大野誠 (長野県令)
日本の藩士、儒者、剣客、官僚
大野 誠(おおの まこと、1834年5月10日(天保5年4月2日) - 1884年(明治17年)10月27日[1])は、幕末の新発田藩士・儒者・剣客(心形刀流)、明治期の官僚。長野県令。位階は正五位。通称・儉二郎、字・仲亨、雅号・快堂[1]。
経歴
編集越後国蒲原郡諏訪山新田(現新潟県北蒲原郡聖籠町)で、私塾の絆己楼(はんきろう)を開いていた儒者・大野耻堂(敬吉)の長男として生まれる[1][2]。18歳で江戸に遊学し昌平黌に入門。また、藤森弘庵に詩文を、伊庭軍兵衛に剣術を学んだ[1][2]。その後、帰郷し父の私塾・絆己楼で教え[3]、再度、江戸に出て春風館を開いて文武を教授[4]。
王政復古後、明治5年(1872年)、工部省六等出仕となる。以後、工部少丞、工部権大丞、鉄道局次長、太政官権大書記官・法制局在勤などを歴任。1881年7月7日、長野県令に就任。同県道路行政の発端となる七道開鑿事業に着手し「道路県令」と呼ばれた[5]。その他、県立中学校の設置、師範学校の統合などを推進。また、県会の民権派と対立し同県初の原案執行を行った[4]。病のため在任中に死去[5]。墓所は藩の菩提寺であった駒込の吉祥寺。