。1963年社長就任。1973年会長就任。1979年日本品質管理学会会長。1983年にはアメリカファイアストン買収を主導するなど、ブリヂストンを世界的企業に成長させた。資本と経営の分離を標榜し、自身が会長に就任した際には、石橋家以外から社長を抜擢するなど同族企業からの脱皮も図った。1985年に名誉会長に就任し代表権を返上。1989年から1991年まで日本経済団体連合会副会長を務める。1995年に私財を投じて久留米市の石橋美術館の別館を寄贈。1997年に相談役に就任。その直後の6月30日に77歳で死去。墓所は多磨霊園(9区1種7側2番)[1]

プリンス自動車役員 編集

富士精密工業(たま自動車と合併前)の首脳陣一覧 編集

 
昭和27年(1952年)3月、東京京橋ブリヂストン・ビルでのプリンス車の発表展示会にて。たま自動車の首脳陣(「プリンス自動車工業」への社名変更や、富士精密工業との合併前)。左から外山保(専務 元立川飛行機試作工場長)、鈴木里一郎(社長)、石橋正二郎(会長 ブリヂストン社長)、石橋幹一郎(常務)。当時、石橋父子は、たま自動車と富士精密工業の役員を兼ねた。尚、たまと富士精密は後に対等合併し、富士精密工業を存続会社とした。

富士精密工業役員(1951年(昭和26年)4月30日時点)は、以下の通り(※岡本和理-(中島飛行機出身。プリンス自動車工業動力機構部長、日産中央研究所排気研究部長、日産工機社長、オーテックジャパン顧問を歴任)による)。

  • 取締役会長 石橋正二郎
  • 取締役社長 団伊能
  • 取締役副社長 上条憲治
  • 取締役専務 新山春雄
  • 取締役常務 石橋幹一郎・天瀬金蔵・今井一雄・柴本重理・中川良一
  • 監査役 重田益次・加嶋五郎

※上述の岡本の文献より、当時石橋幹一郎も名を連ねている事が分かる[2]。 また、幹一郎は、プリンス・セダンや、S6系プリンス・グロリア試作車まで、プリンスの新車発表会や完成記念撮影の場に、父正二郎と共にたびたび現れていることも確認出来る。

親族 編集

叙勲 編集

名誉市民 編集

  • 1989年(平成元年)- 久留米市名誉市民。

遺産相続 編集

ブリヂストン株式5000万株、土地、建物、美術品等の評価総額1646億円を遺したが、子供3人で相続した際に、相続税額が約1035億円となり、1998年(平成10年)当時の最高額となった[3]

脚注 編集

  1. ^ 歴史が眠る多磨霊園『石橋幹一郎』”. 多磨霊園著名人研究家 小村大樹. 2023年9月29日閲覧。
  2. ^ 岡本和理著 『エンジン設計のキーポイント探究』平成13年(2001年)6月1日発行(非売品)
  3. ^ 出典:1998年(平成10年)6月23日夕刊 日本経済新聞

参考文献 編集

  • 石橋幹一郎追悼集刊行委員会編 『石橋幹一郎 思い出と素顔』石橋幹一郎追悼集刊行委員会、1999年(平成11年)


先代
石橋正二郎
ブリヂストンタイヤ社長
1963年 - 1973年
次代
柴本重理
先代
木暮正夫
日本品質管理学会会長
1979年 - 1980年
次代
草場郁郎