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1965年の野球(1965ねんのやきゅう)では、1965年野球界における動向をまとめる。

競技結果

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日本プロ野球

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ペナントレース

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1965年セントラル・リーグ最終成績
順位 球団 勝率
1位 読売ジャイアンツ 91 47 2 .659 優勝
2位 中日ドラゴンズ 77 59 4 .566 13.0
3位 阪神タイガース 71 66 3 .518 19.5
4位 大洋ホエールズ 68 70 2 .493 23.0
5位 広島カープ 59 77 4 .434 31.0
6位 サンケイスワローズ 44 91 5 .326 45.5
1965年パシフィック・リーグ最終成績
順位 球団 勝率
1位 南海ホークス 88 49 3 .642 優勝
2位 東映フライヤーズ 76 61 3 .555 12.0
3位 西鉄ライオンズ 72 64 4 .529 15.5
4位 阪急ブレーブス 67 71 2 .486 21.5
5位 東京オリオンズ 62 74 4 .456 25.5
6位 近鉄バファローズ 46 92 2 .333 42.5

日本シリーズ

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1965年 日本シリーズ
日付 試合 ビジター球団(先攻) スコア ホーム球団(後攻) 開催球場
10月30日(土) 第1戦 読売ジャイアンツ 4 - 2 南海ホークス 大阪球場
10月31日(日) 第2戦 読売ジャイアンツ 6 - 4 南海ホークス
11月1日(月) 移動日
11月2日(火) 第3戦 雨天中止 後楽園球場
11月3日(水) 南海ホークス 3 - 9 読売ジャイアンツ
11月4日(木) 第4戦 南海ホークス 4 - 2 読売ジャイアンツ
11月5日(金) 第5戦 南海ホークス 2 - 3 読売ジャイアンツ
優勝:読売ジャイアンツ(2年ぶり7回目)

個人タイトル

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  セントラル・リーグ パシフィック・リーグ
タイトル 選手 球団 成績 選手 球団 成績
最優秀選手 王貞治 巨人   野村克也 南海  
最優秀新人 該当者なし   池永正明 西鉄  
首位打者 江藤慎一 中日 .336 野村克也 南海 .320
本塁打王 王貞治 巨人 42本 野村克也 南海 42本
打点王 王貞治 巨人 104点 野村克也 南海 110点
最多安打 近藤和彦 大洋 152本 野村克也 南海 156本
盗塁王 高木守道 中日 44個 広瀬叔功 南海 39個
最優秀防御率 金田正一 巨人 1.84 三浦清弘 南海 1.57
最多勝利 村山実 阪神 25勝 尾崎行雄 東映 27勝
最多奪三振 村山実 阪神 205個 尾崎行雄 東映 259個
最高勝率 山中巽 中日 .857 林俊彦 南海 .850

ベストナイン

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  セントラル・リーグ パシフィック・リーグ
守備位置 選手 球団 選手 球団
投手 村山実 阪神 尾崎行雄 東映
捕手 森昌彦 巨人 野村克也 南海
一塁手 王貞治 巨人 高木喬 近鉄
二塁手 高木守道 中日 D.スペンサー 阪急
三塁手 長嶋茂雄 巨人 小玉明利 近鉄
遊撃手 吉田義男 阪神 小池兼司 南海
外野手 江藤愼一 中日 張本勲 東映
近藤和彦 大洋 広瀬叔功 南海
中暁生 中日 堀込基明 南海

オールスターゲーム

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ドラフト会議

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高校野球

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大学野球

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社会人野球

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メジャーリーグ

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できごと

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  • 4月4日 - 選抜高等学校野球大会の決勝戦が甲子園球場にて行われ、岡山県岡山東商和歌山県市和歌山商に延長13回、2対1でサヨナラ勝利し、初優勝達成[2]
  • 4月10日 - プロ野球セ・パ両リーグの公式戦が開幕[3]
  • 4月22日 - プロ野球12球団合同会議が正午から東京・日比谷の日生会館にて開かれ、新人選手の採用制度を討議しドラフト制度を採用することを決定。これに伴い、23日付けで新人選手の契約は認められないことになった[4]
  • 4月23日 - 国鉄スワローズは午後4時より東京・赤坂の赤坂プリンスホテルにて記者会見し、選手人件費の膨張で経営が困難となり、今後はサンケイ新聞に一切の経営を任せることになったと発表[5]
  • 4月27日 - 国鉄は午後1時から東京・銀座の銀座東急ホテルにて記者会見し、監督の林義一を更迭し後任に二軍監督の砂押邦信が就任すると発表[6]
  • 5月1日 - 広島カープが川崎球場での対大洋1回戦で2-1と勝利し、球団創設以来初めてセ・リーグの単独首位に立つ[7]
  • 5月2日
  • 5月7日 - 巨人対国鉄の試合が後楽園球場で行われ、巨人は3回裏に王貞治が5号本塁打を放ち、これで巨人は球団創設以来チーム本塁打2000本を記録[10]
  • 5月9日 - 中日の中暁生が広島市民球場での対広島4回戦の5回表に三塁打を放ち、プロ通算1000安打を達成[11]
  • 5月10日 - 国鉄は午前11時より東京・麹町の弘済会館にて臨時株主総会を開き、サンケイ新聞社への経営譲渡と球団名を「サンケイ・スワローズ」への変更を決定[12]
  • 5月11日 - 巨人の瀧安治兼六園野球場での対広島戦で、瀧が放った打球が投手安仁屋宗八の膝を直撃、跳ね返った打球を捕手久保祥次が直接捕球し投触捕直(投手に打球が接触した後の捕手へのライナー)となる(記録上では投直で捕手に刺殺がつく)[13]
  • 5月19日 - 巨人の吉田勝豊が後楽園球場での対サンケイ戦の4回裏に代打で出場し、プロ通算1000試合出場を達成[14]
  • 5月31日 - 巨人の長島茂雄が中日球場での対中日8回戦の1回表に7号本塁打を放ち、プロ通算200本塁打を達成[15]
  • 8月8日
    • 南海の野村克也が日生球場での対近鉄ダブルヘッダー第2試合の15回戦の2回裏に25号本塁打、6回裏に26号本塁打を放ち、プロ通算300本塁打を達成[29]
    • 阪急の米田哲也が西宮球場での対東京15回戦に先発登板し、プロ通算500試合登板を達成[30]
  • 8月17日 - 近鉄の山本八郎が大阪球場での対南海16回戦の4回表に10号本塁打を放ち、プロ通算100本塁打を達成[31]
  • 8月18日 - 巨人の長島茂雄が中日球場での対中日20回戦に先発出場し、プロ通算1000試合出場を達成[32]
  • 8月19日 - 東映の嵯峨健四郎が後楽園球場での対阪急戦の5回の第二打席で足立光宏から中前安打を放ち、これが91打席ぶりの安打となった。試合は3対2で阪急が勝利し、嵯峨は敗戦投手となっている[33][34]
  • 8月22日 - 全国高等学校野球選手権大会の決勝戦が甲子園で行われ、福岡県三池工千葉県銚子商に2対0で勝利し、初出場初優勝を達成する。
  • 9月4日 -巨人の金田正一多摩川で行われたイースタン・リーグの対東映フライヤーズ戦のダブルヘッダー第一試合に先発し6回を投げ被安打3、与四球2、3三振、生涯唯一の二軍での調整登板となった。事前に登板が報道されたこともあり、二軍では異例の3000人の観客となった[35][36]
  • 9月5日 - 大洋の小野正一が川崎球場での対中日ダブルヘッダー第二試合の20回戦に先発して勝利投手となり、プロ通算150勝を達成[37]
  • 9月8日 - 巨人の金田正一が後楽園球場での対サンケイ21回戦に先発し、三回表先頭打者の杉本公孝を三振に打ち取り、プロ野球史上初の5000イニング投球を達成、またこの試合で完投勝利を収め、プロ通算350完投を達成[38]
  • 9月11日 - 大洋の近藤和彦が中日球場での対中日21回戦に先発出場し、プロ通算1000試合出場を達成[39]
  • 9月12日 - 南海の野村克也が大阪球場での対近鉄ダブルヘッダー第二試合の24回戦の六回裏に38号本塁打を放ち、山内一弘の持つ日本プロ野球最多本塁打の記録を更新する通算312号本塁打となる[40]
  • 9月12日 - 【MLB】サンフランシスコ・ジャイアンツのウィリー・メイズがヒューストン・アストロズ戦で47号本塁打を打ち、メジャー通算500本塁打を達成[41]
  • 9月19日 - 巨人の王貞治が川崎球場での対大洋20回戦の九回表に30号2点本塁打を放ち、プロ通算200本塁打を達成[42]
  • 9月26日 - 南海対東映のダブルヘッダー21回戦、22回戦が大阪球場にて行われ南海がそれぞれ6対1、4対2と連勝し、パ・リーグ優勝を達成[43]
  • 9月30日 - プロ野球実行委員会が午後1時より銀座・日生会館にて行われ、1938年の巨人の中島治康が達成した打撃三冠王が公式に認定される[44]
  • 10月2日 - 広島の外木場義郎が甲子園球場での対阪神20回戦に先発し、ノーヒットノーランを達成。外木場はこれがプロ初勝利[45]
  • 10月3日 - 阪神の並木輝男が甲子園球場での対広島22回戦に出場し、プロ通算1000試合出場を達成[46]
  • 10月5日 - ここまで本塁打38本などで野村克也と打撃タイトル争いをしていた阪急のダリル・スペンサーが、オートバイで自宅から西宮球場に向かう途中に軽四輪と接触して転倒し、右足ひ骨骨折の全治二か月の怪我[47]
  • 10月6日 - サンフランシスコ・ジャイアンツのスカウトの原田恒男が東京・赤坂の山王グリルにて午前11時に元巨人の古賀英彦をサンフランシスコ・ジャイアンツの教育リーグに参加させると発表[48]
  • 10月14日 - 川崎球場で中日対大洋26回戦で中日が1-4と敗戦し、巨人のリーグ優勝が決定[49]
  • 10月21日 - パ・リーグは南海、近鉄が公式戦の全日程を終了し、南海の野村克也の三冠王が確定[50]
  • 10月24日 - パ・リーグの全日程が終了[51]
  • 10月27日 - セ・リーグの全日程が終了[52]
  • 10月28日
    • 阪神は大阪市北区の「新北京」にて午後6時より納会を行い、オーナーの野田誠三藤本定義が総監督に、監督にはヘッドコーチの杉下茂が就任すると発表[53]
    • 東京は東京スタジアムに似て午後1時より役員会を開き、監督の本堂保次の解任を決定[54]
    • 沢村賞の選考が東京・有楽町のレバンテにて正午から行われ、阪神の村山実を選出[55]
  • 11月5日 - 日本シリーズの第5戦が後楽園球場で行われ、巨人が南海に3対2でサヨナラ勝利し、2年ぶり7度目の優勝達成[56][57]
  • 11月6日 - 南海の監督の鶴岡一人が午後5時から大阪市南区の旅館「新常盤」にて記者会見し、南海に辞表を提出し退団すると発表[58]
  • 11月11日 - 慶応大学野球部は監督の前田祐吉が総監督となり、後任の監督に近藤良輔が就任したと発表[59]
  • 11月13日 - 南海は午前10時より大阪市難波の南海電鉄本社にてオーナーの壷田修、球団社長の新山滋、ヘッドコーチの蔭山和夫、前監督の鶴岡一人が会談し、蔭山か監督就任に挙げた条件を球団が全面的に了承。午後1時45分、新山は蔭山が新監督に就任したと正式に発表[60]
  • 11月15日
    • プロ野球セ・パ両リーグの最優秀選手、最優秀新人、ベストナインを選ぶプロ野球担当記者の投票を午前10時からコミッショナー事務局が行い、最優秀選手はセ・リーグは王貞治、パ・リーグは野村克也を選出。最優秀新人はセ・リーグは「該当者なし」、パ・リーグは池永正明を選出[61]
    • 巨人は藤尾茂町田行彦を任意引退にすると発表[62]
  • 11月17日
  • 11月20日 - 南海は午後4時45分より大阪・難波の南海電鉄本社にて記者会見し、急死した蔭山新監督の後任として鶴岡一人が監督に復帰すると発表[65]
  • 11月21日 - サンケイは午後3時から有楽町のラクチョウ・ビルにて記者会見し、新監督にヘッドコーチの飯田徳治が就任したと正式に発表[66]
  • 11月25日
    • 東京は午後4時半から東京スタジアム内の会議室にて緊急の役員会を開き、新監督に二軍監督の田丸仁を決定し、午後5時半に来季の新監督、コーチ陣を正式に発表[67]
    • 広島は新監督に長谷川良平が、ヘッドコーチに石本秀一が就任したと発表[68]

誕生

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死去

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作品

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出典

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  1. ^ タイガースヒストリー 1965-1969”. 阪神タイガース公式サイト. 2015年11月23日閲覧。
  2. ^ 毎日新聞1965年4月5日1面「岡山東商が初優勝 センバツ高校野球 市和商を延長で破る」毎日新聞縮刷版1965年4月p101
  3. ^ 毎日新聞1965年4月10日夕刊7面「待望のプロ、六大学 野球の春プレーボール」毎日新聞縮刷版1965年4月p241
  4. ^ 読売新聞1965年4月23日8面「プロ野球"ドラフト制度"を実施 新人採用をプールで きょうから個別契約認めぬ」読売新聞縮刷版1965年4月p564
  5. ^ 読売新聞1965年4月24日8面「国鉄、球団手放す サンケイ・スワローズ 経営一本化して新発足」読売新聞縮刷版1965年4月p590
  6. ^ 読売新聞1965年4月27日夕刊9面「国鉄監督に砂押氏」読売新聞縮刷版1965年4月p685
  7. ^ 読売新聞1965年5月2日9面「広島(結成以来)初の単独首位 興津1号 稲川を長打でつぶす」読売新聞縮刷版1965年5月p37
  8. ^ 読売新聞1965年5月3日9面「杉浦が奪千五百三振 14安打 南海、新安打で返礼」読売新聞縮刷版1965年5月p61
  9. ^ 読売新聞1965年5月3日9面「吉田(阪神)千五百本安打」読売新聞縮刷版1965年5月p61
  10. ^ 読売新聞1965年5月2日9面「巨人、王で2千本塁打を記録」読売新聞縮刷版1965年5月p165
  11. ^ 読売新聞1965年5月10日9面「中(中日)が千本安打」読売新聞縮刷版1965年5月p215
  12. ^ 読売新聞1965年5月11日9面「サンケイスワローズ 国鉄、きょうから新発足」読売新聞縮刷版1965年5月p238
  13. ^ 週刊ポスト2012年8月3日号
  14. ^ 読売新聞1965年5月20日9面「吉田(巨人)が千試合出場」読売新聞縮刷版1965年5月p465
  15. ^ 読売新聞1965年6月1日9面「長島、待望の通算二百号 中山、小川健(中日)をKO 終回の反撃、宮田で断つ」読売新聞縮刷版1965年6月p9
  16. ^ 読売新聞1965年6月8日9面「サンケイ球団社長に友田氏」読売新聞縮刷版1965年6月p183
  17. ^ 読売新聞1965年6月17日8面「東京 本堂監督が休養 代理監督に濃人コーチ」読売新聞縮刷版1965年6月p410
  18. ^ 読売新聞1965年6月17日9面「吉田勝百号達成」読売新聞縮刷版1965年6月p411
  19. ^ 読売新聞1965年6月29日9面「バッキー 無安打無得点 巨人をたった3走者 10勝一番乗りをかざる」読売新聞縮刷版1965年6月p739
  20. ^ 読売新聞1965年7月1日9面「SBO クジラと少年 古沢 主演はなんと17歳」読売新聞縮刷版1965年7月p5
  21. ^ 読売新聞1965年7月3日9面「小玉、千五百試合出場」読売新聞縮刷版1965年7月p65
  22. ^ 読売新聞1965年7月4日9面「山内、四人目の千打点」読売新聞縮刷版1965年7月p93
  23. ^ 読売新聞1965年7月16日8面「小山 無安打無得点のがす 阪急 9回、二死からテキサス」読売新聞縮刷版1965年7月p406
  24. ^ 読売新聞1965年7月17日9面「米田(阪急)が奪三振二千 五人目」読売新聞縮刷版1965年7月p443
  25. ^ 読売新聞1965年7月24日9面「白石監督(広島)が休養 監督代行に長谷川コーチ」読売新聞縮刷版1965年7月p611
  26. ^ 読売新聞1965年7月26日9面「巨人、2000勝(新記録)の偉業」読売新聞縮刷版1965年7月p653
  27. ^ 【7月25日】1965年(昭40) 東大卒初のプロ、「南氷洋に行ったつもりで」1年目に初白星”. スポーツニッポン (2008年7月24日). 2015年11月23日閲覧。
  28. ^ 読売新聞1965年7月30日9面「大和田(広島)千試合出場」読売新聞縮刷版1965年7月p747
  29. ^ 読売新聞1965年8月9日9面「野村通算三百号 第2 逆転2ランで飾る」読売新聞縮刷版1965年8月p187
  30. ^ 読売新聞1965年8月9日9面「米田が五百試合登板」読売新聞縮刷版1965年8月p187
  31. ^ 読売新聞1965年8月18日9面「山本八が百号本塁打」読売新聞縮刷版1965年8月p393
  32. ^ 読売新聞1965年8月19日9面「長島千試合出場」読売新聞縮刷版1965年8月p417
  33. ^ 読売新聞1965年8月20日9面「嵯峨、91打席打席目に安打」読売新聞縮刷版1965年8月p441
  34. ^ 【8月19日】1965年(昭40) 90打席、506日もヒットが打てなかった男”. スポーツニッポン (2007年8月11日). 2015年11月23日閲覧。
  35. ^ 読売新聞1965年9月5日9面「金田、7日から登板か」読売新聞縮刷版1965年9月p109
  36. ^ 【9月4日】1965年(昭40) 通算“401勝” カネやん生涯唯一の2軍登板”. スポーツニッポン (2007年8月20日). 2015年11月23日閲覧。
  37. ^ 読売新聞1965年9月6日9面「小野が通算百五十勝」読売新聞縮刷版1965年9月p129
  38. ^ 読売新聞1965年9月9日9面「金田、完投でカムバック 日本タイの三百五十完投を達成」読売新聞縮刷版1965年9月p203
  39. ^ 読売新聞1965年9月12日9面「近藤和が千試合出場」読売新聞縮刷版1965年9月p281
  40. ^ 読売新聞1965年9月13日9面「野村が37・38号放つ 通算312本 最多本塁打の日本新」読売新聞縮刷版1965年9月p301
  41. ^ 読売新聞1965年9月13日9面「メイズ通算吾百号 大リーグ5人目」読売新聞縮刷版1965年9月p352
  42. ^ 読売新聞1965年9月20日9面「王30号 早くも200本目 ハイペースの記録達成」読売新聞縮刷版1965年9月p477
  43. ^ 読売新聞1965年9月27日1面「南海、二年連続優勝 パ・リーグ」読売新聞縮刷版1965年9月p623
  44. ^ 読売新聞1965年10月1日11面「三冠王1号は中島(元巨人) プロ野球実行委 公式記録に認定」読売新聞縮刷版1965年10月p11
  45. ^ 読売新聞1965年10月3日9面「外木場(広島)が無安打無得点 今季二人目 初勝利での快挙」読売新聞縮刷版1965年10月p61
  46. ^ 読売新聞1965年10月4日11面「並木(阪神)が千試合出場」読売新聞縮刷版1965年10月p87
  47. ^ 読売新聞1965年10月6日15面「スペンサー骨折 オート接触転倒」読売新聞縮刷版1965年10月p143
  48. ^ 読売新聞1965年10月7日11面「古賀、S・Fジャイアンツへ 教育リーグに参加」読売新聞縮刷版1965年10月p163
  49. ^ 読売新聞1965年10月15日1面「巨人優勝きまる セ・リーグ 結成以来18回目」読売新聞縮刷版1965年10月p355
  50. ^ 読売新聞1965年10月22日11面「野村、三冠王を達成 ロイ(西鉄)ら逆転は不可能」読売新聞縮刷版1965年10月p543
  51. ^ 読売新聞1965年10月25日10面「パ・リーグ 全日程終わる」読売新聞縮刷版1965年10月p618
  52. ^ 読売新聞1965年10月22日11面「セ・リーグも全日程終わる」読売新聞縮刷版1965年10月p701
  53. ^ 読売新聞1965年10月29日11面「阪神監督に杉下昇格 藤本は総監督」読売新聞縮刷版1965年10月p727
  54. ^ 読売新聞1965年10月29日11面「本堂監督と三コーチを解任 東京オリオンズ」読売新聞縮刷版1965年10月p727
  55. ^ 読売新聞1965年10月29日11面「村山(阪神)に沢村賞 2度目」読売新聞縮刷版1965年10月p727
  56. ^ 読売新聞1965年11月5日夕刊1面「巨人、選手権を獲得 日本シリーズ 南海に4勝1敗で」読売新聞縮刷版1965年11月p117
  57. ^ 毎日新聞1965年11月6日13面「巨人、七度目の王座」
  58. ^ 毎日新聞1965年11月7日13面「『南海をやめる』と鶴岡 監督20年、いい区切り プロ野球生活は続ける」毎日新聞縮刷版1965年11月p165
  59. ^ 毎日新聞1965年11月12日13面「慶大野球部 新監督に近藤氏」毎日新聞縮刷版1965年11月p285
  60. ^ 読売新聞1965年11月14日8面「蔭山監督に本きまり 南海」読売新聞縮刷版1965年11月p336
  61. ^ 読売新聞1965年11月15日11面「プロ野球最優秀選手きまる セリーグは王 パリーグは野村」読売新聞縮刷版1965年10月p389
  62. ^ 読売新聞1965年11月15日11面「藤尾、町田が任意引退」読売新聞縮刷版1965年10月p389
  63. ^ 読売新聞1965年11月17日夕刊9面「蔭山南海監督が急死 過労、眠れなかったここ数日」読売新聞縮刷版p429
  64. ^ 読売新聞1965年11月18日11面「初の新人選択会議ひらく 巨人、堀内(甲府商)らに交渉権」読売新聞縮刷版1965年10月p441
  65. ^ 毎日新聞1965年11月21日15面「鶴岡氏、南海復帰を発表」毎日新聞縮刷版1965年11月p519
  66. ^ 読売新聞1965年11月22日10面「サンケイ監督 飯田氏きまる」読売新聞縮刷版p544
  67. ^ 読売新聞1965年11月26日11面「東京監督に田丸氏(二軍監督)」読売新聞縮刷版1965年11月p650
  68. ^ 読売新聞1965年11月26日「広島は長谷川氏 石本氏がヘッドコーチ」読売新聞縮刷版1965年11月p650
  69. ^ 読売新聞1965年12月7日11面「関根外野手(巨人)が引退」読売新聞縮刷版1965年12月p171
  70. ^ 読売新聞1965年12月15日11面「村上、南海と契約 保有権問題にケリ」読売新聞縮刷版1965年12月p389
  71. ^ 読売新聞1965年12月18日11面「島野、杉本交換成立」読売新聞縮刷版1965年12月p473