松平勝以
松平 勝以(まつだいら かつゆき[2][4][1])は、江戸時代前期から中期にかけての旗本・大名。下総国多古陣屋9000石の交代寄合であったが、加増を受けて大名に列し、多古藩初代藩主となる。官位は従五位下・甲斐守、豊前守、大蔵少輔。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文元年8月15日(1661年9月8日)[1] |
死没 | 享保13年2月14日(1728年3月24日)[1] |
改名 | 権之助(幼名)[2]→勝以 |
別名 | 半左衛門(通称)[2] |
戒名 | 徳芳院殿興岩道盛大居士[3] |
墓所 | 東京都豊島区巣鴨の白泉寺[3] |
官位 | 従五位下甲斐守、豊前守、大蔵少輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 下総多古藩主 |
氏族 | 久松松平家康俊流 |
父母 | 父:松平勝義、養父:松平勝忠 |
兄弟 |
勝則、勝忠、土屋知義、勝光、勝直、 勝郷、勝秀、木村清真、勝以 |
妻 |
正室:池田政武養女 継室:西洞院時成養女 |
子 |
権太郎、勝房 養子:神保茂清室、水野吉藤室 |
生涯
編集寛文元年(1661年)8月15日、旗本・松平勝義の九男(末子)として江戸で誕生[4]。兄の勝忠(勝易)に子がなかったため、寛文2年(1662年)に養子となる[2]。寛文9年(1669年)8月19日、9歳で徳川家綱に拝謁[2]。延宝4年(1676年)12月に従五位下・甲斐守に叙位・任官する[5]。延宝8年(1680年)、兄の死去により家督を継いで9000石の旗本となる[3][4]。
貞享元年(1684年)11月、上総国佐貫藩主・松平重治が改易されたため[3][4]、佐貫城受け取りに赴き[4]、その守備を務めた[3][4]。貞享4年(1687年)1月25日に4代将軍・徳川綱吉の小姓となるが、約1か月後の2月23日には職を辞している[3]。元禄6年(1693年)7月1日に豊前守に遷任[3]。元禄8年(1695年)2月18日に定火消役に任じられた[3][4]。元禄10年(1697年)2月28日に小姓組番頭に昇進[3][4]。元禄11年(1698年)には尾張藩への御使を務めた[4]。元禄12年(1699年)2月15日に書院番頭に任じられる[3]。
元禄14年(1701年)7月には、御小姓組番頭在任中に組下の者に関わる事務手続きの遺漏[注釈 1]を理由として1か月ほどの拝謁停止処分を受けている[3]。
宝永4年(1707年)7月13日、将軍世子の徳川家宣の次男・家千代の傅役を命じられ[3]たが、家千代が9月に早世したため、綱吉の側衆に任じられ、官位も大蔵少輔に遷任された[注釈 2]。同年12月25日、西の丸(徳川家宣)の御側となり[3][4]、家宣の将軍就任により本丸に移った[3]。
正徳3年(1713年)8月3日、大坂定番に任じられ[3]、同時に摂津国島上郡・島下郡で3000石を加増された[3][4]。これにより1万2000石を領する大名となり[3][4]、多古藩が成立した[4]。
享保2年(1717年)3月8日、祖先である松平康俊夫人が徳川家康から拝領した「龗蛇頭」(りょうじゃとう、龍の頭骨であるという宝物)を徳川吉宗の上覧に供している[3][4]。同年9月12日、領知朱印状を交付される[3]。享保7年(1722年)には大小の鉄炮30挺を拝領[3][4]。享保9年(1724年)11月には先に類焼した大坂の邸宅の再建費用[注釈 3]として1000両が下賜された[3]。
享保10年(1725年)3月21日[3]、病気を理由として[4]辞職が認められる[3]。同年4月11日より菊間広縁の伺候となり、以後これが多古松平家の伺候席となった[3]。8月7日には摂津国にあった知行地が下野国河内郡・都賀郡に移された[3]。
享保13年(1728年)2月14日に死去した[3]。享年68[3]。江戸・下谷の白泉寺(明治時代に巣鴨に移転)に葬られ、以後代々の藩主の墓(勝権・勝慈を除く)が白泉寺にある[注釈 4]。跡を次男・勝房が継いだ。
系譜
編集特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[3]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
脚注
編集注釈
編集- ^ 勝以の項には「隊下大久保長十郎忠音が宅地をこふのところ等閑なることあり」。大久保忠音の項には御小姓組のとき「宅地のことをはじめ請たてまつりしのみにて、其頭転ずるたびごとに申請ざる事をろそかなり」として、勝以と同時に同期間の拝謁停止処分を受けている[6]
- ^ 『寛政譜』では家千代死去の記述がなく「家千代殿の御傅となり、御側の次役に候し、乗輿を許され、仰によりて大蔵少輔にあらたむ」とある[3]。
- ^ この年3月に大坂で享保の大火が発生している。
- ^ 勝以以前には、兄の松平勝則[2]や松平勝直[2]、松平勝郷[7]が白泉寺に葬られている。
- ^ 『寛政譜』では梅園久季の女とある[3]。
- ^ 松平宇右衛門勝秀は勝以の兄(勝義の七男)で別家(300俵)を立てた[8]。
出典
編集- ^ a b c “松平勝以”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2022年3月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.280、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.286。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.281、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.287。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p “通史編 第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>二、多古松平氏歴代”. 多古町史(ADEAC所収). 2023年6月4日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.280-281、『新訂寛政重修諸家譜1巻』pp.286-287。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第七百十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.837。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.283、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.289。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.284、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.290。
参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082717/150