長沼賢海
長沼 賢海(ながぬま けんかい、1883年(明治16年)3月26日 - 1980年(昭和55年)7月14日)は、日本史学者。九州大学名誉教授。
人物情報 | |
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生誕 |
1883年3月26日 日本新潟県高田市 |
死没 | 1980年7月14日 (97歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 日本史 |
研究機関 | 九州大学 |
経歴
編集1883年、新潟県高田(現上越市)浄興寺山内の正光寺に生まれた[1]。長沼賢明の長男[2][3]。旧制新潟県立高田中学、旧制第四高等学校を経て、1907年、東京帝国大学文科大学国史学科を卒業[3][4][5]。
1912年、東京府立第一中学校教諭となった。東京府立第一中学校教諭時代の教え子に、小林秀雄、河上徹太郎がいる。1920年、広島高等師範学校教授に転じた。1924年、史学研究のため欧州留学を命じられ、英・仏・独・蘭・印・伊などに滞在・留学した[4][5]。1925年、九州帝国大学法文学部国史学科の初代教授に就任[6]。九州大学を退任後、香椎中学校長、久留米大学教授[6]。
家族・親族
編集- 長沼家
- 父・賢明[2][3]
- 妹
- 先妻・シズエ(1890年 - 1939年 、宮崎、弘中唯見の二女)[2][3]
- 後妻・トラ(? - ?)
- 一女(養子)・シナ(1910年 - 1995年 、新潟、中村登の妹)[2][3]
- 二女(1920年 - ?)[4]
- 一男・正光(1921年 - 2010年 )[3]
- 二男・六一(1943年 - 2013年 )
- 親戚
著作
編集著書
編集- 『英雄の信仰』実業之日本社、1914
- 『国民思想と国史』大鐙閣、1919
- 『参考日本歴史』博文館、1919
- 『日本の文明と仏教』大鐙閣、1919
- 『福神研究恵比須と大黒』丙午出版社、1921
- 『日本宗教史の研究』教育研究会、1928[7]
- 『南蛮文集』編、春陽堂、1929
- 『尾道郷土史論』尾道市教育会、1932
- 『新説日本歴史 実業学校用』宝文館、1934
- 『新説国史教授の研究』教育研究会、1936
- 『皇国史』三省堂、1937
- 『日本文化史の研究』教育研究会、1937[8]
- 『神国日本』教育研究会、1943
- 『日本の海賊』(日本歴史新書)至文堂、1955[9]
- 『邪馬台と大宰府』太宰府天満宮文化研究所、1968
- 『聖徳太子論攷』平楽寺書店、1971
- 『日本海事史研究』九州大学出版会、1976
脚注
編集- ^ “『日本仏教史論攷』(2010年、長沼正光 発行)著者プロフィール”. さいはて社. 2023年10月27日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第12版 上』ナ166頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第13版 下』ナ157頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年10月4日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第9版』ナ136頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年10月5日閲覧。
- ^ a b 「恩師長沼賢海先生の思い出」平成5年発行・非売品
- ^ a b 長沼 賢海とはコトバンク、デジタル版日本人名大事典。2016年10月4日閲覧。
- ^ “『日本仏教史論攷』(アンソロジー、2010年、長沼正光 発行)”. さいはて社. 2023年10月27日閲覧。
- ^ “『日本仏教史論攷』(アンソロジー、2010年、長沼正光 発行)”. さいはて社. 2023年10月27日閲覧。
- ^ “『日本の海賊』(復刻版、2009年、長沼正光 発行)”. さいはて社. 2023年10月27日閲覧。
参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 下』人事興信所、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
- 『恩師長沼賢海先生の思い出』発行者・鏡山猛(非売品)、1993年。