ユーリ・アンドロポフ

ユーリ・ウラジーミロヴィチ・アンドロポフロシア語: Юрий Владимирович Андроповラテン文字表記:Yurii Vladimirovich Andropov1914年6月15日 - 1984年2月9日)は、ソビエト連邦の政治家。ブレジネフの死後、ソビエト連邦共産党中央委員会書記長最高会議幹部会議長として同国の最高指導者の地位にあった。党中央委員会第二書記、第4代ソ連国家保安委員会(KGB)議長、駐ハンガリー人民共和国ソ連大使を歴任。軍の階級は上級大将詩人としても知られる。

ユーリ・アンドロポフ
Юрий Андропов
Yuri Andropov - Soviet Life, August 1983.jpg
Flag of the Soviet Union (1924–1955).svg ソビエト連邦
Coat of arms of the Soviet Union 1.svg 第5代最高指導者
任期
1982年11月12日 – 1984年2月9日
前任者 レオニード・ブレジネフ
後任者 コンスタンティン・チェルネンコ
КПСС.svgソビエト連邦共産党
中央委員会書記長
任期
1982年11月12日 – 1984年2月9日
第二書記 コンスタンティン・チェルネンコ
前任者 レオニード・ブレジネフ
後任者 コンスタンティン・チェルネンコ
Flag of the Soviet Union (1924–1955).svg ソビエト連邦
Coat of arms of the Soviet Union 1.svg 第8代最高会議幹部会議長
任期
1983年6月16日 – 1984年2月9日
第一副議長 ヴァシリー・クズネツォフ
前任者 ヴァシリー・クズネツォフ(代行)
後任者 ヴァシリー・クズネツォフ(代行)
КПСС.svgソビエト連邦共産党
中央委員会第二書記
任期
1982年5月24日 – 1982年11月10日
中央委員会書記長 レオニード・ブレジネフ
前任者 コンスタンティン・チェルネンコ(代理)
後任者 コンスタンティン・チェルネンコ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
Emblema KGB.svg 第4代国家保安委員会(KGB)議長
任期
1967年5月18日 – 1982年5月26日
閣僚会議議長 アレクセイ・コスイギン
ニコライ・チーホノフ
前任者 ウラジーミル・セミチャストヌイ
後任者 ヴィタリー・フェドルチュク
КПСС.svgソビエト連邦共産党
第22-23・26期書記局員
任期
1962年11月23日-1967年6月21日(第22-23期)
1982年5月24日 – 1984年2月9日(第26期)
КПСС.svgソビエト連邦共産党
第24-26期政治局員
任期
1973年4月27日 – 1984年2月9日
КПСС.svgソビエト連邦共産党
第23-24期政治局員候補
任期
1967年5月21日 – 1973年4月27日
個人情報
生誕 (1914-06-15) 1914年6月15日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
スタヴロポリ地方ナグツカヤ
死没 1984年2月9日(1984-02-09)(69歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
モスクワ
墓地 ロシアの旗 ロシア
モスクワ クレムリン共同埋葬地
市民権 ロシア人
政党 КПСС.svg ソビエト連邦共産党
配偶者 タチアーナ・アンドロポワ(1991年11月死去)
署名
兵役経験
所属組織 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
部門 赤軍
ソビエト連邦軍
軍歴 1939年1984年
最終階級 上級大将
戦闘 第二次世界大戦

長らく秘密警察のトップたるKGB議長を務めた。書記長に就任後、ブレジネフ時代に蓄積された停滞と腐敗の一掃、労働規律の強化に乗出したものの、就任半年後に病気になり十分な成果をあげられなかった。しかし、その考えの一部は自らが目を掛けて引き立ててきた同郷の後輩ゴルバチョフに引継がれた。

来歴編集

生い立ち編集

公式記録によるとアンドロポフは1914年6月15日スタヴロポリ地方ナグツカヤに生まれる。アンドロポフの家族に関する情報は謎めいており、明らかになっていない点も多い。父はドン・コサックの家系の鉄道労働者であり、アンドロポフが幼少の頃の1919年チフスを発疹し亡くなったとの説もある。1936年ルイビンスク水運技術専門学校を卒業。ヴォルガ蒸気船などに勤めた。1939年ソ連共産党入党。ソ連共産党中央委員会附属高等党学校を卒業後の1940年からカレリアのコムソモール(共産主義青年同盟)第一書記を務め、フィンランドと国境を接するカレリア自治共和国を担当する。独ソ戦が始まるとカレリアでパルチザン活動に入り、1944年にその首都ペトロザボーツクが解放されたのちは同市での党活動に移る。1947年カレリア党第二書記。住民にフィン人カレリア人)を多く抱え、ソ連・フィンランド戦争で一時フィンランド軍の占領を受けるなど複雑な事情を抱えていた地域で指導者として政治的力量を認められた。

外交官として 編集

駐ハンガリー大使編集

1951年オットー・クーシネンの推薦でソ連共産党の国際活動・外交及び諜報部門に活動の場を移し、1954年7月には駐ハンガリー大使に任命された。アンドロポフにとって当職での勤務は将来のキャリアに大きな影響を与えることになる。2年後の1956年ハンガリー動乱が勃発。ハンガリー国民は蜂起し社会主義の打倒を目指した。アンドロポフは、この事件を「反革命、反社会主義の暴動」と非難し、ソ連の指導部と連絡を取りつつ軍隊を派遣してハンガリーの社会主義政府を支援すべきだと考える。彼は軍事介入に消極的だったニキータ・フルシチョフ第一書記を説得し、ソ連軍の派遣を実現させた。結果的には動乱鎮圧に成功したものの、その過程で2500人以上が死亡し、ハンガリーの指導者は逮捕され、同国首相のナジ・イムレは処刑された。その冷酷な弾圧手法が故に、アンドロポフは西側諸国から「ブダペストの虐殺者」として知られることになった。

共産党中央委へ編集

1957年、アンドロポフはモスクワに戻り、党中央委員会の社会主義諸国共産党・労働者党連絡部長に任じられる。また、中ソ会談代表として中ソ論争に深い関わりを持つ。その中でもアンドロポフは、ハンガリーでの出来事を忘れることはなかった。ソ連の外交官オレグ・トロヤノフスキーによると、アンドロポフはハンガリー動乱について「あなた方は、それがどんな様子だったか到底想像できまい。何十万人もの人々が街にあふれ、完全に制御不能になっていた。」と語り、その後も折に触れ話し続けたという。その様子とは怒り狂った群衆が警官を殺害していた様子である。アンドロポフは、ソ連でそうした光景を目にすることを恐れ、それを防ぐために全力を尽くしていたと言われている。1961年第22回党大会以降、中央委員。1962年には中央委員会書記に昇進した。

KGB議長として編集

 
   KGB議長時代のアンドロポフ

1967年に中央委員会を離れ、ミハイル・スースロフの推薦で国家保安委員会(KGB)議長に就任し、書記に復帰するまで以後15年の長きにわたって同職を務めることとなる。KGB議長就任と同時に政治局員候補となり、1973年に投票権のある正規の政治局員となる。秘密警察の責任者が政治局に入るのはラヴレンチー・ベリヤ以来のことであった。これはベリヤ追放後にフルシチョフの発意で、軍と秘密警察を党の統制下に置くため、国防相と同じくKGB議長の政治局入りを禁止してきたのを、ブレジネフが解禁した結果であった。1973年には国防相アンドレイ・グレチコも政治局員となっている。

KGB議長としては外交面での緊張緩和(デタント)がソ連国内でイデオロギーを弛緩させることに関して警戒し、峻厳な治安政策をとった。

反体制派の抑圧編集

アンドロポフはKGB議長の任にあった間、「人権のための闘争は、ソビエトの国家基盤を弱体化させる帝国主義の陰謀である」と主張し、反体制派の弾圧に取り組んだ。1967年7月3日、アンドロポフはイデオロギーに関する政治犯に対処するためKGBに第5総局を設立する提案をし、同月末に設立された。1969年1月のブレジネフ暗殺未遂事件後、アンドロポフは、拘束された狙撃犯ヴィクトル・イリインの尋問を主導。イリインを「狂人」と断定し、精神病院に強制収容させた[1][2]。同年4月29日、アンドロポフは党中央委員会に対し、反体制派から「ソビエト政府及び社会主義秩序」を守るための精神病院のネットワーク構築計画を提出。さらに、アンドロポフの提案が聞き入れられる形で、反体制派との闘争に精神医学が利用されるようになった。その後、数十人の反体制派が「精神病」を口実にして精神病院に収容され、さらに数十人がソ連国外に追放された。その中で、アレクサンドル・ソルジェニーツィンを国外追放とし、アンドレイ・サハロフゴーリキーに流刑にするなど反対派の弾圧に辣腕を振るった。一方で、KGB議長としてソ連内外の情報を管理・知悉する立場から、ブレジネフ政権時代の後半の「停滞の時代」にあって危機意識を強め、体制内改革を志向するようになっていった。汚職の摘発にも辣腕をふるい、ブレジネフの親族の逮捕にも大鉈を振るった。KGB議長が政治局に入ることを禁止したフルシチョフの措置を解禁させたブレジネフであったが、その措置によって強大な権力を得たアンドロポフに求心力をそがれていくという皮肉な結果になっていった。

1975年7月[3]、アンドロポフはロシア皇帝だったニコライ2世とその家族が1918年7月に殺害されるまで幽閉されていた聖地化していた現状を危惧し、ブレジネフに同家の撤去を進言。政治局の承認により、1977年9月にスヴェルドロフスク州党第一書記のボリス・エリツィンの指揮の下で取り壊された。

アンドロポフの反体制派抑圧計画の中には、1961年に亡命したダンサーのルドルフ・ヌレエフを殺傷する計画も含まれていた。また、フョードル・クラコフピョートル・マシェーロフらソ連の政治家の突然死の黒幕はアンドロポフであると考える人もいる。2013年に機密解除された文書には、KGB議長たるアンドロポフがジョン・レノンの死(1980年12月)を追悼する無許可の集会の開催を防ぐよう指示した旨が記されている[4]

プラハの春編集

1968年プラハの春に際しては、チェコスロバキアに対して取られている「極端な」措置を支持した。KGB工作員よりワシントンからもたらされた「CIAも他の機関もチェコスロバキアの改革運動に関与していないことを証明する確かな資料を手に入れた」との報告も、アンドロポフの考えていた陰謀論と矛盾していたため聞き入れられなかった。アンドロポフは、チェコスロバキア共産党第一書記のアレクサンデル・ドゥプチェクら同国の改革者に対して「革新作戦」と称される積極的な措置を命じた。

アフガニスタン侵攻での役割編集

アフガニスタン民主共和国への軍事介入の是非が議題となった1979年3月の政治局会議の時点でアンドロポフは介入に反対していた。国際社会からの批判や今後予定されていたジミー・カーター米大統領との戦略兵器制限交渉に影響を与えるのではないかと懸念したためである。しかし後に考えを改め「いかなる状況でもアフガニスタンを失うことはできない」と、国防相のドミトリー・ウスチノフと共に軍事介入を主張し、同年12月24日にソ連軍はアフガニスタン侵攻を開始した。同侵攻は、結果としてアンドロポフの懸念通り、1980年モスクワオリンピックへの西側諸国のボイコットを招き、一部にはソ連崩壊に繋がったと考える人もいる。

ポーランド民主化運動編集

1980年ポーランド民主化運動発生後、ポーランドヴォイチェフ・ヤルゼルスキ国防相(後に同国大統領を務める)と面会。1981年12月10日、ポーランドの連帯運動に直面したアンドロポフは、スースロフ、ヤルゼルスキと共に、ブレジネフに対しポーランドにソ連軍を派遣すべきではないと進言。アンドロポフは、ソ連が「プラハの春」の二の舞を演じることを恐れていた。したがって、ポーランドの鎮圧にはヤルゼルスキ以下ポーランド軍がこれにあたることになり、これをもってブレジネフ・ドクトリンは終焉したものと捉えられる。

最高権力掌握への道編集

ポスト・ブレジネフを巡る権力闘争編集

アンドロポフは、ブレジネフの指導力が低下するに連れ、外相のアンドレイ・グロムイコ、国防相のドミトリー・ウスチノフとともにトロイカを組み、ソビエトの政策決定に大きな役割を果たすようになる。1982年1月にブレジネフ政権を支え続けた事実上のナンバー2・ミハイル・スースロフが死去した。2月になるとスースロフの死を待っていたかのようにブレジネフ一族のスキャンダルがモスクワ中に広まった。摘発の黒幕は、ほかでもなくアンドロポフだったという。彼はブレジネフ一族及びブレジネフの贔屓で指導部に入り込んだキリレンコ、チェルネンコ、シチェルビツキーら側近の乱脈な生活ぶりを苦々しく思っていたという。ブレジネフの追い落としまでは考えないが、いずれ来るその死去の際は、ブレジネフの意中の人物とりわけコンスタンティン・チェルネンコを後継者の座に就かせないことが狙いだとされた。5月、スースロフの後任として中央委員会イデオロギー担当書記に就任し、第二書記としての地位を確立。ブレジネフの最側近で後継者と目されたチェルネンコを追い上げていった。

最高指導者として編集

書記長就任編集

1982年11月10日、ブレジネフが死去。アンドロポフは葬儀委員長に就任し、大勢を決した。共産党の官僚組織を背景とするチェルネンコに対し、アンドロポフの背景には、長く議長を務めたKGBと、政治局員、ウスチノフを始めとする軍があった。後継書記長を決める政治局会議ではウスチノフがアンドロポフを推薦したとされる。一方、正式の会議の前には根回しが済んでおり、自身の不利を悟ったチェルネンコは「第二書記」としての処遇を受ける替わりに自らアンドロポフを推薦したとの説もある[5]11月12日、ソ連共産党中央委員会書記長に就任する。彼の書記長就任は元KGB議長という肩書とハンガリー動乱での彼の役割に鑑み、西側諸国からは警戒感をもって受け止められた。1983年6月からは国家元首である最高会議幹部会議長も兼任。また、国防会議議長も兼ねた。

チェルネンコらはアンドロポフの書記長就任に当たり、前任のブレジネフの基本路線を踏襲することを求めた。これに対しアンドロポフは、基本的にはブレジネフ路線を継承しつつも軌道修正を図った。アンドロポフは、前述の通り、政敵のチェルネンコを第二書記として偶し、彼と政治局の職務を分担した。アンドロポフは政治局の活動を監督し、国防、内政、外交、対外貿易を担った。一方でチェルネンコは、KGB、内務省、政党機関、イデオロギー、プロパガンダ、文化、科学、高等教育等と多岐に渡る分野を任され、他の政治局員には重要な任務は与えられなかった。

アンドロポフはまた、若い世代の改革派を多用した。同郷で若手の党活動家だったミハイル・ゴルバチョフを登用し[6]ペレストロイカへの道筋をつけた。政治局員には、ヘイダル・アリエフヴィタリー・ウォロトニコフ、書記にはニコライ・ルイシコフエゴール・リガチョフを登用した。自身の古巣のKGB議長にはヴィクトル・チェブリコフを任命した。

しかし、この段階でアンドロポフ政権の権力基盤は、人事異動が主として現業部門の大臣、次官あるいは党中央委部長等のいわゆる中堅幹部クラスが中心であることに加え、アンドロポフ自身の健康状態が必ずしも良好でないこともあり、完全に確立しているとは言える状況になかった。

経済政策と腐敗撲滅キャンペーン編集

書記長就任後、汚職に対しての綱紀粛正に着手した。ソビエト経済は莫大な軍事費によって不安定化し、問題を抱えているということをアンドロポフはよく知っていた。そこで彼は、それを正すために汚職と「闇経済」との闘いを始めた。闇経済は、ブレジネフ時代の後期に蔓延し出していた。アンドロポフは演説の中で「私たちは失った時間を取り戻さなければいけない」と強調した。ソ連経済の停滞に対する危機感をあらわにしたと同時に、強烈にブレジネフを批判したのである。ソ連経済立て直しのために抜本的な手を打たなければならないというのが経済関係者の共通の認識であった。そして、アンドロポフ政権発足とともに、かつて見られないほど経済改革を求める提案が出された。製品を入れる木箱や細々とした道具類まで作る巨大工場を細分化し、効率のよいミニ工場を目差すべきだとの論文から、タクシー等は個人経営を推奨すべきだとの意見まで公表された。共産主義建設の過程でソ連よりはるかに後方にいるはずの東欧各国、とくにハンガリーを見習え、と呼びかけた学者もいた。

その一方でアンドロポフは、規律の強化によっても経済再建を成し遂げようとした。警察は、勤務時間中に路上にいたり、酔っ払ったりした人々を拘束し始め、ウォッカの値上げによる酒類追放で労働者の生産性向上を図ろうとした。アンドロポフの下で、初めて経済の停滞と科学技術の進捗の遅滞が公表され、後の「グラスノスチ」の先例となった。このような政策により産業生産高は4%増加し、ロボット工学など新技術への投資が拡大した。一方で、アンドロポフはヨシフ・スターリンの下で導入された計画経済からの転換を拒み続けた。アンドロポフの死後、アレクサンドル・ヤコヴレフは、「アンドロポフの改革の効果は要するに、燃料を使い果たした電車を磨き立てることで速度を上げようとするようなものだった」と同書記長時代を振り返った。

外交・国防政策編集

アンドロポフは書記長就任後、アフガニスタンにおけるソ連軍の劣勢やポーランドでの民主化運動の激化など一連の厳しい外交状況に直面した。とりわけ最も大きな外交的苦難であったのは、ロナルド・レーガン米大統領によって開始された「第二次冷戦」の激化であった。レーガンはソビエトを「悪の帝国(Evil Empire)」と非難し、米国の強大な経済力を背景にソビエト経済の破綻を画策していた。具体的には、米国が軍事に対し膨大な投資をすることで、ソ連が軍事支出を増加せざるを得ない状況を作り出し、既に衰退が始まっていたソビエト経済を圧迫させることであった。これに対しアンドロポフは声明で「米ソの対話には賛成だが。対話のための対話や、力の立場からの対話には応じられない」と冷徹な返答を与えつつも、軍事予算を国家予算の70パーセントまで引き上げることを余儀なくされた。この時点でソ連は衰退の途上にあるとは言え、依然として東側陣営の盟主としてシリアイラクリビア南イエメンキューバ北朝鮮等に数十億ドル規模の軍事援助を行っていた「超大国」であった。アンドロポフの主たる目標は、あくまでも大規模な戦争を避けることだった。アンドロポフはソ連邦結成60周年記念集会で「米ソ双方が戦略兵器を25%以上削減し、同数の運搬手段を持つこと」、「ソ連は英仏のミサイル保有数と同数まで長距離戦域ミサイルを削減する用意がある」などと提案。さらにアフガニスタンからの撤退を模索し始め、デタントの再構築を図ろうとしたものの、その間絶え間なく戦闘は続き、アンドロポフ在任中の撤兵は実現しなかった。

1983年3月23日、レーガンが戦略防衛構想(スター・ウォーズ計画)を発表した際、アンドロポフは「核戦争を避ける最良の手段を模索しなければならない。この構想に対抗することは、無責任ではなく非常識なことだ。」と述べた。

同年8月、アンドロポフはソ連が宇宙空間における全ての軍事作業を停止していることを発表した。一方、欧米との中距離核戦力に関する軍備管理協議は11月にソ連によって中断され、年末までに全ての軍備管理協議は打ち切られた。

最高指導者としての短い在任期間中の最も著名な行為の1つに、米国の10歳の少女サマンサ・スミスからの手紙に応答し、ソ連へ招待したというものがある。スミスは実際にソ連を訪問したものの、当のアンドロポフは病気が進行しており、面会は叶わなかった。

大韓航空機撃墜事件編集

1983年9月1日ソウルに向かって飛行中だった大韓航空機007便が、領空侵犯の疑いをかけられ樺太上空でソ連軍機によって撃墜された(大韓航空機撃墜事件)。当時書記長だったアンドロポフはこの事件に際して「事件は米国の特務機関が南朝鮮(韓国)を使って企んだ巧みな挑発で、その責任は米国にある」と白を切る内容の声明を発表。「007便が米国のスパイ活動に協力していたという主張を裏付けることができない」というウスチノフ国防相の進言を受け、ブラックボックスの非公開を決め込んだ。

死去と国葬編集

健康状態の悪化編集

ようやく権力の頂点に登り詰めたアンドロポフであったが、持病の糖尿病による腎機能低下の障害は、書記長就任後から彼の政治的識見と能力発揮の阻害要因となった。当初、アンドロポフは多忙な政治日程をこなし、精力的な仕事ぶりをみせた。ブレジネフが夏に入ると早々と休暇をとり、1〜2ヶ月執務を離れたのとは対照的だった。1983年夏も、出ずっぱりといえるほどの忙しさで「夏にめっぽう強いアンドロポフ」との評判さえ生まれた。しかし、この間も病気は進行し、7月から8月にかけて健康状態は悪化の一途を辿っていた。最高会議幹部会議長に選出された際の受諾演説は、演壇まで歩ける状態になく、やむなく自席で行うありさまであり、西ドイツヘルムート・コール首相との首脳会談の際も、クレムリン到着時、ボディガードの補助なしに車から降りることもままならなかった。9月1日(奇しくも大韓航空機撃墜事件が発生した日である)の政治局会議を司会したのを最後にアンドロポフは公の席から姿を消し(党中央委総会もテクスト出席)、これ以降、死去するまで半年近くにわたって病床から政務を行った。9月末に南イエメンアリ・ナセル・モハメド最高人民会議常任幹部会議長との会談が報じられたが、会談がどこで行われたかは伏せられ、会談の写真も公表されなかった。

10月15日からの予定だったブルガリア訪問は直前になって延期された。同国の首都ソフィアでは歓迎準備が進められており、急遽の訪問取りやめによって改めて書記長の健康問題が関心を集めた。11月7日の革命66周年記念軍事パレードも欠席し、政敵のチェルネンコ第二書記が、本来そこに立つはずであったアンドロポフに代わりレーニン廟上の雛壇中央を陣取った。

死去編集

 
記帳するレーガン米大統領

1月下旬、アンドロポフの健康状態は急激に悪化し、意識混濁状態に陥った。そして1984年2月9日16時50分、アンドロポフは腎不全により死去した。69歳没。政治局員及び政治局員候補の多くは、彼の死をその翌日になって知らされた。日本ではNHKが「“アンドロポフ死亡”との仏シェイソン外相談」と速報を打ち、2月10日、国営テレビやラジオを通して、その死が公式発表された。後任には、アンドロポフのライバルであり政敵であった、保守派のコンスタンティン・チェルネンコが就いた。アンドロポフ自身はゴルバチョフを後継に考えていたようであるが、病身ではその実現もままならなかった。

 
赤の広場・革命元勲墓にあるアンドロポフの墓(2016年撮影)

4日間の服喪期間の後、2月14日正午から赤の広場で国葬が執り行われ、葬儀委員長を務めたチェルネンコの他、第一副首相兼外相のグロムイコや国防相のウスチノフらが追悼の辞を述べた。日本の安倍晋太郎外務大臣や米国のブッシュ副大統領、英国のサッチャー首相など西側諸国の要人も参列した。遺体は、弔砲が鳴り響きソ連国歌が演奏される中、レーニン廟裏の革命元勲墓に埋葬された。

その後編集

 
2014年に発行されたアンドロポフを記念した切手

改革派の指導者として、ゴルバチョフ等の後世のソ連・ロシア指導者に影響を与えた。特にKGB議長経験者初の書記長を務めたことでKGB出身であるウラジーミル・プーチンに与えた影響は大きく、プーチンはアンドロポフを称賛し[7][8][9]、記念の執務室や銘板を復活[10]させたり、サンクトペテルブルク市街地にアンドロポフの銅像を立てたりと、他のソ連の指導者とは別格として顕彰を行っている。

人物・家族編集

  • 歴史学者ロイ・メドヴェージェフは、その著書『知られざるアンドロポフ』のなかでKGB議長在職中のアンドロポフについて「人々はKGB議長が彼であることをほとんど知らなかった。どの国でも、情報機関を率いる人は、有名になりたいなどと思わないし、そんなことは期待できない。とくにソ連のような国ではなおさらだ。」と著述している。
  • ブレジネフの葬儀に参列した日本の鈴木善幸首相は「アンドロポフ氏は非常にソフトで温厚な感じだった。学者のように見受けられた。長い間、共産党の幹部として党の中枢で働き、また15年もああいう秘密警察(国家保安委員会=KGBを指す)の長官を務めたとの印象は受けなかった」と述べた。
  • 中央委時代のアンドロポフの顧問や若い知識人は、しばしば彼を「リベラルな」リーダーとして回想する。「この部屋では、我々全員がまったくオープンに本音を話すことができる。しかしこの部屋を一歩出たら、規則に従ってプレーしなければならない。」政治学者ゲオルギー・アルバトフは、アンドロポフのこんな言葉を覚えている。この言葉の意味は、我々は自分たちの仲間内ではソビエト体制を批判することができるが、あくまでも国家に忠実であることを忘れるな、ということであるという。幾人かの歴史家は、西側との緊張緩和(デタント)の路線を発展させたのはアンドロポフだったとさえ述べている。ドイツの歴史家スザンヌ・シャッテンベルクは「アンドロポフは、ブレジネフの対西側政策を構築した(1970年代末のいわゆる『デタント』のこと。当時、ソ連と西側との関係が多少改善された)」と語った。
  • アンドロポフは、出自を含め、自分の個人生活については常に寡黙だった。彼の祖父はユダヤ系の裕福な商人だったという噂が広まっていたが、アンドロポフはそれをいつも否定した。
  • 彼は自分の家庭についても語らず、在任中は私生活は全く明らかにされなかった。5年間結婚生活を送り、息子をもうけたが、離婚後は、息子と元妻とはほとんど連絡を取らなかった。
  • 西側メディアでは長年アンドロポフは男やもめであるとされ、葬儀の際には「夫人は9年前に死亡」と伝えられた。だが葬儀にはタチアナ夫人と子供2人が列席し、西側メディアを驚かせた[11]
  • アンドロポフ自身語学に長けており、ロシア語の他、英語ドイツ語フィンランド語で意思疎通をとることができた。

脚注編集

  1. ^ Eurasian Secret Services Daily Review”. Axis Information and Analysis (AIA) (2009年1月25日). 2011年4月29日閲覧。
  2. ^ McCauley, Martin (2014). The Rise and Fall of the Soviet Union. Routledge. p. 354. ISBN 978-1-31786-783-8 
  3. ^ Пост. ЦК КПСС № П185.34 от 4 августа 1975 г.”. 2014年2月18日閲覧。
  4. ^ Memorandum from the KGB Regarding the Planning of a Demonstration in Memory of John Lennon”. Wilson Center Digital Archive (1980年12月20日). 2013年8月16日閲覧。
  5. ^ ドミトリー・ヴォルコゴーノフ『七人の首領』(下巻)
  6. ^ ゴルバチョフの昇進には、スースロフと並んでアンドロポフの力があずかったのは事実だが、ゴルバチョフの政治局員就任はブレジネフ在世中の1980年である。
  7. ^ Mitsotakis, Spyridon (2014年3月6日). “Remember Andropov? Putin does”. Breitbart News. 2016年8月31日閲覧。
  8. ^ Miletitch, Nicolas (2014年7月29日). “Andropov birth centenary evokes nostalgia for Soviet hardliner”. The Daily Star. http://www.dailystar.com.lb/Arts-and-Ent/Culture/2014/Jul-29/265406-andropov-birth-centenary-evokes-nostalgia-for-soviet-hardliner.ashx 
  9. ^ “Putin puts Yuri Andropov back on his pedestal”. The Irish Times. (2004年6月16日). http://www.irishtimes.com/news/putin-puts-yuri-andropov-back-on-his-pedestal-1.1145047 
  10. ^ ロイ・メドヴェージェフ「プーチンの謎」現代思潮新社、2000年8月30日、p.91
  11. ^ 木村明生「クレムリン 権力のドラマ」朝日選書、1985年

関連項目編集

参考文献編集

  • 木村明生『クレムリン 権力のドラマ レーニンからゴルバチョフへ』(朝日新聞社、1985年)、ISBN 4-02-259383-0
  • 木村明生『ソ連共産党書記長』(講談社現代新書、1987年)
  • ドミトリー・ヴォルコゴーノフ『七人の首領 下』(生田真司訳、朝日新聞社、1997年)、ISBN 4-02-257177-2
  • ジョレス・メドベージェフ『アンドロポフ クレムリン権力への道』(毎日新聞社外信部訳、1983年)
  • V・ソロビヨフ、E・クレピコワ『クレムリンの内幕 アンドロポフの革命とその後』(磯田定章訳、ダイヤモンド社、1984年)
先代:
レオニード・ブレジネフ
 最高指導者
1982年 - 1984年
次代:
コンスタンティン・チェルネンコ
先代:
レオニード・ブレジネフ
 最高会議幹部会議長
1983年 - 1984年
次代:
コンスタンティン・チェルネンコ
先代:
ウラジーミル・セミチャストヌイ
 国家保安委員会議長
1967年 - 1982年
次代:
ヴィタリー・フェドルチュク
先代:
レオニード・ブレジネフ
 ソビエト連邦共産党書記長
1982年 - 1984年
次代:
コンスタンティン・チェルネンコ
先代:
コンスタンティン・チェルネンコ(代理)
 ソビエト連邦共産党第二書記
1982年 - 1982年
次代:
コンスタンティン・チェルネンコ