鍋島 直与(なべしま なおとも、旧字体: 鍋島直與)は、肥前国蓮池藩8代藩主。蘭癖大名といわれ、著作に『仏蘭察誌』『欧羅巴諸図』がある。

 
鍋島 直与
鍋島直与像(佐賀県立博物館蔵)
時代 江戸時代後期 - 末期(幕末
生誕 寛政10年5月3日1798年6月16日
死没 元治元年11月9日1864年12月7日
改名 愛吉(幼名)→神代直珍(初名)→鍋島直与
別名 弾正、主税(通称)、雲庵、雲艘、鷲翁(法号)
戒名 天賜院殿雲庵宗樹大居士
墓所 佐賀県佐賀市蓮池町西名の宗眼寺
官位 従五位下、摂津
幕府 江戸幕府
肥前蓮池藩
氏族 鍋島氏神代氏→鍋島氏
父母 父:鍋島治茂、母:甲斐善太夫の娘
養父:神代直興鍋島直温
兄弟 斉直、敏次郎、徹之助、直道直彜直与
正室:鶴子日野資矩の次女、鍋島斉正の養女)
継室:千万二条治孝の娘)
側室:式部、田鶴、右京、犬塚左馬五郎の娘
小侍従、喜与
直紀石井忠躬藤珍彦(五男・悼若)、婉(長女・諫早一学室)、娘(鹿島熊次郎室)、娘(宗重正室)、娘(大関増勤室)、葛子(鍋島直彬正室)
養子:賢在
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生涯 編集

寛政10年(1798年)5月3日、肥前佐賀藩第8代藩主・鍋島治茂の七男として佐賀城で生まれる。文化2年(1805年)に親族の神代直興鍋島光茂の玄孫)の養子となり、直珍(なおよし)、通称を弾正と名乗った。文化12年(1815年)に四兄の直道が養父の蓮池藩主・直温から廃嫡されたため、代わって養子に入り、諱を直與、通称を主税に改めた。神代家の家督は長兄・斉直の三男の賢在が継いだ。文化13年(1816年)4月4日、直温の隠居により19歳で家督を継いだ。

藩政では高島秋帆の長男・高島浅五郎を招聘して新式大砲を製造させ、さらに多くの蘭書を翻訳させた。財政再建のために綱紀粛正、倹約令、家臣団の知行削減などを行なっている。

文政6年(1823年)、昌平黌古賀精里に学んだ同藩用人の満野荷州(順、代右衛門)を藩校・成章館の教授に任じた。また佐賀蘭学の祖・島本良順を侍医として招聘している。

これら一連の藩政の実力を評価されて、天保元年(1830年)には幕府より幕府若年寄寺社奉行に推挙されかけたが、本家藩主の甥斉正の反対に遭って実現することなく終わった[1]

弘化2年(1845年)7月28日、長男の直紀に家督を譲って隠居した。しかしその後も隠居の身で藩政に介入している。退隠後、蓮池東館の近隣数町の土地を遊園として造成し「天賜園」と名付けた。六十四景で構成されていた。嘉永2年(1849年)2月、塩田から取り寄せた大石に自作の七言十律詩を彫らせた「雲庵道人帰田碑」を園内に建立した。

安政2年(1855年)3月、直與の命で鋳造が計画されていた西洋大砲数門が完成し、直與自ら官用船・長久丸で海路を塩田へ赴き、久間村(現在の嬉野市塩田町久間)高取山で試射が行われた。のちに大砲は城内杉山の武器庫に納められた。

同年4月、本藩医・大石良英を招き娘4人に種痘を施させた。

元治元年(1864年)11月9日、蓮池東館で死去した。享年67。ちょうど長州征討の時期と重なっていたため、喪の期間にあっても領内の具足師・鉄砲師・槍師・桶屋などは営業を許可された。

偏諱を与えた人物 編集

  • 鍋島(甥(兄・直道の子)。正式表記:鍋島與善、幼名:敬之助、1811-1839)

系譜 編集

父母

正室、継室

側室

子女

養子

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 餅ノ木鍋島家。
  2. ^ 悼若。
  3. ^ 石井清慎の養子。

出典 編集

  1. ^ 佐賀市教育委員会・文化振興課・文化振興係,佐賀市地域文化財データベースサイト さがの歴史・文化お宝帳 「蓮池公園」 2017年4月30日閲覧。