ソビエト連邦共産党書記長

かつてのソビエト連邦共産党の役職

ソビエト連邦共産党書記長(ソビエトれんぽうきょうさんとうしょきちょう、ロシア語: Генеральный секретарь ЦК КПСС ,ラテン文字表記:General Secretary of the Communist Party of the Soviet Union)は、ソビエト連邦共産党中央委員会の職務上の役職。正式には「ソビエト連邦共産党中央委員会書記長」と称する。ソビエト連邦共産党(以下「ソ連共産党」と表記)の事務官であり、ヨシフ・スターリンの在任中は同党およびソビエト連邦(以下「ソ連」と表記)の最高指導者という位置付けであった。これに倣い、「書記長」という肩書きは、ほかの多くの共産党の指導者に用いられた。1953年から1966年までは「第一書記」という肩書きであり、ニキータ・フルシチョフ及び初期の頃のレオニード・ブレジネフがこれを用いた。

ソビエト連邦の旗ソビエト連邦共産党中央委員会
書記長
Генеральный секретарь ЦК КПСС
КПСС.svg
官邸ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦モスクワカザコフ館
任命共産党中央委員会
創設1917年4月
初代エレーナ・スタソヴァ (中央委員会専門書記)
最後ウラジーミル・イワシコ (中央委員会書記長代行)
廃止1991年8月29日
通称(acronym) генсек (gensek)

歴史編集

スターリン体制における強化編集

スターリン政権以前は、ソ連共産党政治局においてウラジーミル・レーニンが最高指導者の地位を占めていたことは疑いの余地がなかった。1919年以降、「責任書記」(ответственный секретарь)が党中央の事務を処理したが、政治的役割は果たさなかった[1]。地方の党委員会の責任書記は、それぞれの委員会の指導者を務めた。

1922年に新設された書記長は、純粋に、行政上の規律的な役割であった。スターリンが最初に選出されると、党紀(Party discipline)と党に対するあらゆる従属と党の一般方針(general line of the party)、派閥争いに対する罰則、党の指導者の仕事を任務とする民主集中制の原則が適用された。より高等な組織が下部組織に全面的に義務を負わせ、党幹部である書記長による統制はより強くなり、別の党の指導者間における地位は高まっていった。中央政治局のほかの局員たちは党幹部からますます孤立し、分裂し、スターリンが異なる党派を互いに対抗させるのを黙認して漁夫の利を得たことで、結局、彼ら自身は排除された。1930年までに、党のみならずのソ連の事実上の指導者にまでなったのはスターリンのみであった。スターリンの権力による支配力がより確かなものになったことで、彼は党の公式の役割を軽視し始めるようになる。スターリンの周囲で、彼に対する個人崇拝の発生が容認された。

1927年の第15回党大会後の12月19日、最初の党中央委員会総会にて、スターリンは役職の廃止を提案したが、それは反対された。1934年1939年および1952年の党大会の後、それにより選出された中央委員会は、スターリンが書記長であることを確認するためのものではなくなっていた。むしろ、スターリンは役職に関係なく、政治局、書記局、そして組織局 (Orgburo) に選出され、「中央委員会書記」として書類に署名することをますます好んだ。しかし、1952年10月に書記長職が正式に廃止されるまではスターリンが同職に留まり続けたとみなされている。

その後編集

1948年以降、スターリンの将来的な後継者としてゲオルギー・マレンコフが書記を務めることになり、組織の指揮を執る。その後のスターリンは書記局の仕事からますます離れるようになる[2]。スターリンが死ぬ少し前の1952年10月16日、スターリンは書記長の役職の廃止(これによってスターリンの権力が衰えることは無かったが)を含む党の指導者の再編成を行った[3]

スターリンの死によって中央委員会の統率が再編成されたとき、書記長の座は一時的に空いたままだったが、政治局の上級委員で書記局にいた2人の人物、すなわち新首相となるマレンコフとニキータ・フルシチョフがいた。当初書記局の筆頭に名を連ねたマレンコフであったが、後に組織の事実上の支配権を握ったフルシチョフによって、1953年3月14日、書記局から追われた。1953年9月14日の党中央委員会にて、フルシチョフはソ連共産党中央委員会第一書記に選出された。当初は集団指導体制を考えていたフルシチョフも、自身の政敵の追放のため、ソ連共産党第一書記の権限を強化した。この「第一書記」という呼称は1964年にフルシチョフを失脚させたレオニード・ブレジネフの時代でも継続されたが、呼称に対する党幹部の不満が表出した。1966年の第23回党大会にて、初期の呼称である「書記長」が復活した。

終焉編集

1991年8月のクーデターを受けて、ミハイル・ゴルバチョフ大統領は書記長を辞任し、ウラジーミル・イワシコ副書記長が書記長代行を5日間務めた。1991年8月29日、ロシアの初代大統領となるボリス・エリツィンがソ連共産党の全ての活動を停止させ、ソ連共産党は解散した。

書記長等 一覧編集

氏名 肖像 役職 就任 退任 生年月日 死亡年月日
エレーナ・スタソヴァ   中央委員会専門書記 1917年4月 1918年 (1873-10-03) 1873年10月3日 1966年12月31日(1966-12-31)(93歳)
ヤーコフ・スヴェルドロフ   中央委員会書記局長 1918年 1919年3月16日 (1885-06-03) 1885年6月3日 1919年3月16日(1919-03-16)(33歳)
エレーナ・スタソヴァ   中央委員会書記局長 1919年3月 1919年12月 (1873-10-03) 1873年10月3日 1966年12月31日(1966-12-31)(93歳)
ニコライ・クレスチンスキー   中央委員会責任書記 1919年12月 1921年3月 (1883-10-13) 1883年10月13日 1938年3月15日(1938-03-15)(54歳)
ヴャチェスラフ・モロトフ   中央委員会責任書記 1921年3月16日 1922年4月3日 (1890-03-09) 1890年3月9日 1986年11月8日(1986-11-08)(96歳)
ヨシフ・スターリン   中央委員会書記長 1922年4月3日 1952年10月16日 (1878-12-18) 1878年12月18日 1953年3月5日(1953-03-05)(74歳)
ニキータ・フルシチョフ   中央委員会第一書記 1953年9月7日 1964年10月14日 (1894-04-17) 1894年4月17日 1971年9月11日(1971-09-11)(77歳)
レオニード・ブレジネフ   中央委員会第一書記
→中央委員会書記長
1964年10月14日 1982年11月10日 (1906-12-19) 1906年12月19日 1982年11月10日(1982-11-10)(75歳)
ユーリ・アンドロポフ   中央委員会書記長 1982年11月12日 1984年2月9日 (1914-06-15) 1914年6月15日 1984年2月9日(1984-02-09)(69歳)
コンスタンティン・チェルネンコ   中央委員会書記長 1984年2月13日 1985年3月10日 (1911-09-24) 1911年9月24日 1985年3月10日(1985-03-10)(73歳)
ミハイル・ゴルバチョフ   中央委員会書記長 1985年3月11日 1991年8月24日 (1931-03-02) 1931年3月2日(90歳)
ウラジーミル・イワシコ   (中央委員会書記長代行) 1991年8月24日 1991年8月29日 (1932-10-28) 1932年10月28日 1994年11月13日(1994-11-13)(62歳)

脚注編集

  1. ^ 責任書記の地位を占めていたのは、ニコライ・クレスチンスキーヴャチェスラフ・モロトフである。
  2. ^ Zhores A. Medvedev & Roy Aleksandrovich Medvedev, The Unknown Stalin, p. 40.
  3. ^ Geoffrey Roberts, Stalin's wars: from World War to Cold War, 1939-1953, p. 345.

関連項目編集