メインメニューを開く

鎌倉宮(かまくらぐう)は、 神奈川県鎌倉市二階堂にある神社である。 護良親王(もりながしんのう)を祭神とする。 建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。 神社本庁の包括下には当初より入っていない単立神社。別名 大塔宮おおとうのみや、またはだいとうのみや[1])。

鎌倉宮
Kamakuragu Main Hall.jpg
所在地 神奈川県鎌倉市二階堂154
位置 北緯35度19分34.5秒
東経139度34分0.6秒
座標: 北緯35度19分34.5秒 東経139度34分0.6秒
主祭神 護良親王
社格官幣中社
創建 明治2年(1869年
例祭 8月20日
地図
鎌倉宮の位置(神奈川県内)
鎌倉宮
鎌倉宮
テンプレートを表示

目次

護良親王編集

祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって殺められた。

武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治2年(1869年)2月、明治天皇護良親王を祀る神社の造営を命じた。7月15日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。

明治6年4月16日に明治天皇は鎌倉宮を行幸、同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格した。

1939年(昭和14年)1月18日、日本郵船の客船「秩父丸」は「鎌倉丸」と改名する[2]。客船「氷川丸」の船橋に氷川神社祭神を祀っているように、「秩父丸」にも秩父神社を勧請していた[2]。改名に際し、「鎌倉丸」は新たに鎌倉宮から御祭神を奉安した[2]

施設編集

土牢編集

本殿の後方にある土手の穴が、護良親王がおよそ9か月間幽閉されていた土牢であるという古伝承がある。土窟で2段になっている。「鎌倉覧勝考」によれば、上段は入り口から0.1寸ばかりの深さで2間四方余あり、下段はさらに7、8尺下って9尺四方あり、周囲は赤い土であるといい、さらに、「太平記」に「建武元年五月二日大塔宮を足利直義うけ取鎌倉へ下し奉つて、二階堂谷に土籠を塗てぞ置参らせける」とあり、土の牢とは記されておらず、薬師堂谷の御所または牢の御所と書いているものもあり、土籠は塗りごめた土蔵であり、四面を禁錮して入れ置いたのであるから、牢の御所と称したにすぎないという説もある。

宝物殿編集

1873年明治天皇が鎌倉宮へ行幸された際、行在所として建設された建物。 館内には鎌倉宮の祭神である護良親王ゆかりの品々や、歴代連合艦隊司令長官の書など多数くの宝物が展示されている(拝観は有料)。

撫で身代わり様編集

元弘三年(1333年)に吉野城落城の時、忠臣の村上彦四郎義光が護良親王の身代わりとなって切腹してエピソードから、村上彦四郎義光公を境内の樹齢103年の欅の大木で彫り上げた、「撫で身代わり様」像が拝殿横に存在する。

鎧姿の等身大武者像で厄除け、病気平癒のご利益があるとされ、参拝者が撫で回すので手沢を帯びて全身が光沢で輝いている。

小賀玉の木編集

鎌倉市指定の天然記念物で、ご神木である。

神鹿園編集

かつて丹沢地方から奉納されたシカが、神鹿として飼われていた施設が境内に存在したが、神鹿が1980年代半ばに逝去したために撤去され、跡地は駐車場となった。

最寄りの交通機関編集

JR東日本横須賀線江ノ島電鉄鎌倉駅より、京浜急行バス、鎌20「鎌倉宮(大塔宮)」行き。終点下車徒歩すぐ。

脚注編集

  1. ^ 京急バス「大塔宮」行きのアナウンスより。
  2. ^ a b c #三菱、20話12頁『「秩父丸」から「鎌倉丸」へ船名変更』
[ヘルプ]

参考文献編集

  • 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、21頁
  • 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、101頁
  • 三菱重工業株式会社横浜製作所「第2話 客船「秩父丸」」『20話でつづる名船の生涯』三菱重工業株式会社横浜製作所総務勤労課、2013年8月。

関連項目編集

外部リンク編集