金属類回収令
金属類回収令(きんぞくるいかいしゅうれい、昭和18年8月12日勅令第667号)は日中戦争から太平洋戦争にかけて戦局の激化と物資(武器生産に必要な金属資源)の不足を補うため、官民所有の金属類回収を行う目的で制定された日本の勅令。
金属類回収令 | |
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![]() 日本の法令 | |
通称・略称 | なし |
法令番号 | 昭和16年8月30日勅令第835号 |
種類 | 行政手続法 |
効力 | 廃止 |
主な内容 | 必要な金属資源の不足を補うためとられた政策 |
関連法令 | 国家総動員法など |
条文リンク | 国立国会図書館デジタル化資料 |
概要編集
1941年(昭和16年)に公布され(昭和16年8月30日勅令第835号)、その後1943年(昭和18年)に全面改正された(昭和18年8月12日勅令第667号)。また、1945年(昭和20年)に回収対象にアルミニウムを追加する改正が行われた(昭和20年2月10日勅令第62号)。
この勅令は内地では1941年(昭和16年)9月1日より、外地の朝鮮、台湾、樺太、南洋群島では同年10月1日より施行された。
1942年5月9日金属回収令による強制譲渡命令を公布、5月12日発動した(閣令)。
当時の庶民が提供できるのは鍋やベーゴマなど僅かな金属製品のみであり、不足を補えるほどでは無かった。第二次世界大戦末期には不足が深刻化し、四式陶製手榴弾のような金属の使用を減らした兵器の開発も行われた。
1945年(昭和20年)10月19日、閣議において「戦時法令の整理に関する件」が決定され、工場事業場管理令等廃止ノ件(昭和20年10月24日勅令第601号)により廃止された[1][2]。
影響編集
各地では学校にある二宮金次郎や地元の偉人の銅像なども供出されたが、仙台城にあった伊達政宗の騎馬像(小室達作)は供出されたものの、上半身が放置されていたなど、資源化が間に合わなかった事例もある[3]。寺にある鐘楼の鐘や大仏像なども回収の対象となったが、西宮神社の狛犬像など免れた例もあり徹底されているとは言いがたい状況であった。
金属類回収令を受け、日用品の素材として「代用陶器」が開発された。当初は通常の陶磁器の域であったが、製造時にベークライトなどを混合することで鉄器に近い強度を持たせることに成功した[4]。
外国編集
第二次世界大戦中には多くの国で金属を始めとした戦略物資が不足したため、回収活動が行われた。
アメリカ編集
- ユニオン・パシフィック鉄道M-10000形列車 - 米国の流線型気動車。金属供出の目的で1942年に廃車解体された。
- Salvage for Victory(勝利のための廃品回収) - 1942年にアメリカ合衆国連邦政府が古紙・金属・布・ゴムなどの回収を呼びかけた。
イギリス編集
- Paper Salvage 1939–50 - 1939年にイギリス政府が行った強制的な紙の回収政策で戦後まで続いた。
ギャラリー編集
金属類回収令により供出される土浦国民学校の校門
脚注編集
関連項目編集
外部リンク編集
- 「御署名原本・昭和十六年・勅令第八三五号・金属類回収令」 アジア歴史資料センター Ref.A03022633800
- 「金属類回収令ヲ改正ス」 アジア歴史資料センター Ref.A03010137900
- 「御署名原本・昭和二十年・勅令第六二号・金属類回収令中改正ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A04017717000
- 商工省金属回収本部転用課長近藤止文著『金属類回収令並に同施行規則改正に就て』羊毛統制会、1943年
- 「四日市市・富田浜海岸の噴水塔の金属回収」 - レファレンス協同データベース