京橋 (東京都中央区)
京橋(きょうばし)は、東京都中央区の地名で、旧京橋区にあたる京橋地域内である。または地域名である。
京橋 | |
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— 町丁 — | |
京橋駅 7番出入口明治屋ビル | |
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座標: 北緯35度40分34.39秒 東経139度46分14.58秒 / 北緯35.6762194度 東経139.7707167度 | |
国 | ![]() |
都道府県 | ![]() |
特別区 | ![]() |
地域 | 京橋地域 |
人口 (2017年(平成29年)12月1日現在)[1] | |
- 計 | 299人 |
等時帯 | 日本標準時 (UTC+9) |
郵便番号 | 104-0031[2] |
市外局番 | 03[3] |
ナンバープレート | 品川 |
目次
京橋(町名)編集
「京橋」の地名の由来は、かつて存在した京橋川に架けられていた中央通りの橋である。かつては文化の拠点でもあったため、東京15区時代の区名や今日においても地域名として使用される。
かつての橋としての京橋は、日本橋と並ぶ名橋であり、日本橋より東海道にて京都方向に向かう場合、街道で最初に渡る橋であったとして重要な意味合いをもっていた。
現在の京橋はオフィス等が多く立ち並び、京橋地域の北側に位置する。
歴史編集
橋は明治以降、1875年(明治8年)、1905年(明治38年)、1922年(大正11年)に架け替えられている。
1875年(明治8年)東海道である中央通りの京橋川に、肥後の石工である橋本勘五郎によって、石造りのアーチ橋が架けられ地域のランドマークとなった。翌年には、京橋から新橋にかけて煉瓦街が完成し、やがてモダンな銀座と従来の町並みが残る守旧的な日本橋の接点として位置づけられるようになる。馬車鉄道の軌道が複線で併設された大型の橋であったが、交通量の増加などに対応して掛け替えが行われている。
1931年(昭和6年)に、町名としての京橋が誕生した。中橋広小路町・南伝馬町一丁目 - 三丁目とその周辺の計19町域を区画整理した際、京橋がその新町名に選ばれ、京橋一丁目 - 三丁目が誕生した。当時の京橋の町域は現在のおよそ半分程度の面積である。
1959年(昭和34年)に京橋川は埋め立てられ、それにともない京橋自身も親柱を除き撤去されることとなった。現在は河川の埋め立て箇所に東京高速道路が敷設されており、日本橋同様に京橋跡の直上を通っている。
1978年(昭和53年)の住居表示実施の際に東に隣接する宝町の町域が加わり、今日の京橋の町域となった。
世帯数と人口編集
2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
京橋一丁目 | 67世帯 | 77人 |
京橋二丁目 | 100世帯 | 140人 |
京橋三丁目 | 63世帯 | 82人 |
計 | 230世帯 | 299人 |
小・中学校の学区編集
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[4]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
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京橋一丁目 | 全域 | 中央区立城東小学校 | 中央区立銀座中学校 |
京橋二丁目 | 全域 | ||
京橋三丁目 | 全域 |
地域編集
- 京橋消防署 - 同所在地周辺の管轄にあたる。
- 味の素本社
- オービック本社
- 兼松エレクトロニクス本社
- 清水建設本社
- 大成有楽不動産本社
- 大日本住友製薬東京本社
- 東邦銀行東京支店
- 東洋インキSCホールディングス本社
- 戸田建設本社
- 巴川製紙所本社
- パイロットコーポレーション本社
- ブリヂストン本社
- 明治ホールディングス(Meiji Seika ファルマ)本社
- 明治本社 - 京橋エドグラン内にある。
- 明治屋本社
- HIDEMI SUGINO - 2002年開店の杉野英実によるパティスリー。杉野自身は東洋人初のルレ・デセール会員。
- かつての企業
観光編集
- 商業施設
交通編集
- 首都高速道路・出入口
京橋(地域)編集
画像一覧編集
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京橋1丁目8(旧・南伝馬町一丁目)にあった歌川広重の自宅から眺めた七夕の図