蓮華寺 (米原市)
滋賀県米原市にある寺院
蓮華寺(れんげじ)は、滋賀県米原市番場にある浄土宗本山(旧時宗大本山)。山号は八葉山(はちようさん)。本尊は発遣の釈迦如来と来迎の阿弥陀如来の二尊。
蓮華寺 | |
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![]() 本堂 | |
所在地 | 滋賀県米原市番場511 |
位置 | 北緯35度18分46.2秒 東経136度18分56.6秒 / 北緯35.312833度 東経136.315722度 |
山号 | 八葉山 |
院号 | なし |
宗旨 | (1284年(弘安7年)から)浄土教 |
宗派 | 時宗大本山 → 浄土宗本山 |
寺格 | 本山 |
本尊 | 釈迦如来・阿弥陀如来 |
開山 | (中興)一向俊聖 |
開基 | 伝聖徳太子 |
中興年 | 弘安7年(1284年) |
中興 | 土肥元頼 |
正式名 | 法隆寺 → 八葉山蓮華寺[1] |
札所等 | びわ湖百八霊場第51番 |
文化財 | (国の重要文化財)紙本墨書陸波羅南北過去帳・梵鐘 |
公式サイト | 蓮華寺 米原 (公式サイト) |
法人番号 | 9160005004245 |
歴史編集
- 聖徳太子によって開かれた寺と伝えられ、当初は寺号を法隆寺と称したという。
- 1284年(弘安7年)当地の地頭で鎌刃城主土肥元頼が、良忠の弟子とされる一向を招いて寺を再建し、八葉山蓮華寺と号した。蓮華寺は良忠の鎌倉における自坊の旧名である。裏山に一向の荼毘地跡の杉と墓所がある。
- 1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇の綸旨を受けた足利尊氏等に攻められた六波羅探題北方の北条仲時が、持明院統の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を伴い東国へ落ち伸びる途中、行く手を佐々木導誉が差し向けたとも言われる野伏[注釈 1]に塞がれたため、やむなく蓮華寺へ至り、天皇と上皇の玉輩を蓮華寺に置いた後に、本堂前で一族郎党432名と伴に自刃した。その際に血が川の様になって流れたと伝わる。時の住持の同阿上人が彼らを憐れみ法名を与え、過去帳に登載したのが有名な『陸波羅南北過去帳』である。寺内にあるその主従の墓とされる一石五輪塔群は近代になってから整備されたもので、別に向かいの六波羅山とよばれるところの麓に五輪塔がある。
- その後、一向と同じ念仏勧進聖の一遍の時衆と同一視されるにおよび、江戸時代に当寺は、時宗十二派に属する時宗一向派の本山と位置づけられ近世を経る。
- 時宗からの独立運動の結果、1943年になり浄土宗に蓮華寺以下57末寺とともに転宗した(その他末寺29寺は時宗に残留)。浄土宗七大本山に次ぐ格式として特別寺格「本山」とされている。
- 斎藤茂吉は、恩師佐原窿応が当寺49世住職になったことから、参詣して短歌を残している。
- 大橋俊雄が晩年貫首になった。
- 本堂に宝物室があり、志納で拝観できる。
- 2015年 踊躍賞(ゆやくしょう)というダンス賞を設け、広くダンサーを募集している。聖なるものと踊りを、もう一度むすびつけようとの想いで創立された[3]。
忠太郎地蔵尊編集
昭和5年(1930年)に長谷川伸が発表した戯曲「瞼の母」の主人公で番場出身の博徒である「忠太郎地蔵尊」が境内にある。1950年台に、忠太郎の出身地が中山道の番場宿に設定されたため番場の忠太郎と呼ばれるようになり、昭和25年(1950年)には番場の忠太郎というタイトルで映画化も行われ一世を風靡した。
蓮華寺にある「忠太郎地蔵尊」は1958年(昭和33年)に長谷川伸と地元住民らにより建立された[4]。地蔵尊は愛知県岡崎市の石材店によって作成された。蓮華寺では夏に「忠太郎地蔵まつり」が開催されている[4]。
「瞼の母」を参照
文化財編集
- 重要文化財(国指定)
- 紙本墨書陸波羅南北過去帳
- 梵鐘 弘安七年(1284年)銘
- 滋賀県指定文化財
- 絹本著色一向上人像
所在地編集
- 滋賀県米原市番場511
関連寺院編集
脚注編集
注釈編集
出典編集
- ^ 浄土宗
- ^ 森 1994, pp. 34–37.
- ^ ダンス奉納 | 踊躍賞(ゆやくしょう)・踊躍念仏 浄土宗の寺
- ^ a b “米原→長浜、行方不明の銅像・番場の忠太郎 史蹟顕彰会、移築へCF募る”. 中日新聞 2022年6月8日閲覧。
参考文献編集
外部リンク編集
座標: 北緯35度18分46.2秒 東経136度18分56.6秒 / 北緯35.312833度 東経136.315722度