アントニオ・カルロス・アンドレ
アントニオ・カルロス・アンドレ(ポルトガル語: Antonio Carlos Andre, 1958年3月24日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー(攻撃的MF)。日本での登録名はアンドレ。
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名前 | ||||||
本名 |
アントニオ・カルロス・アンドレ Antonio Carlos Andre | |||||
ラテン文字 | Andre | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1958年3月24日(67歳) | |||||
身長 | 168cm[1] | |||||
体重 | 66kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 左 | |||||
ユース | ||||||
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クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1976-1980 |
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1979 |
→![]() | |||||
1980 |
→![]() | |||||
1981 |
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1981 |
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1982 |
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1983 |
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1984-1985 |
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1985 |
→![]() | |||||
1986 |
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1987 |
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1987-1990 |
![]() | 52 | (19) | |||
1991-1993 |
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1991-1993 |
![]() | 19 | (3) | |||
監督歴 | ||||||
2001-2002 |
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2014 |
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2016 |
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2017- |
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2020- |
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
編集CRフラメンゴの育成組織で育ち、18歳の時にトップチームとプロ契約を締結[2] 。ブラジル代表のジーコとチームメイトとなったが、1979年にはアメリカーノへ1年間、1980年にはバイーアへ半年間に渡りレンタル移籍をした[2]。
フラメンゴ退団後はロンドリーナ、ブラジウ、インテルナシオナル、ジョインヴィレなどのクラブを渡り歩いた後、1984年にキンゼ・デ・ジャウーへ移籍[2]。ブラジウへの半年間のレンタル移籍後、CSAを経て1987年にキンゼ・デ・ジャウーへ復帰[2]。
同年9月13日[3]、同僚のアディウソンとともに日本サッカーリーグ (JSL) 1部のヤマハ発動機に移籍した[2] 。ヤマハにとっては初の外国人選手であり、1987-88シーズン開幕まで1か月に迫った中での移籍となった[2] 。合流の遅れを不安視する声もあったが[4]、開幕戦からスタメンに名を連ねると攻守にわたる精力的な働きで[5]、アディウソンとともに攻撃陣を牽引[4]。1987年5月21日に行われたJSL1部第20節、マツダ戦での決勝点を含む8得点をあげてヤマハのリーグ初優勝に貢献し[4]、年間優秀11人賞に選ばれた[6]。翌1988-89シーズンにはコダック・オールスター・サッカーに出場しMVPに選ばれた[6][7]。1989-90シーズン後にブラジルに帰国し[8]、アトレチコ・パラナエンセに所属した後、1991-92シーズンにヤマハに復帰[1]。この時点で33歳となり体力的な不安はあったが、長澤和明監督から円熟味のあるプレーを評価されての復帰だった[1]。同シーズンには3年ぶりにコダック・オールスター・サッカーに出場した[6]。
引退後は指導者となり静岡FCの監督[9]、2003年にサガン鳥栖のコーチを務めた[10]。
2007年からはグランセナ新潟FCのサッカースクールや育成部門のコーチを務めたほか[11][12]、クラブから派遣されて北越高等学校サッカー部のコーチを務めた[13]。
2022年現在は北信越フットボールリーグ2部に所属するグランセナ新潟FCのトップチーム、新潟県社会人サッカーリーグ3部に所属するグランセナ新潟FCアミーゴスの監督を務めている[9]。
個人成績
編集国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1987-88 | ヤマハ | 33 | JSL1部 | 19 | 9 | 0 | 0 | 1 | 0 | 20 | 9 |
1988-89 | 18 | 7 | 2 | 1 | 4 | 4 | 24 | 12 | |||
1989-90 | 10 | 15 | 3 | 5 | 4 | 5 | 5 | 25 | 12 | ||
1991-92 | 19 | 3 | 1 | 1 | 1註1 | 0 | 21 | 4 | |||
1992 | 旧JFL1部 | 18 | 8 | - | 2 | 0 | 20 | 8 | |||
1993 | 15 | 6 | |||||||||
通算 | 日本 | JSL1部 | 71 | 22 | 8 | 6 | 13 | 9 | 92 | 37 | |
日本 | 旧JFL1部 | 33 | 14 | ||||||||
総通算 |
- 註1 1回戦の大阪体育大学戦のメンバーについては不明。
その他の公式戦
- 1991年
- コニカカップ 5試合0得点
- 1992年
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 1試合0得点
指導歴
編集選抜歴
編集個人タイトル
編集- 年間優秀11人賞 1回(1987-1988年)[6]
- JSLオールスターサッカー 最優秀選手賞 (MVP) 1回(1988年)[6][7]
脚注
編集- ^ a b c d 日本サッカーリーグ 編『日本サッカーリーグ・Year book '91-'92』日本サッカーリーグ、1990年、47,117頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「ヤマハ発動機 ニュー三銃士」『サッカーマガジン』1988年5月号、ベースボール・マガジン社、6-9頁。
- ^ “BIG HOPES for Brazilian soccer power” (PDF). YAMAHA MOTORS NEWS (1988年). 2021年10月16日閲覧。
- ^ a b c 「日本サッカーリーグ全史」編集委員会 編『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993年、166-167頁。
- ^ 「牛若サッカーです グレードアップJSL'87-'88開幕」『サッカーマガジン』1988年1月号、ベースボール・マガジン社、33頁。
- ^ a b c d e “クラブの歴史”. ジュビロ磐田公式サイト. 2021年10月16日閲覧。
- ^ a b 「魅せたブラジルパワー、WEST圧勝」『ストライカー』1988年11月号、学研、16-17頁。
- ^ 日本サッカーリーグ 編『日本サッカーリーグ・イヤーブック '90→'91』日本サッカーリーグ、1990年、36-37頁。
- ^ a b c “コーチ紹介”. グランセナフットボールクラブ. 2021年10月16日閲覧。
- ^ a b “2003年サガン鳥栖スタッフ一覧”. サガン鳥栖 公式ウェブサイト. 2003年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月16日閲覧。
- ^ a b “グランセナサッカースクール - コーチ紹介”. グランセナフットボールクラブ. 2007年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月16日閲覧。
- ^ a b “出場チーム紹介 - adidas CUP U-18 2010”. 一般財団法人日本クラブユースサッカー連盟. 2021年10月16日閲覧。
- ^ a b c “グランセナサッカースクール - コーチ紹介”. グランセナフットボールクラブ. 2015年2月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月16日閲覧。
- ^ “平成28年度 新潟県サッカーリーグ1部 第2節 vs グランセナ新潟FC” (PDF). 新潟経営大学. 2021年10月16日閲覧。
- ^ “アントニオ・カルロス・アンドレ新監督、大枝 正和 新コーチ就任のお知らせ‼”. グランセナ新潟FCアミーゴス公式Facebook (2017年5月11日). 2021年10月16日閲覧。
- ^ 「ブラジル勢大暴れ!西軍快勝!」『サッカー・マガジン』1988年1月号、ベースボール・マガジン社、52-53頁。
- ^ 「読売ク勢はつらつ、EASTが2連勝」『サッカー・マガジン』1992年4月号、ベースボール・マガジン社、54頁。