タイ・フランス領インドシナ紛争

タイ・フランス領インドシナ紛争(タイ・フランスりょうインドシナふんそう)は、1940年仏暦2483年)11月23日から1941年仏暦2484年)5月8日にかけて起きた、タイ王国ヴィシー政権下のフランス植民地軍との国境紛争である。「泰・仏印国境紛争」「インドシナ国境紛争」とも。

タイ・フランス領インドシナ紛争

戦勝を記念してバンコク市内に建てられた戦勝記念塔
戦争:タイ・フランス領インドシナ紛争
年月日1940年11月23日から1941年5月8日
場所:タイ・フランス国境、シャム湾など
結果タイ王国の旗 タイの勝利
交戦勢力
タイ王国の旗 タイ フランスの旗 フランス国
指導者・指揮官
タイ王国プレーク・ピブーンソンクラーム フランスフィリップ・ペタン
ジャン・ドクーフランス語版
損害
54人戦死
307人負傷
海防戦艦 1大破、
水雷艇 2沈没、1大破、
戦闘機、爆撃機約13機
321人戦死または負傷
178人不明
軽巡洋艦 1小破、
戦闘機、爆撃機約22機
第二次世界大戦

紛争への経緯 編集

第二次世界大戦勃発直前の1939年8月、フランスはタイ王国に対して不可侵条約の締結を要請していた。これはフランス領インドシナ(以後、仏印)の安全を図るためであり、翌1940年6月12日バンコクにおいて仏泰相互不可侵条約に調印した[1]。しかし、フランスがドイツに敗れたこと、独仏休戦1940年6月17日)前にフランスが不可侵条約を批准していなかったこと、日本軍による仏印進駐が迫っていたことなどの状況から、タイは旧領回復への行動を開始した[2]

タイのピブーン政権は、新たに発足したフランスのヴィシー政権に対し、1893年仏泰戦争英語版でフランスの軍事的圧力を受けて割譲した仏印領内のメコン川西岸までのフランス保護領ラオスフランス語版の領土と主権やフランス保護領カンボジアバッタンバンシエムリアプ両州の返還を求めたが、フランス政府はこの要求を拒否した。

日本の同盟国であるドイツによるフランス本土占領と、親独のヴィシー政権の樹立を受けて日本軍北部仏印進駐を行ったため、日本と友好関係にあったタイにとっては、日本軍が南部仏印にまで進駐してしまうと領土要求が難しくなるという懸念が生まれていた。当時のタイ政府はあくまで強硬な姿勢を貫き、9月頃より国境付近で両軍による小競り合いが頻繁に発生するようになった[2]

戦闘序列 編集

タイ軍 編集

タイ軍は開戦後の10月、司令部直轄部隊の他に以下の2個軍を編成した[3]

砲兵部隊は19世紀以来のクルップ砲英語版と近代的なボフォース 40mm機関砲75mm機関砲英語版榴弾砲の混成であった。戦車部隊はカーデン・ロイド豆戦車60台、ヴィッカース 6トン戦車30台など合計100台。

空軍は約500人のパイロットを持ち、チャンス・ヴォートO3U-2英語版70機、カーチス・ホークⅢ英語版24機、B-106機のほか、1940年11月までにM103「ナゴヤ」の名で購入した九七式軽爆撃機24機[4]九七式重爆撃機9機を含む100〜150機の戦闘用航空機を保有した。

海軍は、2隻の海防戦艦(トンブリスリ・アユタヤ)、水雷艇12隻(9隻のイタリア製トラッド級水雷艇ほか3隻)、潜水艦4隻を保有していた[5]

フランス軍 編集

インドシナのフランス軍は約50,000人で構成され、41個歩兵大隊、2個砲兵連隊、および工兵大隊で構成されていた。そのうちフランス人は12,000人で、残りはインドシナ人であった[6]。フランス軍は装甲車両が不足しており、タイ王国陸軍の約100台に対してルノー FT-17 軽戦車わずか20台しか配備していなかった。タイ国境近辺は、第3トンキン狙撃兵連隊フランス語版第4トンキン狙撃兵連隊フランス語版(トンキン狙撃兵)のインドシナ軍を主力として、モンタニャール英語版大隊、植民地歩兵連隊英語版の大隊、フランス外人部隊などが駐留していた[7]

海軍は軽巡洋艦ラモット・ピケ1隻、通報艦デュモン・デュルヴィルフランス語版アミラル・シャルネフランス語版タウールフランス語版マルヌの4隻を有していた。

空軍は約100機、うち稼働機は約60機を持っていたと思われる。内訳は、ポテーズ 25 TOE偵察/戦闘爆撃機30機、ファルマン F.222重爆撃機4、ポテーズ 542フランス語版爆撃機6、モラーヌ・ソルニエ MS.406戦闘機9、ロワール 130偵察/爆撃機8[8]

紛争 編集

開戦 編集

両国の外交が暗礁に乗り上げた1940年11月23日、タイ空軍が仏印領内を爆撃し両軍の戦端が開かれた。タイは6機のマーティンB-10爆撃機で昼間爆撃を行い、仏印軍の基地施設を破壊したりポテーズ 542フランス語版など複数の航空機を地上撃破することに成功したが、迎撃に上がったフランス軍のモラーヌ・ソルニエ MS.406がタイ空軍の爆撃機2機を撃墜した。

これに対して、仏印軍は4機のファルマン F.221や6機のポテーズ 542など計10機が夜間爆撃を行った。仏印空軍はこれによりタイ空軍の戦闘機・爆撃機に被害を出すことに成功したが、迎撃に上がったタイ軍の戦闘機や高射砲部隊がフランス軍のMS406戦闘機2機とF221爆撃機1機を撃墜した。

陸軍の戦い 編集

一方、タイ陸軍の動きは遅く、 1940年11月23日に現カンボジア領内に侵入して仏印軍と交戦したが、翌日にはタイ領内に撤退[9]。 本格的に地上軍が動いたのは年が明けてからだった。1941年1月6日、タイ軍は仏印領内のルアンプラバン地方(現ラオス)・バッタンバン地方(現カンボジア)に20個大隊で侵攻開始した。対する仏印軍は10個大隊で、しかも重火器が不足していたためタイ軍に圧倒され敗北を重ね多くの死者、行方不明者を出し撤退するなど、タイ軍が勝利をおさめた。

この敗北を受けて、仏印軍はベトナム兵の戦時動員を行いタイ軍を領内の奥深くに誘引し反転反抗をする戦略を立て、1月16日カンボジアのバッタンバンで仏印軍は反撃を開始した。これに対しタイ軍はヴィッカース 6トン戦車を装備する2個戦車中隊から成る機甲部隊を投入し仏印軍を押し返すが、救援に駆けつけた外人部隊オチキス 25mm対戦車砲2門・シュナイダー75mm榴弾砲英語版1門装備)の攻撃により6トン戦車3台が撃破されタイ軍の攻勢は停滞した。

この反撃をきっかけに仏印軍はタイ軍を一時的に押し戻したものの、物量に勝るタイ軍はフランス軍に対してさらなる攻撃を加え、本国が占領下におかれ兵士の追加もままならないフランス軍は数多くの戦死者や負傷者を出すこととなった。

コーチャン島沖海戦 編集

1941年1月にはシャム湾でもタイ海軍とフランス海軍の軽巡洋艦ラモット・ピケ」(La Motte-Picquet)を旗艦とする艦隊が交戦し、規模に勝るフランス海軍側が霧の中で奇襲をかけ、タイ海軍側の旗艦であるトンブリ級海防戦艦トンブリ」(เรือหลวงธนบุรี Dhonburi)を撃沈するなど、フランス艦隊が勝利した。

空戦 編集

カンボジア上空ではタイ空軍カーチスP-36と、仏印軍の戦闘機MS406戦闘機による空中戦が行なわれ、P-36戦闘機2機がMS406に撃墜された。だが仏印側もタイ空軍の空襲によりMS406戦闘機2機と爆撃機ファルマンF211、1機を損失するなど大きな損失を被った。

終戦 編集

 
タイがフランスから獲得した地域
 
東京条約締結後にバンコクに建立された戦勝記念塔

戦闘が拡大を続け終息する気配を見せない中、アジアにおける数少ない独立国かつ友好国のタイや、他の地でも戦闘を行っていた友好国のフランス(フランスは本土やアフリカ連合国軍との戦いを続けていたほか、いくつかの植民地は自由フランス側についた)という、友好国同士が戦い国力が疲弊することを憂慮した日本が、タイとフランスの間の和平を斡旋し始めた。

1941年1月21日二見甚郷・駐タイ公使はタイから公式の調停依頼文書を受け取る。1月24日にフランス側が非公式に調停を受諾し、1月28日に両軍は停戦した[10]。停戦交渉会議は1月29日より、サイゴンに停泊した日本海軍名取巡洋艦(艦名は秘匿された)において行われ、1月31日に正式調印された[11]

2月2日より東京において国境線の画定を含む調停会議が開催されたが、両国の対立により難航した[12]。タイ側はラオスとカンボジア全土の返還を要求したが、これはあくまで交渉のための要求であった[13]。一方で、戦況を有利に進めていたフランスは、エスカレートしたタイ側の要求を受け入れるはずもなく、これを拒否した[14]

2月24日、日本から調停最後案が提示された[12]。フランスはこの最後案を拒否するが、日本側の強い圧力により、いくつかの留保条件を付した上で3月11日に調停が成立した[12]。同日、タイに調停が終了が伝わると、国民は官公庁、学校、工場などのサイレン、寺院の梵鐘を鳴らして戦勝を祝った[15]

その後、条約化に伴う交渉が三国間で引き続き行われ、5月9日に泰仏両国が東京条約に調印して終戦となった。 条約はタイが1904年にフランスに割譲したメコン川右岸のルアンパバーン対岸とチャンパサク地方、および1907年に割譲したカンボジア北西部のバッタンバン・シエムリアプ両州を、タイ側に割譲させた[16]。ただし、その範囲は若干異なり、シエムリアプの町とアンコールワット周辺の遺跡群は対象外とされた[17]。このようにタイの要求を仏印側がほぼ受諾する内容だったため、後半では劣勢となっていたタイが勝利したという形となった。

タイ政府は、割譲された領域に、ナコーン・チャンパーサック県タイ語版英語版ピブーンソンクラーム県タイ語版英語版及びプラタボン県タイ語版英語版を置いた。

タイの要求を仏印側がほぼ受諾するというタイ側の事実上の勝利に終わり、タイではこの勝利を記念し、戦勝記念塔がバンコクに建立され、戦争の犠牲となった兵士を慰霊した[18]

その後 編集

第二次世界大戦においてタイは、日本の同盟国として英米に宣戦布告したが、1945年8月16日に宣戦の無効を宣言し、「敗戦国」の扱いは避けられた[19]。しかし、ド・ゴールのフランス臨時政府は、1941年のヴィシー政権下での割譲を無効であるとし、タイに返還を求めた[20]。これに対し、タイは失地獲得は戦争開始前であるとし、これに応じなかった[20]1946年仏暦2489年)5月にはフランス軍がタイ領を攻撃し、タイは国連安全保障理事会に提訴した[20]。しかし、フランスがタイの国連加盟に拒否権を行使する構えを見せたため、国際社会への復帰を優先したタイは領土を引き渡した[20]

その後勃発した第一次インドシナ戦争においてフランスが敗北したため、同地は間もなく独立したカンボジア王国ラオス王国の領土となった。

脚注 編集

  1. ^ 吉川利治 2010, p. 26
  2. ^ a b 立川京一 2000, p. 121
  3. ^ Charles D. Pettibone (2006). The Organization and Order of Battle of Militaries in World War Ii., Germany. Trafford. p. 342. ISBN 978-1412074988 
  4. ^ Forsgren, Jan, Japanese Aircraft In Royal Thai Air Force and Royal Thai Navy Service During WWII, オリジナルの2019-09-09時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20190908234901/http://www.j-aircraft.com/research/jan_forsgren/j-aircraft_royal_thai.htm 
  5. ^ Young, Edward M. (1995) Aerial Nationalism: A History of Aviation in Thailand. Smithsonian Institution Press.
  6. ^ Stone, Bill, Vichy Indo-China vs Siam, 1940-41, オリジナルの2019-09-08時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20190908100644/http://books.stonebooks.com/history/vichyvssiam.shtml 
  7. ^ Rives, Maurice. Les Linh Tap. ISBN 2-7025-0436-1 page 90
  8. ^ Ehrengardt, Christian J; Shores, Christopher (1985). L'Aviation de Vichy au combat: Tome 1: Les campagnes oubliées, 3 juillet 1940 - 27 novembre 1942. Charles-Lavauzelle 
  9. ^ タイ軍がカンボジアに侵入、仏印軍と交戦『東京日日新聞』昭和15年11月26日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p430 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  10. ^ 吉川利治 2010, p. 28
  11. ^ 停戦協定成立、国境問題は東京会談で『東京日日新聞』昭和16年2月1日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p431 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  12. ^ a b c 立川京一 2000, p. 127
  13. ^ 柿崎一郎 2007, pp. 165–166
  14. ^ 柿崎一郎 2007, p. 166
  15. ^ バンコク、戦勝に沸く『東京日日新聞』昭和16年3月12日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p434 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  16. ^ 柿崎一郎 2007, pp.163, 167
  17. ^ 柿崎一郎 2007, p. 167
  18. ^ 柿崎一郎 2007, pp. 168–169
  19. ^ 柿崎一郎 2007, pp. 183–185
  20. ^ a b c d 柿崎一郎 2007, p. 186

参考文献 編集

関連項目 編集