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地理編集

村の中心に富士五湖の一つである山中湖が位置し、集落は主に北西からの国道138号(旧鎌倉往還)と北東からの国道413号が合流する。南西方向に富士山が見え、裾野には梨が原高原が広がる。東には丹沢山地が位置している。気候は冷涼で、県内有数の観光村となっており、湖北岸の芙蓉台や南岸の旭が丘は別荘地となっている。夏場は首都圏や中京圏の避暑地としてにぎわうが、冬場はが積もることが多い。

富士山原生林には、国の天然記念物として保護されている植物群落が多く、村域には山中の鷹丸尾溶岩上の山中のハリモミ純林がある。また、山中湖のフジマリモは県指定天然記念物である。

気候編集

村全域が標高1000m前後の高原であるため、気候は県内でも比較的寒冷であり、年間平均気温は8.8℃と北海道とほぼ同じである。また、小盆地なので寒暖の差が激しい。夏場の昼間でも涼しく、夜は肌寒く感じることもある。冬場は雪が積もることが多く、山中湖は湖面凍結する。そして、冬場の最低気温が-15℃以下になることも珍しくない。

山中湖村
雨温図説明
123456789101112
 
 
65
 
4
-9
 
 
86
 
4
-8
 
 
187
 
7
-4
 
 
188
 
13
2
 
 
196
 
18
6
 
 
252
 
20
12
 
 
188
 
24
16
 
 
309
 
25
16
 
 
368
 
21
13
 
 
233
 
16
6
 
 
165
 
12
0
 
 
49
 
7
-6
気温(°C
総降水量(mm)
出典:[1]
山中(1981-2010年)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C (°F) 17.5
(63.5)
19.0
(66.2)
21.8
(71.2)
28.0
(82.4)
30.0
(86)
32.8
(91)
32.6
(90.7)
32.6
(90.7)
32.0
(89.6)
27.9
(82.2)
24.2
(75.6)
20.5
(68.9)
32.8
(91)
平均最高気温 °C (°F) 3.8
(38.8)
4.3
(39.7)
7.9
(46.2)
14.1
(57.4)
18.3
(64.9)
21.0
(69.8)
24.9
(76.8)
26.0
(78.8)
21.8
(71.2)
16.4
(61.5)
12.0
(53.6)
6.8
(44.2)
14.8
(58.6)
平均最低気温 °C (°F) −9.3
(15.3)
−8.3
(17.1)
−4.1
(24.6)
1.2
(34.2)
6.4
(43.5)
11.5
(52.7)
15.7
(60.3)
16.2
(61.2)
12.9
(55.2)
5.9
(42.6)
−0.4
(31.3)
−6.1
(21)
3.5
(38.3)
最低気温記録 °C (°F) −19.5
(−3.1)
−22.2
(−8)
−19.6
(−3.3)
−14.1
(6.6)
−5.3
(22.5)
3.4
(38.1)
8.4
(47.1)
8.8
(47.8)
8.5
(47.3)
−5.8
(21.6)
−9.6
(14.7)
−16.6
(2.1)
−22.2
(−8)
降水量 mm (inch) 78.2
(3.079)
88.0
(3.465)
183.5
(7.224)
180.3
(7.098)
195.1
(7.681)
234.2
(9.22)
191.4
(7.535)
299.9
(11.807)
343.6
(13.528)
253.4
(9.976)
151.9
(5.98)
68.0
(2.677)
2,275.7
(89.594)
出典: 気象庁[1]

歴史編集

富士北麓地域には縄文時代の遺跡が数多く分布するが、村域においても長池、平野柳原、篭坂峠付近などに縄文時代の遺跡が存在している。

古代の律令制下においては都留郡に属する。『延喜式』に拠れば、東海道を駿河国横走駅(静岡県御殿場市)から分岐し富士北麓を通過し甲斐国府に至る官道である甲斐路(御坂路)が整備され、三駅のひとつである「加吉駅」は村域に比定されている。

村域は甲斐・駿河・相模の三国間の交通の要衝で、御坂路は中世に「鎌倉往還」と呼称される。平安時代末期に関東で挙兵した源頼朝治承4年(1180年)8月の石橋山合戦で敗退した際には、土屋宗遠(三郎)が甲斐へ向かう際に鎌倉往還を通過している。また、『吾妻鏡』によれば、承久3年(1221年)6月の承久の乱に東山道大将軍として上洛した甲斐源氏武田信光が、帰路の加古坂峠において乱の首謀者のひとりである藤原光親を処刑しており、光親の墓所が伝わっている。

戦国時代の甲斐国は守護武田氏の内訌と有力国衆の抗争が繰り広げられ、郡内では小山田氏が武田氏と敵対する。さらに隣国である駿河の今川氏や相模の後北条氏も甲斐へ侵攻した。

村域には明応3年(1493年)には武田家惣領・信縄と弟の油川信恵 が争った八代合戦で戦死したと伝わる山中太郎左衛門の城館跡がある。明応4年には伊勢宗瑞(北条早雲)が今川氏と共同して郡内へ侵攻し、大永6年(1526年)には甲斐守護・武田信虎(信尚)が駿河国梨木平において北条方を破する。天文4年(1536年)には北条氏綱と今川氏が郡内へ侵攻し、武田氏・小山田氏との間で山中の戦いが行われている。

村域を通過する鎌倉街道は天正10年(1582年)3月の武田滅亡後に発生した「天正壬午の乱」において北条氏が甲斐へ侵攻する際のルートとなった。

近世に郡内地方は谷村藩領を経て幕府直轄領となる。山間部である郡内地方は耕地に乏しく、生業は僅かな米麦栽培のほか入会地における山稼ぎや街道添いの駄賃稼ぎが行われ、養蚕郡内織も発達した。村域においてもこれらの生業のほか、山中湖における漁業が行われていた。加古坂峠に口留番所が置かれ運輸機能が強化され、駿河方面と経済圏を形成している。

近代には入会地が官修されたため、馬鈴薯トウモロコシの栽培、織物などの新たな産業が取り入れられたほか、戦後には観光に力を入れている。

沿革編集

人口編集

 
山中湖村と全国の年齢別人口分布(2005年) 山中湖村の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 山中湖村
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
 

山中湖村(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より


行政編集

  • 村長:高村文教
  • 村議会:議員定数12人

地区編集

  • 平野(ひらの) - 旧平野村
  • 山中(やまなか) - 旧山中村

経済編集

産業編集

教育編集

  • 山中湖村立山中小学校
  • 山中湖村立東小学校
  • 山中湖村立山中湖中学校

交通編集

鉄道路線編集

村内に鉄道路線はないが富士山駅が最寄。

道路編集

高速道路
一般国道

バス編集

船舶編集

  • 山中湖遊覧船

名所・旧跡・観光スポット編集

祭事・催事編集

出身有名人編集

その他編集

脚注編集

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  1. ^ 山中 1981-2010年 標高992m”. 気象庁. 2012年1月7日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集