長田銈太郎

幕末期の幕臣、明治期の外交官・官僚

長田 銈太郎(おさだ けいたろう、嘉永2年7月27日1849年9月13日) - 明治22年(1889年3月31日)は、幕末期幕臣明治期外交官官僚。幕末期に江戸幕府の通訳を務め、開成所東京大学の源流)の頭取に就任した[1]明治維新後は新政府に招かれて外交官となり、フランスロシアに赴任。帰国後は宮内省に移り、宮内権大書記官太政官権大書記官、式部官を務め、明治天皇の通訳を担当した[1]。満39歳没。改名前の名前は、銈之助

生涯

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徳川家の直参旗本長田氏宗家の長男として駿河国に生まれる。7歳のころ江戸に上り、幕府の講武所剣術を習う。1861年(文久元年)、幕府の蕃書調所開成所の前身)でフランス語の伝習が開始されると父の勧めでフランス語を学ぶ。1863年(文久3年)に開成所のフランス語助教となり、のちに教授となる。開成所では物産学を学ぶ[2]

秀才の誉れ高く[3]フランスと接近する幕府の通弁として、16歳で駐日フランス全権公使レオン・ロッシュの通訳を務めた[3]1865年(慶応元年)、ロッシュの関西地方視察旅行に通訳として随行した際に、伊藤博文山縣有朋木戸孝允らの知るところとなる。

1866年(慶応2年)、幕府が横浜に開校した横浜仏語伝習所に入学し、のちに卒業[4]1867年(慶応3年)、幕府の大番格・歩兵指図役頭取となる。幕府が瓦解する直前の1868年(慶応4年)には、20歳に満たない若さで開成所の頭取に就任し[1]、開成所の新政府への引き渡しに携わった。

明治維新後は、駿府に移封された徳川氏とともに静岡に移住し、駿河府中藩(移封された徳川将軍家のために立てられた藩)が開設した静岡学問所のフランス語教授筆頭格[3]となった。この静岡学問所は、開成所など旧幕府の教育機関の流れをくむ学問所であり、頭取は向山黄村津田真道(津田真一郎)が務め、教授陣には中村正直外山正一加藤弘之杉亨二らがいた[5][6]

その後、新政府に招かれて官界に入り、1871年(明治4年)、兵部省からアメリカに派遣される。1872年(明治5年)には外交官となり、フランスの日本公使館に赴任。1874年(明治7年)に帰国後は、外務少丞、外務少書記官となる。1878年(明治11年)に再び海を渡り、ロシアの日本公使館に赴任。駐ロシア代理公使心得となる。

1882年(明治15年)に帰国した後は、宮内省に移り、宮内権大書記官太政官権大書記官、式部官を歴任。明治天皇の側近として通訳を担当した[1]

1886年(明治19年)、辻新次古市公威らとともに、仏学会東京仏学校法政大学の前身の一つ)を設立し、仏学会の理事に就任した。同年、山縣有朋の計らいで内務省参事官に転進。1889年(明治22年)には、愛知県知事勅任の内命を受けていたが、赴任を前に事故により39歳の若さで急逝した。

栄典・授章・授賞

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外国勲章佩用允許

家族

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  • 父:長田歓十郎(正美・帰郷) - 砲兵差図役。1862年から蕃書調所で物産学を学び、明治維新後、『博物雑誌』第五号(1879年刊)に論文「菓菜糖蔵法」を寄稿[2]
  • 弟:長田宗之助(成島謙吉) - 成島柳北の娘婿。開成所で蘭学と物産学を学び、静岡学問所五等教授を経て内務省・農商務省に勤務[2]パリ万国博覧会 (1878年)の御用取扱としてフランスに派遣され、フランス西部で盛んであったイワシ油漬缶詰の製法を持ち帰った[8]。著書に『有益鳥類図譜』(1893年)[2]
  • 長男:長田秋濤 - フランス文学者、劇作家翻訳家
  • 娘:キヌ(1885年生) - 宮内次官関屋貞三郎の妻。女子学習院出身。[9]

脚注

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参考文献

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