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御祭神編集

護良親王編集

祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって殺められた。

持明院 南御方編集

持明院 南御方(じみょういん みなみのおんかた)は持明院中納言 藤原保藤卿の息女。護良親王の鎌倉ご幽閉に随行され、御身の回りの御世話をなされ、親王のご最期にあたっては理知光寺(廃寺。現、皇子護良親王墓陵)の長老と共に丁重に弔いをされた後、上洛し後醍醐天皇へその最期の仔細を報告した。

境内に摂社があり、「南方社」(みなみのかたしゃ)と呼ばれている。

村上彦四郎義光公編集

村上彦四郎義光公(むらかみひこしろう よしてるこう)は護良親王の忠臣で吉野落城に際しては、自刃を覚悟した親王をお諫めし、親王の鎧直垂を着用して身代わりとなり、腹十文字に掻き切って壮烈な最後を遂げた。1908年(明治四十一年)、真に至誠純忠の勇士として従三位を追贈され、贈従三位左馬権頭と呼ばれるようになった。

境内に摂社があり、「村上社」(むらかみしゃ)と呼ばれている。

歴史編集

1869年(明治2年)2月、武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治天皇護良親王を祀る神社の造営を命じて御自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけられた。7月15日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。

1873年(明治6年)4月16日に明治天皇は鎌倉宮を行幸、同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格した。

1939年(昭和14年)1月18日、日本郵船の客船「秩父丸」は「鎌倉丸」と改名する[2]。客船「氷川丸」の船橋に氷川神社祭神を祀っているように、「秩父丸」にも秩父神社を勧請していた[2]。改名に際し、「鎌倉丸」は新たに鎌倉宮から御祭神を奉安した[2]

施設編集

土牢編集

本殿の後方にある土手の穴が、護良親王がおよそ9か月間幽閉されていた土牢であるという古伝承がある。土窟で2段になっている。

「鎌倉覧勝考」によれば、上段は入り口から0.1寸ばかりの深さで2間四方余あり、下段はさらに7、8尺下って9尺四方あり、周囲は赤い土であるといい、さらに、「太平記」に「建武元年五月二日大塔宮を足利直義うけ取鎌倉へ下し奉つて、二階堂谷に土籠を塗てぞ置参らせける」とあり、土の牢とは記されておらず、薬師堂谷の御所または牢の御所と書いているものもあり、土籠は塗りごめた土蔵であり、四面を禁錮して入れ置いたのであるから、牢の御所と称したにすぎないという説もある(拝観は有料)。

宝物殿編集

1873年明治天皇が鎌倉宮へ行幸された際、行在所として建設された建物。 館内には鎌倉宮の祭神である護良親王ゆかりの品々や、歴代連合艦隊司令長官の書など多数くの宝物が展示されている(拝観は有料)。

撫で身代わり様編集

元弘3年(1333年)に吉野城落城の時、忠臣の村上彦四郎義光が護良親王の身代わりとなって切腹してエピソードから、平成16年(2004年)に村上彦四郎義光公を境内の樹齢103年の欅の大木で彫り上げた、「撫で身代わり様」像が拝殿横に存在する。

鎧姿の等身大武者像で厄除け、病気平癒のご利益があるとされ、参拝者が撫で回すので手沢を帯びて全身が光沢で輝いている。

獅子頭守像編集

拝殿の正面には、本神社のお守りの代表格である「獅子頭守(ししがしらまもり)」の巨大像がある。

真っ赤な獅子頭は護良親王が、獅子頭の小さなお守りを兜に忍ばせて自らの無事を祈ったのが由縁とされ、厄除け・幸運招来・交通安全・身代りなどの効能があるとされる。

盃割り舎編集

土器(かわらけ)に息を吹きかけて盃に自分の「厄(悪いもの)」を移し、「厄割り石」と呼ばれる大石に投げつけて割るための施設。設置されたのは比較的新しく、1980年代頃である(土器は有料)。

小賀玉の木編集

鎌倉市指定の天然記念物で、ご神木である。

休憩所編集

境内の社務所に隣接する二階建ての建物。参拝者、特に団体客の無料休憩所として利用される。椅子や机、自動販売機などが設置されている。結婚式の披露宴会場としても使用され、「太平殿」との別名もある。

時には災害時に、この建物と境内は避難所として使用されることもある[3]

神鹿園編集

かつて丹沢地方から奉納されたシカが、神鹿として飼われていた施設が境内に存在したが、神鹿が1980年代半ばに逝去したために撤去され、跡地は駐車場となった。

最寄りの交通機関編集

JR東日本横須賀線江ノ島電鉄鎌倉駅より、京浜急行バス、鎌20「鎌倉宮(大塔宮)」行き。終点下車徒歩すぐ。

脚注編集

  1. ^ 京急バス「大塔宮」停留所名。「大塔宮」行きのアナウンスより。「大塔宮」の正しい読み方は、勝野隆信の研究から、存命中は「おおとうのみや」であったことが実証されているが、『太平記』第5巻に「大塔宮」と「大唐(だいとう)の玄奘三蔵」をかけた駄洒落が載るなど、死後かなり早くの段階から「だいとうのみや」の読みもされていたらしい。長谷川端 『太平記』1巻、261頁。
  2. ^ a b c #三菱、20話12頁『「秩父丸」から「鎌倉丸」へ船名変更』
  3. ^ 2019年9月台風第15号により、二階堂地区に崖崩れ・停電が発生し、鎌倉市からの要請で災害派遣要請された陸上自衛隊第31普通科連隊)が、鎌倉宮の休憩所を避難所(一時避難場所)として指定して本部を設置し、9月10日から夜通し休憩所を開放。 電源や仮眠スペース、温水シャワー2台が設置され、約30人の避難者が訪れた。災害派遣活動は9月14日に終了して鎌倉宮より撤収した。
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参考文献編集

  • 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、21頁
  • 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、101頁
  • 三菱重工業株式会社横浜製作所「第2話 客船「秩父丸」」『20話でつづる名船の生涯』三菱重工業株式会社横浜製作所総務勤労課、2013年8月。
  • 長谷川端 『太平記』1巻 小学館〈新編日本古典文学全集 54〉、初版発行1994年10月10日。ISBN 978-4096580547 

関連項目編集

外部リンク編集