カストリ雑誌
カストリ雑誌(カストリざっし)は、太平洋戦争終結直後の日本で、出版自由化(ただし検閲あり、詳細は下段参照)を機に多数発行された大衆向け娯楽雑誌を指す。
これらは粗悪な用紙に印刷された安価な雑誌で、内容は安直で興味本位なものが多く、エロ(性・性風俗)・グロ(猟奇・犯罪)で特徴付けられる。具体的には、赤線などの色街探訪記事、猟奇事件記事、性生活告白記事、ポルノ小説などのほか、性的興奮を煽る女性の写真や挿絵が掲載された。
戦前の言論弾圧で消滅したエログロナンセンス(1929年 - 1936年)を引き継ぐ面もあり、戦後のサブカルチャーに与えた影響も大きい。
語源編集
語源には複数の説がある。
検閲編集
出版自由化と言っても、実態はGHQによりプレスコードに従い検閲が行われていた。カストリ雑誌に対して行われた検閲の記録は米国メリーランド大学のプランゲ文庫に保管されている。
用紙編集
当時は物価統制令下であり、物資不足であったため、印刷用紙は当局に申請し配給してもらわなければならなかった。しかし、この種の娯楽用出版物は用紙の確保ができず、統制外の仙花紙を用いることになった。仙花紙は古紙などを漉き直した再生紙の一種であって紙質は悪く、劣化しやすい。現存しているものは保存状態が劣悪であることが多いが、古書店で購入するなどして収集・研究の対象とする人もいる[1]。
主な雑誌と内容編集
カストリ雑誌のブームは1946(昭和21) - 1949年(昭和24年)頃と言われる。昭和初期に刊行されていたエロ・グロ雑誌『グロテスク』(1928 - 1931年、梅原北明)などのスタイルを継承している面がある。復員が進んだ1949年頃には凄惨な戦争体験の手記も掲載されるようになった。著名な文化人といえども生活苦だった当時は、カストリ雑誌に小説・挿絵を寄せていた。作家では永井荷風、江戸川乱歩、菊池寛、谷崎潤一郎、林芙美子らがいる。画家の東郷青児は『女性』の表紙を描いた[1]。
- 『赤と黒』(1946年9月創刊)[2]。後に『人間復興』[3]。
- 『猟奇』(1946年10月 - 1947年)は、第2号に「H大佐夫人」を掲載し、1947年(昭和22年)にわいせつ物頒布罪で戦後第一号といわれる摘発を受けた。
- 今日よく知られる『りべらる』(創刊号は1945年12月発売の1946年1月号。1953年3月まで刊行[4])は20万部を売り上げ、これに触発されて雑誌創刊が相次いだといわれる。数年続いたため、語源(3号でつぶれる)からすればカストリ雑誌とは言えないが、戦後まもなく創刊され、当時の世相をよく表しているため、カストリ雑誌と同様のものとして論じることが多い。後にSM雑誌に転向した『奇譚クラブ』(1947 - 1975年)、『夫婦生活』(1949 - 1955年)、吉行淳之介が編集者を務めていた『別冊モダン日本』(1950 - 1951年)なども同様である。
- さらに後の『あまとりあ』(1951 - 1955年)、『裏窓』(1956 - 1965年)なども、その内容から代表的なカストリ雑誌の系譜と言われている。
- 『千一夜』『ロマンス』『犯罪読物』『だんらん』など。
参考文献編集
脚注編集
- ^ a b c 西潟浩平「めくるめくカストリ雑誌◇敗戦の傷抱え人々はどう生きたか 大衆娯楽雑誌に見る◇」『日本経済新聞』朝刊2018年7月30日(文化面)2018年9月7日閲覧
- ^ 三島由紀夫『仮面の告白』という表象をめぐって[リンク切れ]武内佳代、お茶の水大学 F-GENSジャーナル、2007-09
- ^ 斎藤精一「カストリ雑誌」『大衆文化事典』(弘文堂、1991年、pp.142-143)
- ^ 松尾秀夫「“りべらる”始末記」『グラフィックカラー昭和史 第12巻 大衆と文化(戦後)』(研秀出版、1984年、p.160)