アーサー・アッシュ
アーサー・アッシュ(Arthur Ashe, 1943年7月10日 - 1993年2月6日)は、アメリカ・バージニア州リッチモンド出身の男子テニス選手。本名は Arthur Robert Ashe Jr. (アーサー・ロバート・アッシュ・ジュニア)。
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アーサー・アッシュ | ||||
基本情報 | ||||
フルネーム | Arthur Robert Ashe, Jr. | |||
国籍 | アメリカ合衆国 | |||
出身地 | 同・リッチモンド | |||
生年月日 | 1943年7月10日 | |||
没年月日 | 1993年2月6日(49歳没) | |||
身長 | 188cm | |||
体重 | 73kg | |||
利き手 | 右 | |||
バックハンド | 片手打ち | |||
殿堂入り | 1985年 | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1970年 | |||
引退年 | 1980年 | |||
ツアー通算 | 59勝 | |||
シングルス | 45勝 | |||
ダブルス | 14勝 | |||
生涯通算成績 | 1141勝436敗 | |||
シングルス | 818勝260敗 | |||
ダブルス | 323勝176敗 | |||
生涯獲得賞金 | $1,584,909 | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | 優勝 (1970) | |||
全仏 | ベスト8 (1970・71) | |||
全英 | 優勝 (1975) | |||
全米 | 優勝 (1968) | |||
優勝回数 | 3(豪1・英1・米1) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | 優勝 (1977) | |||
全仏 | 優勝 (1971) | |||
全英 | 準優勝 (1971) | |||
全米 | 準優勝 (1968) | |||
優勝回数 | 2(豪1・仏1) | |||
国別対抗戦最高成績 | ||||
デビス杯 | 優勝(1963・68-70) | |||
キャリア自己最高ランキング | ||||
シングルス | 1位(1968) 2位(ATP) | |||
ダブルス | 15位 | |||
4大大会男子シングルス「3勝」を挙げる。シングルス自己最高ランキングは2位。キャリア通算でシングルス45勝、ダブルス14勝を記録した。彼は4大大会で男子シングルスを制覇した初の黒人選手であり、1983年にヤニック・ノアが全仏オープンで優勝するまで、4大大会で男子シングルスを制した唯一の黒人選手だった。
来歴
編集アッシュは公園の管理人だった父親のもとでテニスを始めたが、幼少期から人種差別の影響により、ジュニアのテニス・トーナメントに参加できなかった。10歳の時に黒人医師のロバート・ウォルター・ジョンソン(1899年 - 1971年)と出会い、彼の支援を受けるようになる。ジョンソンはアッシュを自宅に同居させ、学業とテニスの両面で多大の援助を与えた。公民権運動の高まりとともに、アッシュも徐々に試合出場の機会を得られるようになり、1960年と1961年に「全米室内テニス選手権」で2連覇を果たす。そうしてカリフォルニア大学に入学の道も開かれ、「全米大学テニス選手権」のシングルス優勝も達成した。1963年から男子国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表選手に選ばれ、黒人のテニス選手として初めてデ杯でプレーするようになった。
1968年の全米オープンで4大大会初優勝を果たした時、アッシュは陸軍中尉として兵役に就いていた。この年はテニスの歴史を通じて最大の転換期であり、これまでアマチュア選手しか出場資格がなかった4大大会に、プロ選手も出場を認められた「オープン化」が実施された年である。そのオープン化措置のもとで行われた最初の全米オープンで、アッシュはプロ選手のトム・オッカー(オランダ)を 14-12, 5-7, 6-3, 3-6, 6-3 で破っている。黒人テニス選手の4大大会シングルス優勝は、女子で1950年代後半に活躍したアリシア・ギブソン(1927年 - 2003年)が5勝を挙げていたが(ギブソンの成績:1956年全仏選手権優勝、1957年と1958年にウィンブルドンと全米選手権を2連覇)、アッシュは男子選手として初の黒人チャンピオンに輝いた。1970年に全豪オープンでも優勝し、4大大会2冠を獲得する。この大会ではオープン化以前、1966年と1967年の全豪選手権で2年連続の準優勝に甘んじていた。翌年の1971年全豪オープンでは決勝戦で地元オーストラリアのケン・ローズウォールに敗れ、大会連覇はならなかった。
1975年のウィンブルドン男子シングルス決勝で、アッシュは大会前年優勝者のジミー・コナーズを 6-1, 6-1, 5-7, 6-4 で破り、4大大会3勝目を挙げた。これはアッシュが32歳の誕生日を迎える数日前の名勝負であった。(1996年ウィンブルドン準優勝者で、同じく黒人選手のマラビーヤ・ワシントンは、6歳の時に見たこの試合がきっかけでテニスを始めたという。)1981年から5年間、デビスカップのアメリカ・チーム代表監督を務める。現役引退後はアメリカ・テニス協会のジュニア育成委員として活動し、1985年に国際テニス殿堂入りを果たした。
アッシュは成長期に受けたロバート・ウォルター・ジョンソン医師の指導を守り、終始一貫して紳士的なマナーとスポーツマンシップに徹した選手だった。律儀な人柄で、当時のテニス界から深い尊敬を受けた。
アッシュは早くから心臓疾患に悩まされ、1979年7月に36歳で最初の発作を起こしている。病状は徐々に悪化し、1988年に心臓手術を受けたが、その際に施された輸血の影響でエイズウイルスに感染した。1992年にアッシュはエイズ感染を公表し、最晩年はエイズとの闘いでも前面に立ったが、1993年2月6日に49歳の生涯を閉じた。
アッシュの逝去から4年後、1997年に全米オープンの会場に新しいセンター・コートが建造され、彼の功績を称えて「アーサー・アッシュ・スタジアム」と命名された。その開場式典ではジョン・マッケンローが「彼は偉大なテニス大使だった」とのスピーチを行った。このコートは最大収容人数2万5千人の規模を誇る、世界最大のテニス・コートである。
4大大会優勝
編集- 全豪オープン 男子シングルス:1勝(1970年)/男子ダブルス:1勝(1977年1月) [男子シングルス準優勝3度:1966年・1967年・1971年]
- 全仏オープン 男子ダブルス:1勝(1971年)
- ウィンブルドン 男子シングルス:1勝(1975年)
- 全米オープン 男子シングルス:1勝(1968年) [準優勝1度:1972年]
年 | 大会 | 対戦相手 | 試合結果 |
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1968年 | 全米オープン | トム・オッカー | 14-12, 5-7, 6-3, 3-6, 6-3 |
1970年 | 全豪オープン | ディック・クリーリー | 6-4, 9-7, 6-2 |
1975年 | ウィンブルドン | ジミー・コナーズ | 6-1, 6-1, 5-7, 6-4 |