金 文輔(キム・ムンボ、日本語読み: きん ぶんすけ、朝鮮語: 김문보1900年光武3年〉[注釈 1] - 没年不明)は大韓帝国出身のバリトン歌手、作曲家

金文輔
김문보
別名 吉澤 文輔[1]
生誕 1900年
出身地 大韓帝国 大邱郡
死没 不明
学歴 東京音楽学校本科声楽部修了
ジャンル クラシック音楽
職業 バリトン歌手、作曲家
配偶者 吉澤なを
宇田豊子

経歴 編集

大韓帝国大邱郡出身[2]1918年京城徽文義塾朝鮮語版卒業後に日本に渡航[4]1919年東京音楽学校予科に特別入学[5]1924年3月、同校本科声楽部を修了[6]。東京音楽学校在学中に船橋榮吉ハンカ・ペツォルトに、修了後にマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事[2]関東学院の音楽教員となった。作曲家としての作品に『朝鮮樵夫の哀調歌』がある[3]

ソプラノ歌手であった先妻の吉澤なを(金直子)と結婚[3][7]。移住の直前に文輔の弟子であった長野県出身の宇田豊子(朝鮮名:金朝美、キム・チョミ)と再婚[4][8]。豊子は実家から絶縁された[4]

1960年6月、在日朝鮮人の帰還事業により北朝鮮に移住[8]。豊子は国立交響楽団の歌手になった。

文輔は平壌音楽大学の教員になるが[9][10]、KBSの専門委員であった呉基完によると永田絃次郎(金永吉)ともに呼ばれた金日成との面会で[10]、北朝鮮での暮らしの感想を求められ、文輔が笑いながら「いや、心配なさるほどのものではありません。こっちの習慣にもうじき慣れるはずですから、ハハハ・・・」と金日成の肩を軽く叩いたとことが不敬行為と見なされ、スパイ罪で銃殺刑になったとされる[11]

一方、1997年11月に豊子の日本人妻の里帰りでの一時帰国時の会見では「日本にいるときから酒が好きで、肝臓の病気で亡くなりました」「そんなデマなことを言われたら困りますねぇ」と否定している[12]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 『現代音楽大観』[2]、『音楽年鑑』[3]は誕生日を1900年2月29日としているが、グレゴリオ暦において1900年は平年でありこの日付は存在しない。

出典 編集

  1. ^ 日本放送協会 編「吉澤 文輔」『著作権者名簿』(訂3版)日本放送協会、1940年1月25日、284頁。NDLJP:1686674https://dl.ndl.go.jp/pid/1686674/1/146 
  2. ^ a b c 東京日日通信社 1927, p. 122, 金 文輔.
  3. ^ a b c 東京音楽協会 1935, p. 34, 金 文輔, 金 直子.
  4. ^ a b c 金達寿 1961, p. 251.
  5. ^ 大蔵省印刷局 編「入学許可並取消」『官報』2002号、日本マイクロ写真、1919年4月9日、219頁。NDLJP:2954116https://dl.ndl.go.jp/pid/2954116/1/6 
  6. ^ 大蔵省印刷局 編「合格、卒業及得業證書授与」『官報』3505号、日本マイクロ写真、1924年5月2日、34頁。NDLJP:2955653https://dl.ndl.go.jp/pid/2955653/1/10 
  7. ^ 東京日日通信社 1927, pp. 122–123, 金 なを子.
  8. ^ a b 柴田穂 1984, p. 36.
  9. ^ 外国文出版社 1960, p. 45.
  10. ^ a b 柴田穂 1984, p. 39.
  11. ^ 柴田穂 1984, p. 51.
  12. ^ 草柳大蔵"日本人妻"で本卦帰りした新聞報道」『ビジネス・インテリジェンス』第12巻第1号、ビジネス・インテリジェンス社、1998年1月1日、48 - 49頁、NDLJP:2892737 

参考文献 編集

  • 東京日日通信社 編『現代音楽大観』日本名鑑協会、1927年11月25日。NDLJP:1173920 
  • 東京音楽協会 編『音楽年鑑 昭和10年版』音楽世界社、1935年3月20日。NDLJP:1211524 
  • 『帰国した人びと』外国文出版社、1960年3月。NDLJP:3032470 
  • 金達寿『夜きた男』東方社、1961年3月10日、251 - 252頁。NDLJP:1359648/129 
  • 柴田穂『金日成の野望 下巻 (望郷の日本人妻)』サンケイ出版、1984年11月10日、36 - 51頁。NDLJP:11924532/22 

関連項目 編集