菱川 章(ひしかわ あきら、1947年1月2日 - 2020年3月16日)は、岡山県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手

菱川 章
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県岡山市北区
生年月日 (1947-01-02) 1947年1月2日
没年月日 (2020-03-16) 2020年3月16日(73歳没)
身長
体重
183 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1965年
初出場 1965年7月24日
最終出場 1973年7月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物

編集

倉敷工業高校では1962年、1年生の時に控え外野手として夏の甲子園に出場するが、2回戦で北海高松谷栄司に抑えられ敗退[1]。3年生のチームメートに槌田誠がいた。1963年、2年生の時には左翼手として夏の甲子園県予選決勝に進出するが、林田真人を四番打者に据えた岡山東商に9回裏逆転サヨナラ負け。翌1964年春の選抜に出場、選手宣誓を行った。この大会では2回戦(初戦)で金沢高に敗れる[2]。高校同期に秋山重雄杉本郁久雄羽村起夫がいる。

複数球団による争奪戦の後に高校を中退し、1965年中日ドラゴンズへ入団。長打力を期待され、新人ながら34試合に出場、同年のジュニアオールスターにも選出された。1967年には12試合に先発出場、シーズン終盤には2試合に五番打者として起用され打率.264を残すが、その後は伸び悩みが続く。1970年には江藤慎一水原茂監督との軋轢でチームを去り、長距離打者の育成が急務となった。これもあって1971年には開幕直後から15試合に四番打者として抜擢され、その後も右翼手中堅手として82試合に先発出場を果たす。同年は13本塁打を放つが打率は低迷。翌1972年大島康徳江島巧の台頭もあって出場機会が減る。

1972年オフに日拓ホームフライヤーズへ移籍するが、あまり活躍の場はなく、1973年限りで引退した。引退後は故郷に帰り、親類の店に勤める。

2020年に転倒して名古屋市内の病院に入院していたが、容態が悪化し、3月16日に死去した。73歳没[3]

詳細情報

編集

年度別打撃成績

編集
















































O
P
S
1965 中日 34 30 29 3 6 1 0 1 10 3 0 0 0 0 0 0 1 12 1 .207 .233 .345 .578
1966 3 5 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .000 .000 .000 .000
1967 54 74 72 10 19 4 0 2 29 8 0 1 0 0 2 0 0 18 2 .264 .284 .403 .687
1968 58 101 89 7 15 2 0 1 20 6 1 1 4 1 7 0 0 25 4 .169 .229 .225 .454
1969 46 95 84 12 16 3 1 4 33 9 0 1 0 0 10 0 1 19 4 .190 .284 .393 .677
1970 45 77 71 4 12 0 0 1 15 7 0 0 0 1 4 0 1 17 3 .169 .224 .211 .435
1971 102 318 288 27 57 6 0 13 102 38 6 3 3 2 22 0 3 71 6 .198 .262 .354 .616
1972 11 30 28 2 3 0 0 1 6 2 0 1 0 0 2 0 0 3 1 .107 .167 .214 .381
1973 日拓 29 35 31 2 5 0 0 1 8 1 0 0 0 0 2 0 2 10 1 .161 .257 .258 .515
通算:9年 382 765 697 67 133 16 1 24 223 74 7 7 7 4 49 0 8 178 22 .191 .252 .320 .572

記録

編集

背番号

編集
  • 9 (1965年 - 1972年)
  • 51 (1973年)

脚注

編集
  1. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  2. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ “元中日4番の菱川章さん73歳で死去「星野と岡山弁やりとりがなつかしい」ドラゴンズOBが悼む”. 中日スポーツ社. (2020年3月18日). https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/202003/CK2020031802100174.html 2020年3月18日閲覧。 

関連項目

編集

外部リンク

編集