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藤原 兼房 (ふじわら の かねふさ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族歌人藤原北家中納言藤原兼隆の長男。官位は正四位下讃岐守

 
藤原兼房
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 長保3年(1001年
死没 延久元年6月4日1069年6月25日
官位 正四位下讃岐守
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇
氏族 藤原北家九条流
父母 父:藤原兼隆、母:源扶義の娘
兄弟 兼房定房、円意、行禅、観円、慶増、敦平親王妃、源良宗室、女子二人
源高雅の娘
大江匡子(江侍従)(大江匡衡の娘)
兼仲、左大臣家少輔、静範、円範、宗円?
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経歴編集

寛仁年間に右近衛少将を務める。この間の寛仁2年(1018年)に内裏で開かれた宴会に参加した際、その場で唐突に蔵人頭藤原定頼を口汚く罵倒するや、定頼の前に置いてあった料理を足で蹴散らし、頭から被り物を奪おうとする。さらに定頼が逃げ込んだ控室に雨のごとく石を投げつけるが、定頼が控室から出てこないとみるや、今度は殿上の間で定頼を侮辱する言葉を喚き散らすという事件を起こす[1]。これにより兼房は謹慎処分となり暫く参内を禁じられた[2]。同年、従四位上中宮権亮に叙任される。

治安元年12月(1022年1月)清涼殿で行われた御仏名[3]の最中に少納言源経定と口論を始め、兼房が経定の頭の被り物を叩き落としたことをきっかけに取っ組み合いの喧嘩となる。ついには兼房が経定を一方的に暴行し始めるが、経定の父の権中納言源道方に助けを求められた大納言藤原能信が二人の肩をで打ち据え、ようやく二人は引き離された。両者の親であった中納言・藤原兼隆と源道方は、この様子を見て人目もはばからず泣きながらその場を退出してしまったという[4]

治安3年(1023年)これまでの中宮亮に加えて右馬頭に任ぜられる。同年12月には蔵人源成任の控室において、中宮の侍を務めていた宮内少輔藤原明知を四人の従者に打ち懲らしめさせる事件を起こす。明知が関白藤原頼通に訴え出たことから事件はたちまち露見し、兼房は即座に内裏から追放され、従者らは捕らわれたという[5]

その後は、丹後守備中守播磨守讃岐守と地方官を歴任する。この間の長元2年(1029年)には正四位下に叙せられているが、その後40年に亘って昇進は叶わず、公卿昇任は果たせずに終わっている。延久元年(1069年)6月4日卒去。最終官位は前讃岐守正四位下[6]。享年69。

人物編集

歌人としては名を著し、『後拾遺和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に15首が入首している[7]柿本人麻呂を崇敬するあまり、夢にその姿を見て、それを絵に描かせて秘蔵していたという。のちに藤原顕季がこれを模写して、初めて人麿影供を行なったとされる[8]能因相模出羽弁といった歌人達と交流があり、江侍従との間には一女(左大臣家少輔)を儲けている。

官歴編集

系譜編集

また『尊卑分脈』や『宇都宮系図』[13]などによると、兼房の子に宗円がおり宇都宮氏の祖となったとされる。しかしこれについては、宗円の出自を中原氏とするなどの異論もあり、正確なことは判っていない。

脚注編集

  1. ^ 『小右記』寛仁2年4月1日条
  2. ^ 『小右記』寛仁2年4月2日条
  3. ^ 仏名経を読んで三世諸仏の名号を唱え、その年の罪障を懺悔し消滅を祈る、年末に行われる法会。
  4. ^ 『小右記』治安元年12月24日条
  5. ^ 『小右記』治安3年12月26日条
  6. ^ 『土右記』延久元年6月4日条
  7. ^ 『勅撰作者部類』
  8. ^ 『柿本影供記』『十訓抄』
  9. ^ a b 『権記』
  10. ^ 『御堂関白記』
  11. ^ 『公卿補任』
  12. ^ 『春記』
  13. ^ 「宇都宮系図」(『続群書類従』巻第152所収)

出典編集

  • 洞院公定尊卑分脈』今泉定介、吉川弘文館〈故実叢書〉、東京、1899年。NCID BN12488942
  • 繁田信一『殴り合う貴族たち -平安朝裏源氏物語』柏書房、2005年。