アルフォンソ・デ・ヴィヌエサ

アルフォンソ・ガルシア・デ・ヴィヌエサAlfonso García de Vinuesa 1958年12月13日 - 1997年5月24日)は、スペインマドリード出身の元レーシングドライバー

経歴 編集

フォーミュラ3 編集

1984年ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権でレースデビュー、エディ・ジョーダン・レーシングに所属した。1985年はドイツ・フォーミュラ3選手権に参戦。1986年もドイツF3に引き続き参戦し、1勝を挙げシリーズ7位となった。同年は国際F3000選手権にもスポット参戦した。

フォーミュラ3000 編集

1987年にBSオートモーティブとフルタイム参戦の契約を結び、国際F3000への本格参戦初年度となった。チームメイトはミシェル・フェルテ。しかし、第3戦スパ・フランコルシャンで負傷し以後を欠場。その間にフェルテは表彰台に立つなど活躍し、デ・ヴィヌエサはシーズン後半の2レースで復帰したが、予選落ちであった。シーズン最高順位は開幕戦シルバーストンでの6位だった。

1988年は前年ステファノ・モデナにタイトルをもたらしたチャンピオンチームであるマールボロオニクス・レーシングへ移籍。チームメイトはフォルカー・ヴァイドラーであった。しかしデ・ヴィヌエサは開幕から3連続で予選を通過できず、チームとの契約は解除されシートをラッセル・スペンスのために明け渡しオニクスを去った。その後はタンチェスター・レーシングとマジウィック・インターナショナルのシート獲得に成功してスポット出場したが、成績は上げられなかった。デ・ヴィヌエサは同年限りでプロレースから退いた[1]

その後の人生と死 編集

セカンドキャリアでは広告代理店を設立したが、最大のクライアントは1994年に破産してしまい、彼の広告代理店業務は閉鎖を余儀なくされる。兄は1993年に自死を選び、恋人もスキー事故により死去してしまった。

その後、新パートナーと結婚したが、それは離婚で終わり、1997年4月に再び婚約したときは、その婚約相手は交通事故で亡くなってしまった。そしてデ・ヴィヌエサ自身も、マドリードの高速道路で自分の車を停め、機械的な問題がないかチェックしていたところをトラックに衝突され、1か月余り後に死去した[2]

レース成績 編集

ドイツ・フォーミュラ3選手権 編集

エントラント シャシー エンジン クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 順位 ポイント
1985年 ヨーゼフ・カウフマン・レーシング マルティニ・Mk45 VW A ZOL NÜR HOC WUN AVU ÖST ERD NOR HOC2
Ret
DIE ZOL2
Ret
SAL
15
SIE
8
NÜR2
DNS
25位 3
1986年 Malte Bongers Motorsport レイナード 863 A ZOL
Ret
WUN
1
HOC
Ret
NOR
Ret
ERD
DNS
ÖST NÜR
4
ZOL2
10
NÜR2 SAL NÜR3
3
7位 43

国際F3000選手権 編集

エントラント シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1986年 ピーター・ゲシン・レーシング マーチ・86B コスワース DFV SIL VLL PAU SPA IMO MUG PER ÖST BIR BUG JAR
Ret
NC 0
1987年 BSオートモビル ローラ・T87/50 SIL
6
VLL
Ret
SPA
16
PAU DON PER BRH
DNQ
BIR
DNQ
IMO BUG JAR 19位 1
1988年 オニクス・レーシング マーチ・88B JER
DNQ
VLL
DNQ
PAU
DNQ
SIL MNZ PER NC 0
タンチェスター・レーシング レイナード・88D BRH
DNQ
BIR
Ret
BUG
DNQ
マジウィック・インターナショナル ZOL
DNQ
DIJ
DNQ

脚注 編集

  1. ^ Alfonso Garcia de Vinuesa - career detail, Driver Database, Retrieved 2011-02-09
  2. ^ Jenkins, Richard. Alfonso Garcia de Vinuesa, Old Racing Cars, Retrieved 2011-02-09