外地

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日本における外地(がいち)とは、第二次世界大戦敗戦前に本州四国九州北海道以外で日本が支配していた土地を指す語である[1]

属地(ぞくち)とも称され、日本の領土だけでなく日本政府統治権が及ぶ外国の地域も含まれた。外地に対義する地域は内地と称されたが、「内地」が共通法に基づく法的用語だったのに対し、「外地」は法的に定められた用語では無かった。

概要編集

外地(属領[2])は一般的に国外の地を指し、日本では日本固有の領土[3]以外で、日清戦争終結後から新たに領有または統治するようになった地域を指す。具体的には、獲得した年代順で以下の地域である[4]

ただし、「外地」という用語は立法上定義されておらず(#共通法による扱い)、行政用語としても慣例的な使用に留まり、その定義は必ずしも明確では無かった(#外地の語の用法)。その為、満州事変から太平洋戦争にかけての間に日本軍占領地[5]を獲得すると、満州国や中国各地の日本人租界中南米ハワイ等の移民先も含め、法的には日本政府の統治権が及ばない領域の中で日本人社会が形成されている区域も外地に含める場合が生じた[6]

「外地」という用語の登場編集

1920年代の終り頃から植民地を「外地」という呼称で置き換える動きが出てきた[7]。その理由について中村哲は植民地という単語の持つ「一定の印象」を避けるためだと説明している[8]。ただし外地という呼称に完全に切り替わったわけではない。その後も国会の場[9]で、あるいは公文書において[10][11][12]、植民地の単語が用いられることがしばしばであった。また新聞でも、「外地」呼称登場後も相変わらず植民地の語が広く用いられた[13][14][15][16][17]し、小説でもそうであった[18]

「植民地」という単語の持つマイナスイメージ、その言葉を口にすることの後ろめたさ、を避けるために「外地」と言い換える。その分かりやすい例が次の国会発言[19]である。

衆議院予算委員会1935年2月8日  ○河野委員(河野一郎) それは私も承知して居るが、大体内地で法律が出来ると、それに関連して植民地、植民地と言ふことは言葉が悪いでせうが、朝鮮、台湾、是等の外地の方面にそれぞれ法令出来ると云ふことが従来の慣例だと私は思ふ、こちらに法律がないのに、向ふだけがさう云ふ法律を作る場合は殆んど有り得ない、所が船の問題は(8頁4段)

共通法による扱い編集

法律上、「内地」という地域概念はあったが、「外地」という地域概念は無かった。

1895年、日本は台湾領土に編入したが、その際に台湾の統治機構として台湾総督府を設置した。その為、日本の領土は施行される法令の形式・内容が台湾とその他日本政府の直轄地域とで異なる事態となった。その後、適用法令の異なる地域が更に増えたことで統一的に法令を運用するための法規範が必要になり、法令の適用範囲・適用関係の確定及び各地域間の連絡統一を目的として、1918年共通法大正7年法律第39号)(1918年4月17日施行)が制定された。

その際、日本の統治権が及ぶ地域は同法第1条によって下記の通りに分類された。ここで日本の領域内地朝鮮台湾関東州及び南洋群島とで区分されたが、適用法令の異なる地域をまとめる必要が無かったため、内地以外の地域を包括する用語は用いられなかった。

  • 大正7年法律第39号版[20]
本法ニ於テ地域ト稱スルハ内地、朝鮮、臺灣又ハ關東州ヲ謂フ
前項ノ内地ニハ樺太ヲ包含ス
  • 大正12年法律第25号版[21]
本法ニ於テ地域ト稱スルハ内地、朝鮮、臺灣、關東州又ハ南洋群島ヲ謂フ
前項ノ内地ニハ樺太ヲ包含ス

共通法において、樺太は内地に分類されると明記された唯一の地域だった。また、関東州(租借地)や南洋群島(委任統治領)は日本の領土ではなかったが、共通法はその性質上これら地域でも当然に施行されるべき法律とされていた。

なお、共通法は2019年現在に至るまで廃止の措置を採られていないが、日本国との平和条約1951年締結)で日本は外地における全ての権利権原及び請求権を放棄したため、事実上失効していると解されている。

内地に編入された地域編集

樺太南樺太)は、日清戦争終結後に獲得した領土の中で唯一共通法上の内地とされた地域である。

南樺太は、1875年樺太・千島交換条約で一旦喪失したものの、1905年に発効されたポーツマス条約によって北緯50度線以南が日本領に復帰した経緯を有する。日本政府は、新領土の台湾と同様に帝国議会協賛を要するという見解を前提にした方策が採った。だが、南樺太に設置された樺太庁の長たる樺太庁長官には、樺太庁令という形式の命令を発する権限はあったものの、台湾総督朝鮮総督のように立法権を一般的に委任する方策は採らなかった。これは、南樺太は台湾や朝鮮とは異なり内地からの移住者が多かったため、内地からの移住者については内地の法令をそのまま適用するのが相当であったためである。そのため、1918年に施行された共通法(大正7年法律第39号)では、内地とされる地域として唯一地域名が明記された。しかし、内地の法令のみでは対応しきれないこともあった為、南樺太に施行すべき法律は勅令で定められた他、勅令の「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)に基づいて、施行される法律に若干の地方的又は種族法的な性質を有する特例を設ける方式を採った。このような特殊な扱いは1943年3月末まで続いたが、翌4月1日に勅令が廃止されると名実ともに樺太が内地に編入された。

このような事情から南樺太を外地として扱わないこともある。

外地に適用される法令の区分編集

日本が外地を最初に取得したのは、下関条約の締結に伴い台湾の割譲を受けたことが最初である。その際、既に内地に施行されていた大日本帝国憲法(以下、単に「憲法」という)の効力がその後に統治権を取得した地域に対しても及ぶかという形式的な問題(具体的には、外地の立法につき憲法5条の規定により帝国議会の協賛が必要か否かという問題)、内地人とは異なる慣習を持つ者が住む地域に対して内地に施行されていた法令をそのまま外地にも施行するのが相当かという実質的な問題が生じた。

当時の政府は、外国人顧問から聴いた母国の植民地法制を参考にしつつ、日本の領土たる外地(南樺太、台湾、朝鮮)には憲法の効力が及ぶのに対し、日本の領土ではない外地(関東州、南洋群島)には憲法の効力が及ばないという考え方を前提にして、統治方針を決めた。台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律(明治29年法律第63号(六三法))にちなみこの論点は六三問題と呼ばれ、宮澤俊義『憲法講義案』(1936年4月17日発行)によれば「台湾・朝鮮および樺太でも憲法は通用する。但し、ここでは法律(大正一〇法三・明治四四法三〇・明治四〇法二五)によつてゐる程度の「立法の委任」が行はれてゐる」(P.16)とする。これに対し美濃部達吉は、著書『憲法講話』において上記植民地の見解をふまえ「凡て殖民地には憲法は施行せられないと解するのが正当な解釈である」として政府の解釈を否定した。

外地に施行すべき法令の形式については、日本の領土であったか否かという点、領土であった地域については内地人の割合が多かったか否かという点により、統治方針が区別される。

台湾編集

台湾は、1895年(明治28年)に清国と間で調印された下関条約により、日本の領土となった。

台湾統治に当っては、当時の政府の見解としては、前述のとおり日本の領土であるため憲法の効力が及び、台湾における立法についても憲法5条により帝国議会の協賛を要するという見解を基本として統治方針を固めた。しかし、慣習調査の必要もあり、台湾の実情を踏まえた法律を整備することには時間を費やすことが予想された。

そのため、時期によって差異はあるものの、その性質上当然に施行されるべき法律は別として、台湾統治のために設置された台湾総督府の長たる台湾総督が発する命令律令)という形で立法権を委任する(委任が包括的であったため、憲法違反ではないかという議論が起きた。)ほか、内地に施行される法律につき勅令で台湾にも施行することができるようにする方針を採った(初期は前者が原則だったが、後に後者が原則になる。詳細については台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律を参照)。

朝鮮編集

朝鮮は、1910年調印の日韓併合条約により、日本の領土となった。

朝鮮における立法も、台湾と同様に日本の領土とされたため、帝国議会の協賛を要するという見解を前提にした方策が採られ、その性質上当然に施行されるべき法律は別として、朝鮮統治のために設置された朝鮮総督府の長たる朝鮮総督が発する命令(制令)という形で立法権を委任するほか、内地に施行される法律につき勅令で朝鮮にも施行することができるようにする方針を採った。もっとも、台湾の場合と異なり、最後まで前者が原則であった。

関東州編集

関東州は、1905年調印のポーツマス条約により、租借地としてロシアから引き継いだ地域である。

関東州は、日本が統治権を取得したものの、領土の一部を構成していたわけではなかった。このようなことを根拠に、政府は関東州には憲法の効力が及ばず、天皇は帝国議会の協賛を要せず立法権を行使できるという見解を採った。つまり、内地の法律を勅令により施行する措置は採らず(性質上外地にも施行される法律を除く)、勅令を関東州に対して発することにより立法権を行使することにした。もっとも、基本的には内地に施行されていた法律に依る旨の内容の勅令を出していた。また、関東長官には、一定の範囲で罰則の制定権を認めることにより、一定の範囲で立法権を委任する措置を採った(関東庁令)。

南洋群島編集

南洋群島は、1919年調印のヴェルサイユ条約により、ドイツの植民地であった南洋群島の一部につき1920年に国際連盟による委任統治領として認められた地域である。

南洋群島(南洋庁)についても、関東州と同様に領土ではないという点から、内地の法律を施行する措置は採られず、天皇が発する勅令により立法権を行使することにし、南洋長官には、一定の範囲で罰則を設けることを認めることにより、一定の範囲で立法権を委任する措置を採った(南洋庁令)。1933年、日本が国際連盟脱退を宣言すると(正式脱退は1935年)、南洋群島については引き続き委任統治を行った[22]。住民構成は、朝鮮・台湾・関東州と異なり、現地人である島民よりも内地人台湾人などの移住者の人口が多かった。

教育制度編集

外地の喪失編集

外地とされていた地域は、1945年日本が連合国に降伏した結果、全てを喪失した。そのため、2020年現在は外地と称される地域が存在しない。

外地における日本政府統治権は、地域によりばらつきがあるものの、現地を占領した連合国軍1945年10月25日[23]までに移譲された。この時点で日本は外地における主権を法的にはまだ有していたが、GHQ1946年に発令したSCAPIN(SCAPIN-677)で鬱陵島済州島以外の外地[24]を「日本帝国政府の政治上行政上の管轄権から特に除外せられる地域」へ指定して日本の主権下から離脱させる方針を明確化した。

外地における日本の主権は、1951年に締結された日本国との平和条約第二条によって放棄が確定した。日本が外地における主権を喪失した法的な時期については、日本国との平和条約第二条で外地の権利権原請求権放棄に関する規定があるため、同条約の発効日である1952年4月28日と考えるのが一般的である。ただし台湾については、台湾を実効支配する中華民国が同条約に調印していないため、日本が中華民国と個別に締結した日華平和条約の発効日である1952年8月5日とする考え方もある。

2017年6月5日衆議院の決算行政監視委員会が旧外地5地域(朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋)の10特別会計について、最終年度である昭和19年度(1944年4月 - 1945年3月)決算を承認。政府会計上の戦後処理が全て終了した[25]

外地の語の用法編集

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦以前・戦時中の用例編集

太平洋戦争(当時の日本側呼称:大東亜戦争)前の日本では、外地の語は慣用語であったため、用例により範囲が異なっていた。

  • 太平洋戦争(大東亜戦争)開戦前の法令で所得税法人税内外地関渉法(昭和15年法律55号)など表題に内外地という表現を含む法令があったが、外地の語は単独で用いられず、その範囲は定義されなかった。ただし、これらの法令は朝鮮・台湾・関東州・南洋群島・樺太について規定しており、これらが外地に相当するものと推定される。
  • 内閣統計局『日本帝国統計年鑑』(~1941年)は朝鮮・台湾・樺太のみを外地とした。日本の領土ではなかった南洋群島・関東州・南満州鉄道付属地は外地に含めなかった。
  • 山崎丹照『外地統治機構の研究』(1943年)は朝鮮・台湾・関東州・南洋群島・樺太を外地とした。
  • 一般的な用法としては、朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島のほか、南満州鉄道付属地満洲国、および大東亜戦争太平洋戦争)中の占領地を含めて外地と呼ぶことがあった。

その他、領事が領事裁判権を保有する租界などは、内地に含まれた。

太平洋戦争(大東亜戦争)終結後の用例編集

太平洋戦争(大東亜戦争)終結後の日本では、外地の語が法令で用いられるようになった。

  • 外地官署所属職員の身分に関する勅令(昭和21年勅令第287号)など法令に外地の語があらわれた。法令中では外地の定義・範囲は明かではないが、外地官署とはすなわち台湾総督府、朝鮮総督府、関東局、樺太庁、南洋庁を指すものとして運用された。
  • 外務省条約局編『外地法制誌』(1955~1971年)は台湾・朝鮮・樺太・南洋諸島・関東州・南満州鉄道付属地を外地として扱っていた。外務省条約局によれば、「外地とはすなわち内地の法体系とは異なる外地法によって外地法令が適用された地域[26]」とされた。

現行法上の外地編集

2016年現在の現行法において単に外地という場合は「本邦以外の地域」を意味し、日本の旧統治区域に限定されない(引揚者給付金等支給法第2条など)。このほか、外地に関する法律用語としては次のようなものがあるが、その範囲は一定しない。

外地郵便貯金・外地郵便為替・外地郵便振替貯金
朝鮮、台湾、関東州、樺太、千島列島、南洋群島、小笠原諸島硫黄列島硫黄鳥島伊平屋島及び北緯27度以南の南西諸島大東諸島を含む)にあった郵便局で扱われたもの(軍事郵便貯金等特別処理法第2条[27]
外地弁護士
朝鮮弁護士令・台湾弁護士令・関東州弁護士令による弁護士(検察庁法第37条など)
外地関係共済組合
朝鮮総督府の逓信官署共済組合・交通局共済組合、および台湾総督府の専売局共済組合・営林共済組合令・交通局逓信共済組合・交通局鉄道共済組合(旧令による共済組合等からの年金受給者のための特別措置法第2条)
外地整理事務
外務省の所管事務の一つ(外務省設置法第4条)
外務省外地整理室を参照。

類似概念編集

植民地編集

日本政府が内地以外の統治区域を植民地と呼ぶことは珍しく、ほとんどの法令は個別の領域名(樺太・朝鮮・台湾等々)をもって記述されるのが通例であった。ただし行政文書においては「植民地」の用語例は見られ、例えば大正12年刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」としていた(同書では南満州鉄道付属地も扱っている)。準行政文書としては1929年の満鉄臨時経済調査委員会編纂『帝国植民地課税一覧』がある。

法令等において日本の外地を植民地と呼称した例としては、1932年9月3日『予算外国庫ノ負担トナルベキ契約ヲ為スヲ要スル件』に使用例があるが、その他にはほとんどみられない。現行法上は日本の旧外地を植民地と呼ぶことはない。なお外国の属領を植民地と呼ぶことはある(現行法でも)。

社会科学界では「外地」「植民地」分類による文章は大量に存在し、例えば憲法学者・行政法学者であった美濃部達吉は、「法律上の意義に於ての殖民地」を「国家の統治区域の一部にして内地と原則として国法を異にし」たものと定義し、「朝鮮、台湾、樺太、関東州及南洋群島が此の意義において植民地なることは疑いを容れず」と述べている(『憲法撮要』1923年)。

しかし同時代的な「植民地」なる用語への評価としては

(植民地の)文字の我国で用ゐられ初めたのは、極めて最近の事で、明治以前の空気に多く包まれた人の頭には、植民地という文字が、非常にハイカラな文字になつて響いて居る。植民地がどうの、植民政策がどうの、拓殖局がどうのといつた所で、虻が鼻の頭を刺した程の感じもない。新領土といふ文字にせよ、其れは二十七八年、三十七八年に於ける、二大戦役の賜物で、此戦役以前、新領土といふ文字は、あまり繰り返されて居ない。何れにしても、植民地といふ文字は、現代人に未だ耳新しい文字である。先ず植民的知識をいへば、其れは北海道開拓の其れであつたらう。北海道開拓は、我日本国民に、植民の意味を、朧気ながらも、先づ放つた所の鐘の音であるのである」(「日本植民地要覧」全国新聞東京聯合社編、1912年10月)。

また以下の資料からは植民地という用語への感情的反発があったことがうかがえる。1905年の帝国議会において下記のようなことがあった。

衆議院の委員会において、当時の首相で第二代台湾総督でもあった桂太郎が、台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。(小熊英二、『<日本人>の境界』新曜社 第5章 p142~p143 ISBN 4-7885-0648-3、1998年刊)

我国にては斯の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺

太等地名を呼ぶ。 但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。 我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、 「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は 大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。

併乍ら研究者は事実関係を以ってその研究対象とするより外はない。(矢内原忠雄『植民及植民政策』 有斐閣 1926年刊)

ただし、小熊が挙げたのは1905年2月22日衆議院本会議における守屋此助議員の発言[28]であるが、これには続きがあって、政府委員である法制局長官一木喜徳郎(一木はこれ以前に帝国大学法科大学教授、貴族院議員)が守屋に対してこう答弁している。

総理大臣が委員会に於て殖民地として扱ふのであると云ふことを言はれたに付いて、云々と云ふ御尋ねもありましたが、殖民地と云ふことは、随分いろいろの意味に用ゐらるゝ言葉であらうと思ふ、学者に定義を下さしめたならば、殖民地と云ふことに付いては、人々の定義はいろいろであらうと思ひます、要するに台湾に於きましては、内地同様の制度を以てすることが出来ない、特別の制度を以て支配しなければならぬと云ふことは、予てより執って居るところの方針であるのであります、其の意味を言現はすために、殖民地と云ふ言葉を用ゐられたのであります、

この後は台湾朝鮮などは植民地であるという認識が一般化した(→植民地#「植民地」認識の一般化

海外領土等編集

国際連盟事務局からの海外領土等の名称及び順序に関する照会に対し、外務省は1930年8月、朝鮮[29]・台湾[30]・樺太[31]・関東州租借地[32]・日本国委任統治南洋群島[33]と回答している。なお、この回答案作成の際、外務省の内部文書ではこれらの地域を一括して殖民地と呼んでいる。

属地編集

条約上、内地以外の統治区域を総称するときに属地という語が用いられた。例えば万国郵便条約(大正14年条約第11号)。

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 精選版 日本国語大辞典「外地」
  2. ^ : dependent territory
  3. ^ 日本の憲法体系では、新旧憲法ともに領土規定が存在せず、比較法学の観点ではこれは異例である。明治憲法には領土規定がなく、ヘルマン・ロエスレルの案の段階においては、領土は自明のものであり、また国体に関わり議院に属さないものだとして領土規定は立ち消えたのであるが、実際にはロエスレルの認識とは異なり、日本の領土は北(樺太北海道)も南(琉球)も対外政策的には不安定な状況にあった。ただし、この事情が明治政府にとって好都合であったことは確かで、露骨なものとしては「我カ憲法ハ領土ニ就イテ規定スル所ナシ、諸国憲法ノ或ハ領土ヲ列挙スルト甚タ異レリ、サレハ我ニ在リテハ、領土ノ獲得ハ憲法改正ノ手続ヲ要セス」(上杉慎吉「新稿・憲法述義」1924年P.143)と解されていた。
    * 石村修「憲法における領土」『法政理論』第39巻第4号、新潟大学法学会、2007年3月、 158-185頁、 ISSN 02861577NAID 110009004068
    * 石村修, 「植民地法制の形成-序説- (PDF) 」専修大学法科大学院 第6回東アジア法哲学会シンポジウム
  4. ^ goo辞書「外地」[1]
  5. ^ : occupied territories
  6. ^ 「日本の国土からみて、外国の土地」Yahoo!辞書[2]
  7. ^ 矢内原忠雄『植民及植民政策』有斐閣、1937年、36頁。「近年拓務省設置(引用者注:1929年設置)以来我国植民地を総称する官庁用語として『外地』なる語を用ふるに至った。蓋し本国を『内地』と呼ぶに相対する用語である。」
  8. ^ 植民地統治法の基本問題』日本評論社、1943年、109頁。「今日ひろく外地と呼ばれるようになつたのも、植民地という既定の概念が一定の印象をもたしめるからである……ドイツが従来、植民地を保護地(Schutzgebiet)と称へて来たのも、植民地の概念が英国の神経を刺戟するのを避けたためであつた。」
  9. ^ 第67回帝国議会 衆議院 予算委員第六分科(逓信省及鉄道省所管) 第3号 昭和10年2月8日”. 帝国議会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2021年9月2日閲覧。 “◯浅野政府委員(※浅野平二逓信省管船局長) 「只今御話の通り、現在に於きましては内地在籍船の外、朝鮮在籍船、或は関東州在籍船と云ふ風に、それぞれ違った取扱を受けて居るやうな実情でございまして、私共と致しましては、内地植民地間に於ける海事行政の統一と云ふことは多年の懸案でございまして(4頁4段) ◯床次国務大臣(※床次竹二郎逓信大臣)「植民地に在籍する船と、内地に在籍する船とは条件が必ずしも同じやうな状態の下に置かれて居らぬ為に、直ちにそれを以て一様に扱ふと(5頁3段) ◯板谷主査 内地と植民地との船舶の統制と云ふことは多年の問題であって、私共も随分長い間力説をしたのでありまするが(7頁1段)◯青木政府委員(※青木精一逓信政務次官)「要するに是は植民地制度の根本に触れて居る問題だと思ふのです、ですからして、植民地総督、或は長官の権限に関することゝ、拓務省関係等の、複雑なる事情が従来の法制、法規の上に錯綜して居る結果が、未だそれが解決して統制されないものと思はれますからして(7頁3段)”
  10. ^ 文部大臣官房体育課『昭和七年 殖民地に於ける体育運動団体に関する調査』、1932年。「緒言 本調査は朝鮮、台湾、関東州及樺太に於ける主なる体育運動団体に付其の概要を調査せるものにして」
  11. ^ 昭和7年度植民地通信統計”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年8月30日閲覧。
  12. ^ 農林省農政局編『家畜衛生統計. 第17次』、1943年、79頁。「参考統計 第二表 植民地に於ける家畜伝染病関係統計表」
  13. ^ 国民新聞1934.6.5-1934.11.3 (昭和9)「電力界の功罪史 動力国策と電気の必要性」”. 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫. 2021年8月30日閲覧。 “電気のみは各国相互間はおろか本州と朝鮮、台湾、樺太等植民地間とすら設備の共用、電力の融通、共にこれをなし得るの途がついて居らない”
  14. ^ 赤裸の比島 (上)”. 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫. 2021年8月30日閲覧。 “日本の植民地たる朝鮮台湾(澎湖列島を含む)樺太(南半)及び南洋委任統治領を合した面積十一万二千八百十一平方マイル”
  15. ^ 大阪時事新報 1937.9.13-1937.9.14 (昭和12)「対支貿易を語る 注目すべき情勢の変化 (上・[下)その現在、将来に就て」]”. 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫. 2021年8月30日閲覧。 “我国総輸出入額も台湾朝鮮、南洋の植民地貿易額を含んでいない”
  16. ^ 神戸新聞 1938.4.27 (昭和13)「朝鮮と朝鮮人 わが綜合経済ブロックの一環内鮮一如徹底化へ」”. 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫. 2021年8月30日閲覧。 “朝鮮は日満間に介在して……全植民地面積の七四・八%を占め”
  17. ^ 大阪毎日新聞 1938.7.1 (昭和13)「皮革使用制限は当然の帰結 原皮主要輸入先は支那」”. 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫. 2021年8月30日閲覧。 “わが国は内地植民地を通じてもこの皮革資源に恵まれず……植民地からの移入は朝鮮が主で台湾は少量だがどちらもほとんど問題にならず内地需要の約六分、これでは焼け石に水の類である”
  18. ^ 中島敦「虎狩」 (1942年)”. 青空文庫. 2021年9月3日閲覧。 “その友達の名は趙大煥といった……兎角、彼は日本語が非常に巧だった。それに、よく小説などを読んでいたので、植民地あたりの日本の少年達が聞いたこともないような江戸前の言葉さえ知っていた位だ。で、一見して彼を半島人と見破ることは誰にも出来なかった。”
  19. ^ 第67回帝国議会 衆議院 予算委員第六分科(逓信省及鉄道省所管) 第3号 昭和10年2月8日”. 帝国議会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2021年9月2日閲覧。
  20. ^ 共通法”. ウィキソース. 2019年12月23日閲覧。
  21. ^ 共通法中改正 (大正12年法律第25号)”. ウィキソース. 2019年12月23日閲覧。
  22. ^ 日本が国際連盟を脱退すると、委任統治の根拠が薄くなったが、1933年3月16日「帝国の国際連盟脱退後の南洋委任統治の帰趨に関する帝国政府の方針決定の件」を閣議決定し、委任統治はヴェルサイユ条約での批准事項であることを盾に引き続き委任統治を行った。なお国際連盟への統治に関する年次報告は1938年まで行っている。
  23. ^ 台湾総督府国民政府に降伏(台湾光復)した日。他の地域はこの日以前に連合国軍に降伏していた。
  24. ^ SCAPIN-677では、朝鮮の範囲に鬱陵島・済州島が含まれておらす、両島は内地の一部地域と共に「日本の範囲から除かれる地域」へ分類された。だが、日本国との平和条約第二条では「朝鮮に対するすべての権利」の中に鬱陵島・済州島が含まれた為、両島における日本の主権喪失が確定した。
  25. ^ “旧外地特別会計 衆院委承認/政府会計、戦後処理終わる”. 毎日新聞朝刊. (2017年6月6日). https://mainichi.jp/articles/20170606/ddm/005/010/113000c 
  26. ^ : the territory governed by laws other than those of Japan proper
  27. ^ 法律では「旧外地等にあつた郵便局で預入された郵便貯金」「旧外地等にあつた郵便局に振出の請求があつた郵便為替」「旧外地等にあつた郵便局で払い込まれた郵便振替貯金の払込金」としている。
  28. ^ 第21回帝国議会 衆議院 本会議 第19号 明治38年2月21日、17-18頁”. 帝国議会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2021年9月2日閲覧。
  29. ^ : Chosen
  30. ^ : Taiwan
  31. ^ : Karafuto
  32. ^ : The leased Territory of Kwantung
  33. ^ : The South Sea Islands under Japanese Mandate

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集