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生涯編集

内務省の官吏の息子として東京市に生まれる。1910年麹町番町小学校に入学。父の転勤に伴って日本国内各地を転々とした末、父は台湾へ赴任。清も台湾の日本人学校に学ぶ。内向的で孤独な少年だった。1912年、父をマラリアで失う。

1916年、東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)に入学。このころ、母方の伯母を頼って北村家に同居。従兄の北村寿夫の影響で文学に親しむ。中学で、終生の友人竹山道雄と知り合う。

1920年、旧制第一高等学校に入学。堀辰雄と知り合う、親交は終生続き、堀の没後には全集の編集を担当した。建築家志望だったが、フランス象徴詩に熱中し、文学志望に転向。フランス語を独学する。このため一高を中退し、東京外国語学校露西亜語学科に入学。1925年、竹山や堀たちと共に同人誌「箒」を出し、戯曲、小説、詩を発表。

1928年から1929年にかけて、北海道大学図書館に嘱託として勤務。1929年、東京電気日報社に移る。1931年、ソ連通商部を退職して文筆生活に入る。翻訳業のほか「雪の宿り」などの短編小説も多く発表した。後半生は鎌倉市に終生在住した。

戦後の文芸運動では、岸田國士らの雲の会に参加、チェーホフの戯曲訳を通じ文学座などの演劇活動に関わり、三島由紀夫福田恒存中村光夫らと鉢の木会の集いを持った。

アントン・チェーホフイワン・ツルゲーネフアレクサンドル・プーシキンなどロシア文学の翻訳の他、フランス文学の翻訳もしている。他の訳書に、フセーヴォロド・ガルシン『紅い花』が、フランス文学では、アンドレ・ジッド『田園交響楽』などがある。1937年に、翻訳の業績に対し第3回池谷信三郎賞を受賞した。

特にチェーホフに関しては『桜の園』、『三人姉妹』などが多くの演劇に用いられ、「全集」の完訳も手がけるほど入れ込んだ。劇作家でもある三島由紀夫は、翻訳というより結婚というべき営みであると「チェーホフ全集」(全16巻、中央公論社)の刊行に際し称えている。1951年『ワーニャ伯父さん』の翻訳で芸術選奨文部大臣賞受賞。

1956年より舌癌の治療を受けていたが、病状が回復しないまま翌1957年に自宅で死去。53歳没。遺骨は死去まで在住していた鎌倉市山ノ内所在の東慶寺墓地に埋葬された[1]。戒名は徹心院文軒清章居士[2]

神西の死去によって中途に終わったチェーホフの全集は、ロシア文学者の弟子池田健太郎や、後輩原卓也らが、残りの編纂・翻訳の作業を引き継ぎ、完成させた。

妻・由利子との間に二女を儲けたが、長女の神西敦子(あつこ)はピアニストとして活動している。

著作編集

第1巻=詩、小説・戯曲「鉄の門」「負けた人」「鎌倉の女」ほか
第2巻=小説「恢復期」「青いポアン」「垂水」「母たち」ほか
第3巻=小説「雪の宿り」「灰色の眼の女」「母の秋」「化粧」「鸚鵡」「死児変相」ほか
第4巻=小説ほか「夜の鳥」「炎の井戸」「人魚」「少年」「午後の女」「地獄」ほか
第5巻=評論 外国文学編
第6巻=評論 日本文学編-第5・6巻は、単行判「神西清評論集 (上下)」も刊。
  • 『垂水 神西清作品集』山本書店 1942
  • 『詩と小説のあいだ』白日書院 1947
  • 『恢復期・垂水・見守る女・母たち』角川書店〈飛鳥新書〉1947、角川文庫 1956 
  • 『月が消えた話』小山書店 1949
  • 『少年・地獄・母たち』大日本雄弁会講談社 1955、講談社ミリオン・ブックス 1956
  • 『灰色の眼の女』中央公論社 1957、中公文庫 1976、解説三島由紀夫
  • 『散文の運命』大日本雄弁会講談社 1957、解説中村光夫
  • 『神西清詩集』東京創元社 1958
  • 『死児変相 ほか』〈日本幻想文学集成19〉国書刊行会 1993、解説池内紀
  • 『雪の宿り 神西清小説セレクション』港の人 2008、石内徹編・解説

翻訳編集

資料文献編集

  • 『人物書誌大系23 神西清』 石内徹編 日外アソシエーツ, 1991 
  • 『神西清蔵書目録』 石内徹編 日本図書センター, 1993
  • 『神西清日記 1・2』 石内徹編 クレス出版, 2000-2005 - 日記は一部で原本写本
  • 『神西清文藝譜』 石内徹、港の人, 2010
  • 遠藤周作『神西清先生のこと』- 「遠藤周作全集13」に収録、新潮社, 2000

脚注編集

  1. ^ 神西 清”. 文学者掃苔録. 2017年7月24日閲覧。
  2. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)174頁

外部リンク編集