櫻木 梅子(さくらぎ うめこ、1908年8月8日 - 1978年[1])は、日本の女優である[2][3][4][5][6][7][8][9]。新漢字での表記は桜木 梅子[2][4][5][6][7][8][9]。出生名は同じ、結婚後の本名は川浪 梅子(かわなみ うめこ)[2][4]

さくらぎ うめこ
櫻木 梅子
櫻木 梅子
1927年(昭和2年)、満19歳ころの写真。
本名 櫻木 梅子 (出生名)
川浪 梅子 (かわなみ うめこ、結婚後)
生年月日 (1908-08-08) 1908年8月8日
没年月日 1978年
出生地 日本の旗 日本 神奈川県横浜市
職業 女優
ジャンル 劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1925年 - 1938年
配偶者 桂武男
主な作品
実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻
照る日くもる日
首の座
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人物・来歴

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1908年明治41年)8月8日神奈川県横浜市に生まれる[1][2][3][4]

高等女学校に進学するも中途退学し、1925年(大正14年)、松竹蒲田撮影所に入社したが、同年6月、京都に移り日活関西撮影所第一部に移籍し、時代劇に転向する[1][2][4]。同年7月14日に公開された尾上松之助の主演作『児來也』(監督池田富保)に出演し、満16歳で映画界にデビューした[1][4][5][6]。1927年(昭和2年)8月、尾上多見太郎主演の『剣豪悲節』(監督若山治)に妹お嬌役で出演するが[5]、病気のため降板し、衣川光子が代役を務めて同年8月26日に完成、同年9月24日に公開されている[10]

1928年(昭和3年)6月、満19歳のときに同社の俳優部に所属するスター俳優桂武男(本名川浪正夫、1906年 - 没年不詳)と結婚し、同社を退社、夫の桂とともにヤマト映画製作所谷崎十郎プロダクションを経て、牧野省三マキノ・プロダクションに移籍する[1][2]。1929年(昭和4年)7月25日には、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、櫻木は、マキノ智子松浦築枝岡島艶子大林梅子生野初子河上君栄三保松子泉清子都賀静子北岡よし江住乃江田鶴子別所ます江らとともに「俳優部女優」に名を連ねた[11]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1930年(昭和5年)12月、賃金未払いが発生してストライキが起き、翌1931年(昭和6年)1月、製作が再開されたが[12]、櫻木は、同社の解散時まで所属し、同年1月22日に公開された『人形になった女』(監督人見吉之助)が同社での最後の作品となった[5][6][7]

マキノ退社後は、赤沢映画(赤沢キネマ)を経て、阪東妻三郎プロダクションに入社、多く阪東妻三郎の相手役を務めた[1][5][6][7]。1936年(昭和11年)には、日活に復帰、太秦発声映画日活京都撮影所が製作を本格化したトーキーに出演した[1][2][5][6][7]。1937年(昭和12年)には、前年に阪東妻三郎プロダクションを解散した阪東妻三郎、同じく同年4月にマキノトーキー製作所を解散したマキノ正博が同社に合流、同年7月14日・8月11日にそれぞれ公開された阪東の主演作『恋山彦 風雲の巻』『恋山彦 怒濤の巻』(監督マキノ正博)に櫻木も出演している[5][6][7]。満29歳になった同年10月14日に公開された『水戸黄門廻国記』(監督池田富保)に出演したのを最後に、翌1938年(昭和13年)に同社を退社した[1][5][6][7][9]。以降の消息は不明とされていた[2][5]が、2002年(平成14年)3月25日に発行された『日本映画興亡史Ⅱ 日活時代劇』(ワイズ出版)櫻木の項にて、1978年(昭和53年)に死去したという旨が記されている[1]。満69-70歳没。

フィルモグラフィ

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敵討加賀見山』(1929年)公開時のチラシ、「桜木梅子」の名が確認できる。図柄はマキノ智子

クレジットはすべて「出演」である[5][6]。公開日の右側には役名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9][13]。同センターなどに所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

日活大将軍撮影所

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特筆以外すべて製作は「日活大将軍撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[5][6][8]

日活太秦撮影所

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すべて製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[5][6][8]

マキノプロダクション御室撮影所

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すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[5][6]

赤沢映画

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すべてサイレント映画である[5][6]

  • 阿波の鳴門』 : 監督吉野二郎、製作・配給赤沢映画、1931年製作・公開
  • 頼母子権兵衛』 : 監督吉野二郎、製作・配給赤沢キネマ、1932年1月5日公開

阪東妻三郎プロダクション

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特筆以外すべて製作は「阪東妻三郎プロダクション」、配給は「新興キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[5][6]

日活京都撮影所

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特筆以外すべて製作は「日活京都撮影所」、配給は「日活」、特筆以外すべてトーキーである[5][6][8]

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i ワイズ出版[2002], p.104.
  2. ^ a b c d e f g h キネマ旬報[1980], p.128-129.
  3. ^ a b 映画世界社[1934], p.128.
  4. ^ a b c d e f 桜木梅子jlogos.com, エア、2013年5月13日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 桜木梅子日本映画データベース、2013年5月13日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap 桜木梅子、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月13日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h 桜木梅子allcinema, 2013年5月13日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 桜木梅子日活データベース、2013年5月13日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i 櫻木梅子桜木梅子東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月13日閲覧。
  10. ^ 剣豪悲節、日活データベース、2013年5月13日閲覧。
  11. ^ 1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録立命館大学、2013年5月13日閲覧。
  12. ^ 御室撮影所、立命館大学、2013年5月13日閲覧。
  13. ^ a b c d e f 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年5月13日閲覧。
  14. ^ 日本映画の発見I:無声映画時代、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月13日閲覧。
  15. ^ a b 恋山彦『風雲の巻』『怒濤の巻』総集篇、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月13日閲覧。

参考文献

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  • 『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』、映画世界社、1934年発行
  • 『日本映画俳優全集・女優編』、キネマ旬報社、1980年12月31日
  • 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133
  • 『日本映画興亡史II 日活時代劇』、ワイズ出版、2002年3月25日 ISBN 4898301266

関連項目

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外部リンク

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