亀井静香
| 本来の表記は「亀井靜香」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
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かめい しずか
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| 生年月日 | 1936年11月1日(75歳) |
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| 出身校 | 東京大学経済学部卒業 |
| 前職 | 警察庁長官官房調査官 |
| 所属政党 | (自由民主党[1]→) (国民新党→) 無所属 |
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警視正(警察庁退官時) 経済学士(東京大学・1960年) |
| 親族 | 亀井郁夫(兄) |
| 公式サイト | 亀井静香公式Webサイト |
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| 内閣 | 菅内閣 |
| 任期 | 2010年6月8日 - 2010年6月11日 |
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| 内閣 | 鳩山由紀夫内閣 |
| 任期 | 2009年9月16日 - 2010年6月8日 |
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| 内閣 | 第2次橋本内閣 |
| 任期 | 1996年11月7日 - 1997年9月11日 |
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| 内閣 | 村山内閣 |
| 任期 | 1994年6月30日 - 1995年8月8日 |
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| 内閣 | 菅第2次改造内閣 |
| 任期 | 2011年6月27日 - 2011年9月2日 |
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その他の職歴
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(1979年10月8日 - 現職) |
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亀井 靜香(かめい しずか、1936年11月1日 - )は、日本の警察官僚、政治家。階級は警視正(警察庁退官時)。衆議院議員(11期)。報道などでは新字体を用い亀井 静香とも表記される。また、政治活動においてカメイ 静香を用いることもある[2]。
衆議院農林水産委員長、運輸大臣(第69代)、建設大臣(第64代)、自由民主党政務調査会長(第43代)、志帥会会長(第3代)、国民新党代表(第2代)、内閣府特命担当大臣(金融担当)、内閣総理大臣補佐官(内閣の重要政策全般担当)などを歴任した。
概要
東京大学経済学部を苦学して卒業後、サラリーマンを経て警察庁に入庁。警察庁長官官房調査官を最後に退官した。退官時の階級は警視正(特進を含まない階級)。退官後、衆議院議員になり、長らく自由民主党に所属。運輸大臣、建設大臣、自由民主党政務調査会長を歴任。
自民党内の派閥では清和会に所属していたが、平沼赳夫や中川昭一らを引き連れ離脱し、亀井グループを旗揚げ。後に亀井グループと政策科学研究所(旧渡辺派)を合併させ、新たに志帥会(村上・亀井派)を結成、会長を務めた。
2001年自由民主党総裁選挙には中曽根康弘元首相や志帥会の全員一致推薦で立候補を表明していたが、総裁候補の一人であった小泉純一郎が総裁選の応援を要請。小泉と政策協定を結び、亀井は本選を辞退した。その後は小泉の応援にまわり、小泉総裁誕生に貢献。しかし、政策協定は小泉によって反故にされている。
郵政民営化を強力に推進する小泉に真っ向から対立し、「抵抗勢力」の代表格とされた。2005年に自民党を離党し、綿貫民輔元衆議院議長を党首に担ぎ国民新党を結成。自らは代表代行に就任した。2009年の第45回衆議院議員総選挙で綿貫が落選して党首を辞任したことに伴い代表に昇格。同年9月に発足した民社国連立政権の鳩山由紀夫内閣では内閣府特命担当大臣(金融担当)に任命される。また、特命事項として郵政改革担当大臣も兼任し、中小企業金融円滑化法の成立に尽力した。2010年6月に発足した菅内閣でも留任したが、菅直人首相が郵政改革法案の成立を今国会で成立させるという国民新党と民主党との公約を破棄したため、組閣直後に大臣を辞任した(後任は自見庄三郎が就任)。
2011年6月、菅内閣 (第2次改造)の内閣総理大臣補佐官(内閣の重要政策全般担当)に就任。政権内の重鎮として菅直人首相に政策提言を行ったが、首相の退陣に伴い約2ヵ月で退任した。
2012年3月、消費税増税法案の取り扱いを巡り野田内閣と対立し、国民新党代表として民主党との連立政権離脱を表明。しかし、党内の連立維持派がこれを認めず、一方的に代表の解任を主張。これに対し、代表の解任は無効だと主張し、亀井亜紀子と共に国民新党を離党する。
来歴
生い立ち
亀井素一・静枝夫妻の次男として広島県比婆郡山内北村(現・庄原市川北町)に、姉二人兄一人の末っ子として生まれる。
亀井家の祖先は、戦国時代の大名尼子氏の筆頭家老・亀井吉助であった。亀井吉助は尼子氏滅亡後、「二君に仕えず」として神官となり帰農した。子孫は苗字帯刀を許され、地元の名家の一つとなった。幕末に亀井家の当主が武道に凝ったあげく財産を食いつぶし、亀井が生まれころには、すっかり貧乏農家となってしまった。父・素一は山内北村の助役をつとめ、戦時中は食糧増産や村民の食糧確保のため働き、戦後に役場を退職してからも、大陸からの引揚者の世話をしている。
亀井は広島県内で一番の私立進学校であった修道中学校・修道高等学校に入学。高校一年生の三学期、通学定期券の購入に必要だった通学証明書の発行が有料となることに反発し、抗議活動としてビラ配りを行う。間もなくして学校側から呼び出され、教師から「ビラ配りをやめないと学校をやめさせるぞ」と脅されたため、亀井は「今すぐやめますよ」と言って高校を自主退学した。
上京
修道高校を中退後、東京大学法学部に進学していた兄の亀井郁夫を頼り上京。都立日比谷高校及び都立九段高校を受験したが不合格となり、都立大泉高校に編入し卒業。高校三年生のときは、成績が常に上位5番以内だった。
1956年、東京大学経済学部に入学。駒場寮で暮らし、昼夜を問わずアルバイトで生活費を稼ぐ日々を送る。家庭教師のアルバイトを1人週2回の割合で3か所こなしたこともあった。一時はアルバイトばかりに熱中して大学の授業にも顔を出さなくなっていたが、このままでは堕落してしまうと一念発起して養神館合気道を習い始める。合気道の道場で、のちに明治神宮武道場至誠館名誉館長となる田中茂穂に出会った。亀井はこの時代、田中の保守的な思想の影響を大きく受けたという。なお、在学中は学生運動には参加しなかった。また、この頃、苦しむ民衆の救済に身を挺した大塩平八郎や西郷隆盛の文献を読み、傾倒した。
大学内でも合気道に熱中し、これまでサークルだった合気道クラブを、正式に運動部へ昇格させた。さらに学生の合気道仲間を集めて全日本学生合気道連盟を結成し、初代委員長に就任した。
在学中に、友人だった駒場自治会の委員長がアメリカ合衆国の水爆実験反対を訴えるストライキを指導したことが原因で退学処分となった。亀井はこれに憤り学校に抗議するため、駒場寮前にテントを張り、サークルの子分を引き連れてハンガーストライキを決行する。支援する学生からパンが投げ込まれたが、それには一切手をつけなかった。決行から1週間してドクターストップがかかったが、亀井のハンストが功を奏し、大学はその友人の退学処分を取り消した。
1960年、大学を卒業し、別府化学工業(現・住友精化)に入社。サラリーマン生活を送る。
しかし、報道で安保闘争を見て、デモ隊に対する警察の不甲斐なさに腹を立て、「俺が警察を強くしてやる」と一念発起して警察官になることを決意。 会社を退職して、国家公務員採用上級試験を試しに受けたところ、3番の成績で合格。警察官採用上級試験には5番の成績で合格した。成績優秀のため各官庁からオファーがきたが、亀井の本来の希望であった警察庁に入庁した。
警察庁
1962年、警察庁に入庁。鳥取県警察本部警務部長、埼玉県警察本部捜査二課長などを歴任した。
1971年、警察庁警備局の極左事件に関する初代統括責任者となり、東峰十字路事件、あさま山荘事件、テルアビブ空港乱射事件などの陣頭指揮を執った。
1977年、警察庁警備局理事官[3]、長官官房調査官を経て退官。
15年間警察官僚として働いたが、「いくら警察で頑張っても所詮、社会の“ゴミ掃除”だ。社会のゴミを出さないようにするには政治家になるしかない」として、政治家を志す。そして、350万円の退職金を元手に衆議院議員総選挙に立候補する決意を固める。広島県北部の有力代議士で、当時引退したばかりの永山忠則に懇願し、永山の後継指名を得て衆院選に挑むことになった。
自由民主党
1979年10月、永山忠則の後継として第35回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で広島県第3区から初出馬、初当選。以後、現在まで連続当選。党内派閥では清和会(福田派)と自由革新同友会(中川派)に掛け持ちで所属した(中川派は後に福田派と合流)。
1985年12月、第2次中曽根内閣 (第2次改造)の運輸政務次官に就任。
1986年7月、中曽根康弘首相の靖国神社参拝中止や第二次歴史教科書問題などに反発し、村上正邦や平沼赳夫らと共に保守系の政策集団である「国家基本問題同志会」を結成して座長に就任。
1989年4月、 自民党の中堅・若手議員を集めて派閥横断グループ「自由革新連盟」を結成し、白川勝彦と共同代表に就任。
1989年6月、 自民党総裁選挙で石原慎太郎を擁立したため清和会から除名、後に復帰。
1994年2月、細川連立政権と創価学会の関係を政教一致であると批判するために自民党内の勉強会「憲法20条を考える会」を結成し、同会会長に就任。
1996年10月、第41回衆議院議員総選挙(初めての小選挙区選挙)に広島県第6区から出馬。自民党組織広報本部長として選挙に臨み、新進党新人候補の佐藤公治を破り当選。
1998年9月、 清和会を離脱し、中山太郎らと「日本再生会議」(中山・亀井グループ)結成。同グループ代表幹事に就任。
1999年3月、亀井グループと政策科学研究所(旧渡辺派)が合流し、「志帥会」(村上・亀井派)結成。同派会長代行に就任。
1999年10月、自民党政務調査会長に就任。公共事業の見直しを表明し連日深夜に及ぶ議論の末、2兆7000億円分を削減した。
2001年4月、自民党総裁選挙に出馬するが、小泉純一郎と政策協定を結び本選挙出馬を辞退、小泉の支援に回った。しかし、小泉が首相になった後、政策協定は全て小泉に一方的に破棄された。
2001年11月、死刑廃止を推進する議員連盟会長に就任。
2003年9月、自民党総裁選挙に出馬し、小泉純一郎に次ぐ2位の139票を獲得。
2003年10月、志帥会(亀井派)会長に就任し、自民党国会議員約60名を擁する派閥の領袖となった。
国民新党
2005年8月、小泉内閣が推進する郵政民営化に反対し、自民党に離党届を提出(受理されず除名処分)。志帥会会長を辞任。国民新党結党に参画する。
2005年9月、第44回衆議院議員総選挙において無所属で出馬した堀江貴文に苦戦を強いられるが、26,546票差で当選。選挙後、国民新党の代表代行に就任。
2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙には、引き続き広島県第6区から国民新党公認と民主党の推薦を受けて立候補し、自民党の公認候補に67,479票の大差をつけて11期目の当選を果たした。この選挙では国民新党代表の綿貫民輔と幹事長の亀井久興がともに落選する事態となったため、選挙翌日に綿貫から代表を引き継いだ。
金融・郵政改革担当大臣
2009年9月16日、民社国連立による鳩山由紀夫内閣の成立に伴い、内閣府特命担当大臣(金融担当大臣)に就任した[4]。特命担当大臣の担当事務以外に、「郵政事業の抜本的な見直し及び改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」[4]の特命事項を担当する(郵政改革担当)。
金融担当相として行った政策
- 中小企業金融円滑化法 - 2009年10月に提出し、同年11月可決成立させ、年末に間にあうように12月4日より施行させた。
- 「貸し渋り・貸し剥がし」対策
- 中小企業等に対する金融円滑化対策の総合的パッケージ
その結果、2010年4月の自殺者数は警察庁発表で前年同月比18.7%の大幅減少になった。また、東京商工リサーチによると、2010年2月の企業倒産は前年同月比17.3%の激減 。負債総額も64.3%減となった。しかし、この背景には2008年に起こった世界金融危機による不況からの景気回復があることも考慮する必要がある。
これらの制度をつくった動機には、小泉政権下で国内の自殺者数と倒産数が史上最多となり、亀井の知人の中小企業経営者3人が自殺したことがある。亀井は彼らから相談を受け金融機関に掛け合ったが、貸し出しも返済猶予も断られ、社長は亀井あてに悲痛な遺書を残して逝き、副社長も後を追って自殺。亀井は葬儀に行き、遺族と一緒に抱き合って泣いたが、3日後に新しい副社長が自殺した。社長になれば、今後は自分が債務を負わなければならないからだった。 亀井は真っ当な経営者や従業員が無駄な死を選ばなくて済むよう、制度改革を進めた。
大臣就任早々、金融庁の検査官を集めて「これまで君たちは金融機関のための検査をやってきたが、これからは銀行が借り手企業のコンサルタントとして社会的役割を果たしているかをチェックするんだ」と訓示した。[5]。
小泉政権で労働者派遣法が変更され、派遣社員が簡単に合法的に首切り解雇できるようになっていたため、不況により首切りにあった人が激増し、住宅ローンの支払もできず、自殺者数が史上最多となった。また小泉政権で建築基準の審査を民営化したことにより耐震偽装事件などが発生、住居を失い会社も辞めさせられ、しかし住宅ローンだけが残り生活ができなくなった人を見て、個人にも金融機関に住宅ローンの支払期限を延長しなくてはならないというものだった。マスコミは、この「中小企業金融円滑化法」をモラトリアム法、亀井法などと呼んだ。
2010年4月17日、永住外国人への地方選挙権付与(外国人参政権)に反対する集会に出席し、「参政権付与が日本を滅ぼす。国民新党が拒否権発動しているから今国会で成立しない」と述べた[6]。
2010年6月11日未明、第174回国会での郵政改革法案成立が見送られたことを受け、「公党間の約束が履行されなかった」として民主党の菅内閣に激怒し、民主党との連立も解消をすると主張した。しかし、亀井久興に与党にとどまってほしいと懇願され、党内の4時間に及ぶ会合後、与党にはとどまることとなる。しかし、亀井静香は閣僚を辞任、後任は同党の元郵政相の自見庄三郎となった[7]。
内閣総理大臣補佐官
2011年6月27日、菅内閣 (第2次改造)の内閣総理大臣補佐官(内閣の重要政策全般担当)に就任。当初、菅直人首相は副総理としての入閣を打診したが固辞し、首相補佐官としての起用を了承した[8]。 同年9月5日、野田内閣の発足に伴い首相補佐官を退任。
国民新党代表解任、離党へ
2012年3月に野田内閣が消費税増税法案の閣議決定を決めたことを巡り、連立協定違反を理由に連立政権離脱を表明。しかし、党内の多数派が連立維持を主張し、国民新党副代表である自見庄三郎が閣僚として消費税増税法案に署名したため、国民新党は分裂。同年4月5日に党内の連立維持派によって国民新党代表を解任されたが、亀井は代表解任は無効と主張している。その後、亀井は翌4月6日に記者会見し、「私はこのまま国民新党にいるべきではない。今から、日本が立ち直って行くために、一兵卒として全力を挙げてがんばっていきたい」と述べ、亀井亜紀子と共に国民新党を離党した[9]。
人物
プライベート
- 養神館合気道6段。趣味はゴルフと油絵。2001年と2005年に個展を開いている。
- 尊敬する人物はチェ・ゲバラと大塩平八郎。
- 埼玉県警察捜査第二課長時代、県内の居酒屋にいた亀井は近くの客がヤクザ風の男3人に絡まれているのを目にして、3人をたたきのめした。店内は騒然とし、パトカーが出動した。警察庁幹部の間では亀井を退官させるべしとの強硬論も強かったが、佐々淳行が庇ったため亀井は退官せずに済んだ[10]。
- 中川派以来の親友といわれる石原慎太郎と、高速道路を走行中の車内で言い争いとなり、怒った亀井が車から石原を引きずり出し路上に置いてけぼりにしたことがあるという[11]。亀井は「あいつ(石原)はわがまま過ぎる」と話していると言うが、石原は「オレのような上品な人間には、亀井みたいな下品な人間がいた方が丁度いいんだ」と話している[12]。
政策
主張
- デフレ脱却と防衛対策
- 外国人参政権反対
- 夫婦別姓反対
- 改正国籍法反対
- 人権擁護法案反対
- 天皇の靖国参拝賛成
- 天皇の戦争責任を否定
信条
- 「国民の95%の人が幸せで、5%の人が困っているときに、政治とはその5%の人を助けなくてはならない、政治家にはその5%の少数への洞察力が必要である」
- 「支持率を気にして、ふらふらしているようでは政治はできない。政治家の評価は歴史が証明する」
- 「日本の伝統でつちかわれてきたよいところを残すのが保守の役目である。日本人は昔から、助け合いの精神で生活をしてきた」
経済政策
1996年の総選挙前には執行部の一員ながらも公然と「今消費税を引き上げれば回復基調にある景気が再び後退する」と言い放ち引き上げ時期の延期を迫り山崎拓政調会長らと激論になり選挙中ですら同様の持説を主張した。はたしてその後、亀井の予測通り消費税引き上げなどで景気が後退することになる。
2008年10月に彼が党首の国民新党は「時価会計の無期限停止」「銀行の自己資本比率4%の撤廃」「ペイオフ制度の適用停止」「公的資金による資本注入」「日経225先物取引の廃止」を金融安定化対策として掲げた。
2009年に国民新党党首として金融担当大臣に就任した。同年、閣僚の彼が提唱し,民国社連立政権として発表したいわゆるモラトリアム法案によって金融株の売りが進み,大幅に下落した事について9月27日のサンデープロジェクトにて「私が言ったから株が下がるほど脆弱な銀行は、銀行業を営んでいる資格がない」と述べた。また、「(返済猶予で)信用を失うほど投資家や国民から信頼されていないのなら、まず金融機関が自ら反省しないといけない」と同番組終了後に記者に述べた[13]。
亀井はかねてから大企業の談合は「悪い談合」、中小企業同士の談合は「良い談合」と言う持論を持ち、2009年10月21日に本来金融庁の管轄外である公正取引委員会の竹島一彦委員長等を呼び出して「良い談合」を容認する様に要求した。この際、竹島委員長は「良い談合論には『そのお金が誰の物か』と言う発想が欠けている。それ(=『良い談合』でも損をする人)は国民であり,消費者なのだ」と亀井の認識の問題点を指摘した[14]。
取調べの全面可視化に反対
犯罪の容疑者に対する取り調べの全過程を録音・録画することには反対している[15]。なお、2010年1月、記者会見で「公判に出す調書作成の過程を全面、可視化することはいいと思う」とし、限定的な可視化について容認した。
死刑制度廃止
警察官僚としての経験から、誤認逮捕や冤罪は必ずや起きてしまうものとして、「警察官に誤って無実の人を殺させるようなことがあってはならない」と死刑制度廃止(死刑廃止論)に賛成している。
防衛政策
「防衛大綱」「防衛産業大綱」を作成し、自衛隊の強化を主張。中国、ロシアなど周辺国が軍事力を3倍から5倍増加させているのに危惧し防衛力の強化、防衛産業の育成、防衛予算の増額を主張し、自民党政権時代削減され続けた防衛費を、民主党政権下で8年ぶりに増額させた。
雇用政策
運輸大臣時代の1994年、日本航空が計画していた客室乗務員の契約制客室乗務員としての採用に対し、「乗客の安全を守るべき客室乗務員に極端に異なる2つの雇用体系が存在すると、士気の低下に繋がり安全上好ましくない」として、乗務員間の格差が生じることや安全面の問題からこの計画に反対した。しかし、この時「許認可権を盾にとった上、規制緩和に逆行する」として一部のマスコミから批判もされている。この時の日本航空と亀井の対立は、日本航空のシンボルマークである鶴との対比から「鶴亀戦争」などと呼ばれた。
なお、この計画は「契約制客室乗務員の受け皿のために作った子会社が採用し親会社に出向させる」、「日本航空本体で契約社員として採用した場合も、正社員には移行させない」といった当初案から、「数年間の有期限雇用の契約社員後、正社員へ移行」に変更されたうえで導入され、その後全日本空輸や日本エアシステムなどの大手他社も追って同様の契約社員制度を導入した。
道路公団改革
運輸大臣時代に、全国の高速道路のサービスエリア、パーキングエリアの営業を、「癒着の温床」と批判されていた1社独占から複数社の競合に改める改革を実施し、サービス水準の向上を図った。併せて高速道路のサービスエリアでの酒類の販売を発案したが、これは飲酒運転事故により身内を失った家族をはじめ、国民世論から反発されている。
大型公共事業の見直し
自民党政調会長に在任中に公共事業の見直しを表明し、中海干拓事業など2兆7000億円分を削減した。これに反発した業界団体は、実兄の亀井郁夫が参院選に立候補した際に支援を拒否している。一方で亀井の経済政策の基本的なスタンスは、「国債発行による景気対策」、「公共事業による景気回復」であり正統派の「ケインジアン」とも言える(2007~2008年の米国発世界金融危機によって伝統的なケインジアンの重要性が再認識され始めている)。小泉政権下では、小泉首相が掲げる新自由主義への反発から、一貫して反主流を歩んで小泉首相を批判しており、郵政民営化も猛烈に反対していた。
弱者救済・地方振興を主眼とする経済思想は、国民新党のマニフェストにも見て取れる。「公共事業による景気回復」を唱える一方、本人のウェブページには、ダム建設や干拓などの大型事業に反対である旨記しており、「そのような事業を進める余裕があれば弱者救済などに向けるべきである」としている。談合については、2006年4月18日の国会での質問で「地方救済の為には必要。日本のよき助け合いの精神」などと一定の理解を見せた。亀井は良い談合と悪い談合があるとしており、大手ゼネコンの談合は「悪い」談合、地方の建設会社による談合は相互共助するための「良い」談合であるとしている。
一方で羽田空港の再拡張事業である4本目の滑走路建設事業については、東京都知事の石原慎太郎と計り、当時の運輸省を半ば脅して、僅か15分の交渉で調査費をつけさせ着手に持ちこんだという[16]。
創価学会との対立
1990年代半ば頃に、同じ1979年初当選組の白川勝彦と共に、創価学会と政教一致についての問題を追及する憲法20条を考える会を発足させ、亀井は会長に就任した。亀井は宗教法人法改正に反対の姿勢を見せていた創価学会に対し「池田大作さんに宗教法人特別委員会に参考人として出てきてもらい、宗教法人法の改正に反対の理由を述べてもらいたい」と発言するなど創価学会と徹底対決の姿勢を鮮明にする。会そのものは自自公連立政権の発足とともに自然解消したが、亀井の反創価学会の姿勢は続き、2007年2月13日の衆議院予算委員会で6年ぶりに質問に立ち[17]「まさか自分が野党側で質疑応答するとは想定外でした」「(安倍晋三首相に対し)小泉総理時代の思想はやめて自分なりの思想でやってはどうだ」「創価学会の名誉会長の池田大作との安倍総理の2者対談をしたのか?」など、安倍首相の姿勢や創価学会との関係について追及した。
2007年11月21日、国民新党の会合でのあいさつにおいて、自民、公明両党推薦の現職候補が敗北した大阪市長選に関連し「創価学会の麻薬で生きてきた自民党だが、麻薬が効かなくなると大変だ。慢性依存症が強くなっていて、そこが手を引くと、全体ががたついた」と発言している。
選挙運動
- 選挙の際、名前にちなみ「亀」をトレードマークとしたバッジやステッカーを配っており、公式ホームページ上でも見ることができる。
- 2007年4月、25年以上の親交があるという川内康範に打診し許可を得た川内作詞・作曲の『おかあさん』を、国民新党のテーマソングとすることを発表。歌も亀井自身が担当している。レコーディングの際には川内が直接亀井を指導したが、亀井のあまりに音痴に驚いたという。最終的にOKをだした川内は「8割の出来だが、あとの2割は国民新党の日本の文化を思う気持ちで亀井さんが、歌ってくれる。それで100点になる」と記者に語った。
- 選挙の際には親友の菅原文太や石原慎太郎が応援にかけつける。
マスメディア
2009年9月に金融大臣就任後、記者クラブのオープン化を行おうとしたが反発されたため、「第二の記者クラブ」としてオープンし、それぞれ別々に会見を行った[18]。
2010年1月に発生した小沢一郎資金管理団体政治資金規正法違反事件に関して、BS11の番組内で「今の国民は相当数が大脳皮質で冷静に判断する能力を持ってない。新聞が小沢を叩くと小沢が弁明しても誰も聞く耳を持たない。」と国民とマスメディアに対して批判した[19]。
カジノ
石原慎太郎らと同様に、日本にカジノを導入する方針を打ち出している。既に沖縄県で進んでいるカジノ特区構想を支持し、観光、県民所得の増加を目指している[20]。だが、実際に石原慎太郎が台場でのカジノ構想を打ち出した折には、パチンコなどがネックになって実現には至っていない。
外国人参政権・人権救済侵害法案・夫婦別姓法案に反対
2010年通常国会において、民主党が提出を表明していた外国人参政権・人権救済侵害法案・夫婦別姓法案に、亀井が反対を表明し閣議決定を拒否したため民主党は同法案を上程出来なかった。
自民党が提案した国籍改正法には、偽装認知が起きるとしてDNA鑑定を明記するよう要求。しかし、国民新党以外の党が賛成したため可決成立となった。
選択的夫婦別姓制度については「家族のきずなを大事にする中で取り上げなければならない法案なのか」と述べ反対している[21]。
外国人地方参政権の付与に反対しており、亀井が党代表を務める国民新党も同様に反対姿勢を示している。
朝鮮学校の無償化
朝鮮学校の授業料無償化には、日本の文部科学省の教育方針に従うという条件付きで賛成している。
献金
かつて追い貸し闇金(勝手に他人の銀行口座に入金し、利息を取り立てる悪質業者)で有名となった山口組系暴力団五菱会から献金を受けていた(しかし問題になった後、1億円の献金を返還したと証言)。
家系
亀井家の祖は戦国大名・尼子氏の筆頭家老であり、主家滅亡後に帰農した亀井吉助だと述べている。また、吉助の弟の新十郎は津和野藩主家亀井氏の祖であり、その子孫で同じ国民新党の亀井久興とは遠縁にあたるという。[22]
- 家族
一男一女がいる。 姉二人と兄一人。
著書
- 『死刑廃止論』 (花伝社 2002年)ISBN 4-7634-0389-3
- 『繁栄のシナリオ』 (中経出版 2003年)ISBN 480611765X 教育学者・濤川栄太との対談
- 『ニッポン劇的大改造』 (扶桑社 2003年)ISBN 4594040039
- 『月刊亀井静香』 (アスコム 2003年)
脚注
- ^ 自由民主党時代の派閥は、清和会(現在の清和政策研究会)→志帥会
- ^ 国民新党 次期衆議院議員総選挙 国民新党 公認候補予定者 及び推薦「カメイ静香」
- ^ 青木理「日本の公安警察」(講談社現代新書)によると、公安警察の特殊部隊「サクラ」(現「チヨダ」)のキャップを務めていたとされる。
- ^ a b 「人事異動」『官報』号外特20号、国立印刷局、2009年9月16日、1面。
- ^ 高橋清隆「亀井静香が吠える」ケイアンドケイプレス
- ^ “外国人参政権「日本滅ぼす」=都内で反対集会-国民新の亀井氏”. 時事ドットコム(時事通信社). (2010年4月17日) 2010年4月18日閲覧。
- ^ 「亀井静香支持率0%の突破力」 山岡淳一郎(草思社)
- ^ “原発相新設、細野氏を起用=環境相は江田法相兼務-政務官に自民・浜田氏”. 時事通信. (2011年6月28日) 2011年7月3日閲覧。
- ^ 国民新の亀井前代表、離党表明
- ^ 「暴走か戦略か 鳩を悩ますスッポンの乱」アエラ2009年10月12日号78頁
- ^ 佐野眞一 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』 講談社、2003年、383頁
- ^ 佐野眞一 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』 382頁
- ^ 「私の発言で株価下がるような銀行は…」勢いづく亀井節アサヒコム9月27日
- ^ [1][リンク切れ]
- ^ 2009衆院選 広島6区 亀井 静香 - 毎日jp(毎日新聞)
- ^ 『産経新聞』2009年3月2日朝刊 1面
- ^ 衆議院インターネット審議中継
- ^ 外務省や金融庁が先行してオープン化できた理由記者クラブ問題座談会(中) : J-CASTニュース
- ^ 亀井氏「国民の相当数、冷静な判断能力ない」 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
- ^ 沖縄にカジノ特区の検討を亀井氏 日本経済新聞2009年12月16日
- ^ どうなる?選択的夫婦別姓 千葉法相は前向き 亀井担当相は反対
- ^ 亀井静香の発言(2002年)早坂茂三との対談
- ^ 『CD 現代日本人名録 物故者編1901〜2000』(日外アソシエーツ)
関連項目
外部リンク
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 与謝野馨 |
第15・16代:2009年 - 2010年 |
次代: 自見庄三郎 |
| 先代: 中尾栄一 |
第64代:1996年 - 1997年 |
次代: 瓦力 |
| 先代: 二見伸明 |
第69代:1994年 - 1995年 |
次代: 平沼赳夫 |
| 議会 | ||
| 先代: 近藤元次 |
1990年 - 1991年 |
次代: 大原一三 |
| 党職 | ||
| 先代: 綿貫民輔 |
国民新党代表 第2代 : 2009年 - 2012年 |
次代: 自見庄三郎 |
| 先代: 結成 |
国民新党代表代行 初代 : 2005年 - 2009年 |
次代: 最終 |
| 先代: 池田行彦 |
自由民主党政務調査会長 第43代 : 1999年 - 2001年 |
次代: 麻生太郎 |
| 先代: 江藤隆美 |
志帥会会長 第3代 : 2003年 - 2005年 |
次代: 伊吹文明 |
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