関 操(せき みさお、1884年2月23日- 没年不詳)は、日本の俳優である[1]。本名は渡邊 善作(わたなべ ぜんさく)。キャリアをアメリカ合衆国で始めた人物である。

せき みさお
関 操
関 操
雄呂血』(1925年)での松澄先生役(満41歳)。
本名 渡邊 善作(わたなべ ぜんさく)
別名義 Misao Seki
生年月日 (1884-02-23) 1884年2月23日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本
職業 俳優
ジャンル 新劇劇映画現代劇時代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1906年 - 1943年
主な作品

幸福への道
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人物・来歴

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1884年(明治17年)2月23日、「渡辺善作」として日本に生まれる[1]

満17歳を迎える1901年(明治34年)にアメリカ合衆国に渡り、1906年(明治39年)から同地で舞台に出演し始める。1915年(大正4年)、同地の映画に出演し始める。ローリン・スタージョン監督の『神々の呼吸[2]ノーマン・ドーン監督の『5日間の生命』等は日本でも公開された[3]

1923年(大正12年)に日本に帰国、関と同様にハリウッド帰りのヘンリー小谷が主宰するヘンリー小谷映画で、小谷が監督、栗原トーマスが主演した短篇映画『舌切雀』、栗原が監督、小谷も栗原も出演した短篇映画『続アマチュア倶楽部』等に出演する[4]。同年、帝国キネマ演芸巣鴨撮影所で、伊藤大輔が脚色し帰山教正が監督した『父よ何処へ』に出演、同作は同年8月31日に公開されたが[4]、翌日の同年9月1日、関東大震災が起き、東京での映画製作が停止する。翌1924年(大正13年)、京都に移住し、マキノ・プロダクション等持院撮影所に入社する[4]衣笠貞之助監督の『』に出演、志波西果監督の『懐かしき母』からは主演俳優として以降、同社の現代劇に出演した[4]。同年、東亜キネマ甲陽撮影所に移籍、山本嘉次郎監督の『断雲』に主演した[4]

前年末に帝国キネマ演芸に移籍、1925年(大正14年)初頭に公開された志波西果監督の『幸福』に出演する[4]。当時の同社は内紛のただなかで、同年スピンアウトして設立された東邦映画製作所の第1作、伊藤大輔監督の『』に出演している[4]。東邦映画製作所でほか2作に出演したのちに京都に戻り、阪東妻三郎プロダクション設立第1回作品として製作された、二川文太郎監督の『雄呂血』に阪東妻三郎の師匠役で出演する[4]。以降、御室撮影所に新生したマキノ・プロダクション作品に出演するが、翌1926年(大正15年)、衣笠貞之助が衣笠映画聯盟を立ち上げるやその戦線に身を投じ、『狂つた一頁』以降、1928年(昭和3年)の『十字路』まで30作に出演する[4]。その後は、松竹下加茂撮影所に移籍した[4]

満59歳を迎えた1943年(昭和18年)12月8日に公開された、田坂具隆監督の『海軍』に出演[4]して以降の消息は不明である。

おもなフィルモグラフィ

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アメリカ合衆国の映画に関してはInternet Movie Database、註のないものは日本映画データベースを参照。

アメリカ時代
帰国後
  1. ^ a b 関操 2、キネマ旬報映画データベース、2010年2月13日閲覧。
  2. ^ a b 神々の呼吸、キネマ旬報映画データベース、2010年2月13日閲覧。
  3. ^ a b 5日間の生命、キネマ旬報映画データベース、2010年2月13日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 関操、日本映画データベース、2010年2月13日閲覧。
  5. ^ 噫活弁大写真、キネマ旬報映画データベース、2010年2月13日閲覧。

外部リンク

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