大西洋の戦い (第二次世界大戦)

大西洋の戦い(たいせいようのたたかい、: Battle of the Atlantic, : Atlantikschlacht)は、第二次世界大戦中に大西洋全域で行われた連合国枢軸国戦い1939年ヨーロッパでの戦争勃発と同時に始まり、100以上の輸送船団と約1,000隻の艦船が戦闘に巻き込まれた。1940年6月にイタリアが参戦し、同年中頃から1943年の後期にかけて山場を迎えた。双方で新型兵器の開発と新しい戦術、対抗策が開拓されたため、1945年ナチス・ドイツ降伏するまでの6年の間に渡って戦術的優位は両者間を行き来し、第二次世界大戦を通じて最も長い戦いとなった。

大西洋の戦い
Uボートの攻撃を受ける商船
Uボートの攻撃を受ける商船
戦争第二次世界大戦
年月日1939年9月3日 - 1945年5月7日
場所大西洋北海ラブラドル海
結果連合国の勝利
交戦勢力
イギリス海軍
アメリカ海軍
カナダ海軍
オーストラリア海軍
ブラジル海軍 
自由フランス海軍
ドイツ海軍
イタリア海軍
指導者・指揮官
イギリスの旗 ダドリー・パウンド
イギリスの旗 アンドルー・カニンガム
アメリカ合衆国の旗 アーネスト・キング
アメリカ合衆国の旗 ハロルド・スターク
ナチス・ドイツの旗 エーリヒ・レーダー
ナチス・ドイツの旗 カール・デーニッツ
大西洋の戦い

北アメリカや南大西洋からイギリスソ連に向かう輸送船団をドイツ海軍が阻止しようとしたが、これを見たイギリス海軍は徐々にドイツ海軍を圧倒するようになり、1941年の中期までにドイツ海軍の水上艦(戦艦ポケット戦艦巡洋艦)を封じ込め、1943年の3月から5月にかけて行われた輸送作戦においてUボートを駆逐した。

なお、「Battle of the Atlantic」は1941年春にイギリスの首相であるチャーチルが名付けた名前であるが、ここでは広義の大西洋の戦いについてとりあげる。

背景 編集

植民地帝国であり、島国でもあったイギリスは海外との貿易による輸入に依存している部分が大きかった。食料を確保しながらドイツとの戦いを続けるには100万トン以上の食料などの物資を必要とした。実質的に大西洋の戦いは、イギリスに送る物資の輸送を止める枢軸国と、それを維持しようとする連合国の輸送力戦争 (Tonnage war) であった。ドイツは1942年からヨーロッパ大陸への反攻を未然に防ごうと、イギリスに駐屯する連合国軍の部隊と装備の強化を妨害しようとした。

ドイツの戦略 編集

   
エーリヒ・レーダー
カール・デーニッツ

戦争が始まる前にドイツ海軍の潜水艦艦隊司令官カール・デーニッツ群狼作戦(独:Wolfsrudeltaktik)の採用を主張した。それは、Uボートが群になって輸送船団を同時に攻撃し、護衛艦に対応させる隙を与えないというものだった。デーニッツはイギリスを再起不能とするに十分な損害を与えるため、航洋型のVII型Uボート300隻を必要とすると計算した。しかし、世界の海軍国では潜水艦に対する評価は低く、それはドイツ海軍でも同様だった。

肝心のアドルフ・ヒトラーは潜水艦よりも戦艦などの主力艦に傾注し、メーメル地方獲得時には内外に対するアピールのため、ポケット戦艦で上陸した。1935年4月に英独海軍協定を破棄し、同年9月のヴェステルプラッテで戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインによる攻撃がポーランド侵攻の火蓋を切っている。一方でドイツ海軍の総司令官エーリヒ・レーダーソナー技術の進展に伴い潜水艦は無力化されると考え、ヒトラー寄りの主力艦を中心としたバランスの良い編成の艦隊を計画した[1]

技術発展の停滞 編集

イギリス海軍の主な対潜兵器は、初期のアクティブソナーであるアズディック (ASDIC) と爆雷を装備した駆逐艦を使って護衛させることであった。イギリス海軍とほとんどの海軍国では1920年代から1930年代の間、対潜戦闘への意識が欠けていた。ヴェルサイユ条約によって無制限潜水艦作戦が禁止されたこともあり、英海軍本部もアズディックの開発により潜水艦に悩まされることはなくなると信じ、対潜戦闘の研究は防衛意識過剰という見方が強かった。

 
駆逐艦の爆雷攻撃。

初期のアズディックは最大で3,000ヤード(約2.7 km)の探知距離があり、船の艦底にドーム状に設置された。アズディックから発した幅の狭い音波は海中の目標に反射し、精密な目標との距離と方角を知ることができたが、時に海中の異なる温度の層によって音波の反響が狂い、海流や魚の群れで間違うこともあり、アズディックをより効果的に運用するには経験豊富なオペレーターが必要であった。また、15ノット以上で航行すると、自身の騒音で海中からの反響はかき消されるため、アズディックは低速で航行する時にしか効果を期待できなかった。当然のことながら水中にいない(浮上している)潜水艦には全く効果がないため、月明かりが乏しい夜間に水上航行で襲撃してくる潜水艦には無力であった[2]

潜水艦の位置が判明すれば駆逐艦などの護衛艦が駆けつけ、目標の上を通過する際に設定した深度で爆発するように整えた爆雷を投下する。潜水艦を破壊するには潜水艦の船体から約6m(20フィート)以内の距離で爆発しなければ潜水艦を撃沈することはできなかったが、それらの戦術を現実的な状況でテストすることはできなかった。晴れて穏やかな天候という状況と1隻の潜水艦に対して1隻か2隻の駆逐艦を割り当てる、といった制限が設けられるなど、対潜戦闘の課題は多かった。

連合国にとって、より悪いことにUボートはイギリス海軍やアメリカ海軍の潜水艦よりもずっと深く潜ることができ、それはイギリス海軍の爆雷の最深設定された深度よりも深かった。1930年代の世界恐慌による経済低迷と多種に渡る緊急の再軍備の要請は、対潜用の艦艇や兵器に予算を使われないことを意味した。イギリス海軍は大部分の予算とエリートを戦艦部隊につぎ込んだ。それらの結果、対潜戦闘の経験が豊かな将兵と海上輸送の護衛などが不十分なまま第二次世界大戦へと突入した。また、イギリス空軍沿岸軍団英語版は海軍よりも酷い状態だった。

前哨戦 編集

機雷戦 編集

 
ドイツの触発式機雷。

ドイツ海軍は開戦前から連合国へ海上封鎖を試みるための戦力が不足していた。その代わり、ドイツ海軍は主力艦、仮装巡洋艦、潜水艦、航空機を使った通商破壊の戦略を当てにした。全ての使用可能な潜水艦と装甲艦(ポケット戦艦)のドイッチュラントアドミラル・グラーフ・シュペーは1939年8月までに出航した。宣戦布告がなされた時にはすでに大西洋への進出を果たし、開戦と同時に攻撃を開始した(装甲艦2隻は9月26日に通商破壊作戦を開始)。緒戦におけるUボート艦隊の規模は小さく、主力となった57隻の小型で航続距離の短いUボートII型はイギリス近海での任務と機雷敷設任務で活躍し、初期のドイツ軍は海上輸送の妨害のため、Uボートだけでなく航空機、駆逐艦によるイギリスの港湾への機雷敷設を必要とした。

一方のドイツも早い時期に機雷敷設を初め、まずイギリス近海と船団の航路へ触発式機雷を敷設した。それは船体が機雷に接触しないと爆発しなかったため、間もなく新型の磁気機雷を採用した。これは艦船が離れていても、爆発の衝撃波で損傷させることができた。

襲撃と追撃 編集

 
空母アーク・ロイヤルと雷撃機ソードフィッシュ(1939年ごろ)

開戦に際してイギリスとフランスは、ドイツに対して経済封鎖を行ったがドイツの産業への即効性は皆無であった。対するイギリス海軍も直ちに護衛艦と何隻かの輸送船を集団で航海に出す護送船団システムを導入した。通商保護のため徐々にその範囲を広げ、パナマボンベイシンガポールまで達した。

イギリス海軍の将校、その中でも海軍大臣のチャーチルは攻勢戦略を求め、イギリス海軍はドイツ海軍のUボート捜索やウェスタンアプローチを哨戒しながら潜水艦狩りを行うために、空母(航空母艦)を主力にした専用のハンティング・グループを編成した。しかし、Uボートは艦影が小さく、Uボート側も発見される以前に潜水することが常々あったため、この戦略には欠点があった。空母の艦載機は潜水艦を見つけることができたものの、この段階で有効な対潜兵器がなかったため、艦載機から掩護されることもなかった。そのため、艦載機で見つけられる潜水艦も、水上艦が駆けつける頃には立ち去っていた。

ハンティング・グループの戦略は、数日のうちに失敗を証明した。9月14日に新型空母のアーク・ロイヤルU-39の雷撃を受けた。3発の魚雷は命中前に爆発し、アーク・ロイヤルはかろうじて沈没を免れた。逆にU-39は護衛の駆逐艦による攻撃で、第二次世界大戦で初のUボート損失となったが、戦訓を生かす間もなく、3日後の9月17日に空母カレイジャスU-29に撃沈された。


Uボートを捜索する護衛駆逐艦は、開戦後の最初の年においてイギリス海軍の対潜戦略の特徴となったが、Uボートは見つけにくく護衛を失った輸送船団が大きな危険に晒されることが判明した。

カレイジャスの撃沈の1か月後にはギュンター・プリーン指揮するU-47が、イギリス海軍の拠点であるスカパ・フローに侵入して戦艦ロイヤル・オークを撃沈し、カレイジャスを凌ぐドイツの成功となった。ギュンター・プリーンは瞬く間に英雄となった。

南大西洋ではアドミラル・グラーフ・シュペーの進出によってイギリス海軍は緊張状態にあった。そして、アドミラル・グラーフ・シュペーは開戦後の最初の3か月で南大西洋とインド洋において9隻(50,000トン)の商船を沈めた。イギリス海軍とフランス海軍はアドミラル・グラフ・シュペーと北大西洋で活動していたドイッチュラントを捜索するため、巡洋戦艦3隻、空母3隻、巡洋艦15隻で、いくつかのハンティング・グループを編成した。これらのハンティング・グループはアドミラル・グラーフ・シュペーを捕捉するまで、何か月も海上を捜索していた(ラプラタ沖海戦)。

ドイツ側の不備 編集

デーニッツは開戦した最初の年で最大の成果を出すことを計画していたが、緒戦の爆発的活動は徐々に下火になった。ほとんどのUボートは9月から燃料と魚雷の補給や修理を受けるためドイツの港に戻る必要があり、活動のレベルを維持することができなかった。また1939年と1940年の厳しい冬でバルト海の港は結氷してしまい、新型のUボートがバルト海に閉じ込められ、ドイツの攻勢を妨げた。

1940年の春季にはアドルフ・ヒトラーデンマークノルウェーなど北欧侵攻計画であるヴェーザー演習作戦に備えて、水上艦と大半の航洋型Uボートが引き上げた。狭いフィヨルドはUボートにほとんど行動の余地を与えなかったが、イギリス側の輸送船や補給艦の集結は、Uボートにいくども攻撃の機会を与えた。しかし、ノルウェー沖での作戦行動によってUボートの主要兵装である磁気魚雷の欠陥が明らかになった。魚雷が命中前に爆発したり、命中しても爆発しなかったり、標的の下を通過してしまうなど、Uボートは無傷で走り去る船を追跡することが繰り返しあった。あるイギリスの水上艦はUボートの襲撃を20回以上も受けて沈まないことすらあった。これらの知らせはドイツ海軍の潜水艦艦隊に広まり、士気の低下をまねいた。魚雷開発を担当する監督はそれが乗組員に過失があったと主張した。この問題は1942年前期まで解決されることはなく、デーニッツはシールで鹵獲した魚雷の起爆方法を採用することにした。

イギリスの数多くの艦船はドイツが敷設した機雷を掃海した港から出航し、上手く大西洋を横断して苦難を切り抜けたがこの時、代替する艦船が失われていた。チャーチルは新型の機雷を無傷で回収するように優先事項として命じた。しかし、幸運にも1939年11月にドイツの航空機が投下した機雷がテムズ川の泥地(干潮時に海面上になる泥地)に落ち、イギリス海軍はこれを回収することができた。

イギリス海軍は対抗策として、大部分の艦隊に一時的に磁気機雷の感応を無効にする消磁処理を施した。これらは1939年の後期に始められ、小型の軍艦と商船には1940年から始められた。大方の機雷の掃海が終了するまで、数か月に1回の割合で処理が施された。ダンケルクの戦いでは機雷を無効化した艦船のおかげで、多くの将兵の脱出を成功させた。

群狼作戦の開始 編集

降伏の影響 編集

 
フランス海軍の駆逐艦ル・ファンタスク。

1940年6月以降、大西洋含む海洋で戦争の流れが大きく変わった。ドイツ軍はノルウェーの占領後、1940年5月から低地地方(ベネルクス)とフランスへの電撃的な侵攻(フランス侵攻)を始めた。1940年の時点でフランスは世界4位の海軍国であり、フランスの降伏(休戦)によってイギリスは最大の同盟国を失うこととなった。フランス海軍の艦隊は任務から離れたが、少数の艦船は自由フランス軍に加わってドイツとの戦いを続けた。後に自由フランス軍には、少数のイギリス製コルベットが加わり、規模こそ小さかったが大西洋の戦いでは重要な役割を担った。

フランスの降伏に伴い、Uボートは大西洋からわざわざドイツの基地まで戻る必要がなくなった。フランスのブレストロリアンラ・パリス英語版ラ・ロシェルなどの港湾は、北海に面するドイツの基地よりも大西洋に約720km(450マイル)近く、通商破壊戦に効率の良い地点へ向かうのに、イギリス諸島を迂回する必要もなくなったからである。また、大西洋におけるUボートの進出距離も広げ、以前よりも西に位置していた輸送船団への襲撃ができるようにもなり、より長く哨戒に時間を費やせるようになった。これらはUボート部隊の実兵力を二倍にさせた。

7月の初期から大西洋で哨戒を終えたUボートは新しいフランスの基地に戻れるようになった。後にドイツ海軍は大西洋に面するフランスの基地に、Uボート・ペンとして知られるコンクリートで強化された巨大なブンカー(防空壕)を建設し、大戦を通じていかなる爆撃にも効果を発揮した。

1940年の夏季頃にイギリス海軍は深刻な脅威に直面した。4月と5月のノルウェーでの作戦行動を支援するため、通商航路から旧式の駆逐艦を引き抜き、それらをフランスから撤退する連合国の支援のためイギリス海峡へと送られた。駆逐艦は侵攻してくるドイツ海軍の艦隊を迎え撃つ位置で待機したが、駆逐艦の対空兵装が不十分であったため、ドイツ空軍の攻撃で大きな損害を被った。ノルウェーでの戦いで7隻、ダンケルク撤退で6隻、さらにイギリス海峡と北海で10隻を失い、他にも多数の駆逐艦が損傷した。

6月には枢軸国としてイタリアが参戦し、イギリス海軍は地中海艦隊を強化する必要が出てきたため、フランス海軍の役目を継ぐことも併せ、イギリス海軍はジブラルタルで新しくH部隊を編成した。イギリスはドイツがデンマークを占領し、デンマーク領であったアイスランドフェロー諸島がドイツの手に落ちることを防ぐため、アイスランドとフェロー諸島を占領した。

 
通商破壊にも従事したドイツ海軍の軽巡洋艦ケルン。

ドイツの西欧攻略は、Uボートがノルウェーでの作戦行動から開放され、通商破壊戦に復帰することを意味した。ところが、大西洋で哨戒するUボートが増加し始めた時、連合国側の輸送船団の護衛に使用できる護衛艦は大きく減っていた。イギリスにとって唯一の利点は、オランダなど占領された国々の大型の商船を使用できるようになったことであった。

これらの状況下で1940年5月10日に首相となったチャーチルは、アメリカ大統領であるフランクリン・ルーズベルト宛に最初の手紙を書き、旧式駆逐艦の貸与を要請した。それは特定のニューファンドランド島バミューダ諸島西インド諸島にあるイギリス軍の基地を99年間の賃貸を引き替えに、駆逐艦基地協定 (Destroyers for Bases Agreement) を結び、50隻の旧式駆逐艦が貸与され、アメリカのイギリスとその連邦国への最初の加担となり、レンドリース法へとつながっていった。貸与された駆逐艦は9月にイギリスとカナダへ引き取られたが、全ての駆逐艦の武装を改善してアズディックを装備させる必要があり、旧式駆逐艦が大西洋で活躍する前に多くの月日がかかった。

ドイツを支援するためイタリア海軍の潜水艦は、1940年8月からボルドーを基地に大西洋の通商破壊を始めた。イタリア潜水艦は地中海での作戦行動を想定して設計されていたものの、艦隊型潜水艦であったため小型のUボートよりも大西洋での活動に向いていて、イタリアの潜水艦32隻は数年間で109隻を沈めた。

1940年7月から10月までに連合国の艦船220隻以上が沈み、オットー・クレッチマー指揮するU-99、ヨアヒム・シェプケ指揮するU-100、そしてギュンター・プリーンなどのようなUボートのエースが成果をあげ、フランスを基地としたUボートの活動は劇的な成功をおさめていた。Uボートの乗組員はドイツの家庭で英雄視された。

連絡と連携 編集

 
U-99やU-100と同型(VIIB型)で、1941年まで第一線で活動していたU-52。

Uボートの大きな課題は広大な海上で輸送船団を捜索することであった。フォッケウルフ Fw 200がフランスのボルドーとノルウェーのスタバンゲルから偵察に使われたが、主な情報源はUボートであった。

Uボートは連合国の輸送船団を単独で攻撃していたが、中央から無線通信で集団として統制され始めた。ドイツは暗号解読に努め、イギリス全商船の暗号表を解読することに成功したため、ドイツは輸送船団がいつ、どこに現れるのか予想できるようになった。

Uボートは輸送船団の航路を二分するように長い哨戒線を張って散開した。最初の哨戒線で、Uボートがソナーを使ってスクリューの音を拾うか、水平線に輸送船団が出す煙を双眼鏡で探した。ひとたびUボートが輸送船団を発見すれば、攻撃せずに本部に連絡して他のUボートを待ってから攻撃した。攻撃は主に夜間を狙った。輸送船団の護衛は1つの襲撃に直面する度に、1群あたり約半ダースのUボートを相手にしなければならなかった。オットー・クレッチマーのような大胆な指揮官の場合は、前衛の護衛に潜り込むだけでなく、輸送船団の隊列内から攻撃を仕掛けることもあった。護衛艦艇のアズディックは、水中の目標に対して役割を果たしたが、ただ1隻で夜間に浮上して攻撃してくる潜水艦に対抗する術はなかった。

1940年9月21日、ハリファックスを出発した商船42隻のHX-72船団が夜間に4隻のUボートに攻撃され、11隻が沈み、2隻が損害を負った。10月にスループ2隻とコルベット2隻に護衛されたSC-7船団が襲撃に合い、59%の商船が失われた。翌日に攻撃されたHX-79船団はSC-7船団よりも悲惨だった。駆逐艦2隻、コルベット4隻、トロール船3隻と掃海艇に護衛されたにも関わらず、ドイツ側は損失なしで4分の1の船を沈めた。この9月と10月における集団戦術の大成功は、一連の通商破壊戦に衝撃的な影響を与え、イギリスの対潜戦術が完全に不十分であることを証明した。

 
フォッケウルフ Fw 200 コンドル。

12月1日にはドイツのUボート7隻とイタリアの潜水艦3隻がHX-90船団を捕捉し、10隻を沈めて3隻を損傷させた。これらの輸送船団に対する集団戦術の成功によって、カール・デーニッツは群狼作戦を標準の戦術にするよう促進した。

Uボートだけが船団の脅威ではなかった。ノルウェーでの戦闘において、早い段階で海戦を支援することを経験したドイツ空軍は、1940年から少数の航空機を大西洋の戦闘に提供した。提供された航空機は主に長距離偵察機であった。最初はフォッケウルフ Fw 200が中心だったが、後に海上哨戒機としてユンカース Ju 290が提供された。初期のフォッケウルフ Fw 200は偵察だけでなく、爆弾を搭載して輸送船を攻撃することもあった。

水上艦の活動 編集

 
喜望峰を回る連合国の輸送船団(1941年)。

緒戦の大成功にも関わらず、Uボートは通商破壊戦の主力と評価されるには至らなかった。デーニッツを除けば、両陣営におけるほとんどの海軍将校は最終的な通商破壊の艦種は水上艦だと考えていた。

ドイツ艦隊は1940年の前期にノルウェー侵攻のため集結し、大西洋にドイツの水上艦の姿は消えたが1940年の夏季から仮装巡洋艦などの水上艦が順を追ってドイツから出航した。

ドイツ戦艦の威力は、1940年11月5日の装甲艦アドミラル・シェーアによるHX84船団の被害によって証明された。武装商船ジャーヴィス・ベイの抵抗によって船団の船が散開して逃走することを許したが、アドミラル・シェーアは素早く5隻を沈めて、数隻を損傷させた。シェーアを要撃するためイギリス海軍は本国艦隊を派遣し、北大西洋における船団の航行を停止した。シェーアは南大西洋方面に逃走したため、捜索は失敗し、翌月にはインド洋に姿を現した。

他のドイツ艦船も存在感を示すように活動を始めた。重巡洋艦アドミラル・ヒッパーが1940年のクリスマスにWS5A船団を攻撃したが、護衛していた巡洋艦ベリックに撃退された。しかし2か月後の1941年2月12日にSLS64船団(19隻)を襲撃し、そのうちの7隻を沈めることに成功した。1941年1月からは巡洋戦艦シャルンホルストグナイゼナウの2隻が、ドイツを出航して大西洋に進出し、協同で襲撃を行うベルリン作戦 (Unternehmen Berlin) が実施された。この2隻は追跡できる連合国の艦船よりも強力であったため、イギリス海軍はできるだけ多くの船団に戦艦を護衛として随伴させなければならなかった。HX106船団は旧式戦艦ラミリーズの存在で、1か月後のSL67船団も戦艦マレーヤの存在によって攻撃を免れ、2度の襲撃から輸送船団を救うことができた。

 
戦艦プリンス・オブ・ウェールズを砲撃するドイツの戦艦ビスマルク。

ドイツは大胆な襲撃を計画し、5月に新型の戦艦ビスマルクと巡洋艦プリンツ・オイゲンの2隻を投入するライン演習作戦が開始された。イギリス海軍は情報部から予め報告を受けていたため、アイスランド沖で要撃した。イギリスはデンマーク海峡で生起した海戦で巡洋戦艦フッドを失ったが、H部隊の空母から発進した雷撃機の魚雷が舵に命中したおかげで本国艦隊が追いつき、戦闘の末ビスマルクは自沈した。この作戦を最後に大西洋における戦艦の襲撃は終わりを遂げた。アドルフ・ヒトラーはビスマルクの損失とノルウェーへの反攻の脅威により撤退を促され、1942年2月にシャルンホルスト、グナイゼナウ、プリンツ・オイゲンがドイツ本国へ帰還するツェルベルス作戦 (Unternehmen Cerberus) が行われ、大西洋からは強力な艦艇がいなくなった。

あまりに早い開戦で、ドイツ海軍の拡張計画(Z計画)は未完成のまま中止された。輸送船団を護衛ごと一掃する強力な戦艦の計画概要には、戦艦に付随できる護衛艦船が欠かせなかったが、それらは建造されず、計画は達成されなかった。機雷、Uボート、航空機などの攻撃による損失と比較すると水上艦の襲撃による被害は比較的少なかったが、捜索と護衛のために多くの艦艇を必要とし、そのために多くの燃料を消費し、輸送船団の航行を停止させるなど連合国の輸送船団システムに大混乱を起こさせ、イギリスの輸入量を大きく減じる結果となったのである。

また、ブレスト海軍基地の防備が脆弱だったとはいえ、シャルンホルスト、グナイゼナウ、プリンツ・オイゲンらをドイツ本国へ帰還させたことは戦略的に失敗だった[3]。1942年3月に戦艦ティルピッツがノルウェーから出撃する情報を得たイギリス海軍はフランス沿岸への進出を警戒し、ティルピッツの整備を受けることが出来る唯一のドックが所在するサン・ナゼールを攻撃する計画を立てるなど、イギリスは少なくない犠牲を払った。

護衛側の反撃 編集

 
旧式駆逐艦メイソン (USS Mason)。イギリス海軍にブロードウォーター (HMS Broadwater) と命名される。

1940年10月に船団が被った壊滅的損失により、イギリスは戦術の変更を迫られた。この変更で重要なのは、常に同行する護衛部隊の編成であった。護衛部隊の編成はイギリスとカナダで新造されたフラワー級コルベットとアメリカから貸与された旧式駆逐艦の投入など、段階的に増加しつつあった護衛艦によって助けられた。これらの護衛艦のほとんどがカナダ海軍に編入され、護衛任務の増加に伴いカナダ海軍も拡張されていった。他にも少数ではあったが、新造の護衛艦に自由フランス軍のフランス人ノルウェー人オランダ人などの乗組員が配置され、イギリス海軍の指揮下に入った。新しい護衛部隊は2隻か3隻の駆逐艦と6隻のコルベットで構成されたが、そのうちの何隻かは荒天や戦闘による損傷でドックに入って修理していたため、大体6隻で出港することが多かった。また、これらの護衛部隊の編成にあたり、新しく基地がヘブリディーズ諸島マル島に設けられ、実戦の経験を通して護衛部隊の訓練は捗るようになった。

1941年2月にはイギリスの海軍本部がウェスタンアプローチ管区の司令部をプリマスからリヴァプールに移動させ、4月には沿岸軍団の航空機も海軍本部が引き継いで空からの支援を受けやすくさせた。また、新型の短波 (SW) レーダーを使って浮上したUボートを見つけることが出来るようになり、捜索に打って付けである小型艦船や航空機への装備が1941年中に行われた。

これらのイギリス海軍の戦術変更は、1941年の春季から船団の防衛において効果を感じ取れた。3月に駆逐艦4隻、コルベット2隻からなる第3護衛群に守られたHX-112船団はUボートの群狼部隊を寄せ付けなかった。U-100は駆逐艦ヴァノックの体当たりを受けて沈没し、クレッチマーのU-99は大破されたため投降した。デーニッツの潜水艦艦隊はクレッチマー、プリーン、シェプケといった主要なエースを失った。一方、デーニッツは対潜水艦用の護衛がなされる前に船団を襲撃できるように、さらに西方に展開するよう潜水艦部隊に指示した。このドイツ海軍側の新しい戦略は、4月にSC-26船団の船10隻を沈めるという手応えを得られた。

5月9日にイギリス海軍の駆逐艦ブルドッグU-110を捕獲し、完全に無傷なエニグマを回収した。これは連合国にとって暗号解読に必要不可欠な躍進であった。機材はバッキンガムシャー州ブレッチリー・パーク政府暗号学校に運ばれ、そこでドイツの暗号解読に使用された。結果、その他の戦いでもドイツ海軍の動向を事前に察知できるようになり、世界で最初のコンピュータであるコロッサスの開発にも繋がった。

戦場の拡大 編集

 
駆逐艦の艦橋から見張りをする将校(1941年10月)。

アメリカは名目上は中立であったにも関わらず、1940年にデンマークをドイツに占領されイギリス軍がアイスランドを占領した後、アメリカはイギリスを間接的に支援するためイギリス軍に代わってアイスランドを統治した。1941年4月からルーズベルト大統領は保障海域 (Pan-American Security Zone) を東へ広げ、ほぼアイスランド近くまで達した。アメリカ海軍は大西洋西部を航行する連合国の船団を護衛し初め、Uボートと遭遇して敵対することもあった。

1941年6月にイギリスは船団がよく行き来する北大西洋の全行程における護衛の実施を決定した。このため、イギリス海軍本部はカナダ海軍に西方海域の担当とそれのための護衛部隊をニューファンドランドのセント・ジョンズに基地を設置するよう依頼した。1941年6月13日、カナダ海軍のレオナード・マーレイ英語版准将がウェスターンアプローチ管区の指揮下となる護衛部隊司令官を引き受けた。ニューファンドランド護衛部隊はカナダ海軍の駆逐艦6隻、コルベット17隻で構成され、そこにイギリス海軍の駆逐艦7隻、スループ3隻、コルベット5隻が加わり、増強された。ニューファンドランド護衛部隊の任務は、イギリスの護衛群と会合するアイスランド南方の海上までカナダから出港した船団を護衛することであった。

技術的対応 編集

 
1941年における船団のルート。

全行程の護衛と並行してイギリスはドイツ潜水艦の機敏な活動について技術的な研究を行った。それらはアメリカへ提供され、名称を変えてアメリカでも製造されたこともあって、そのほとんどがアメリカで開発されたという誤解を生じることもある。

1つは単に駆逐艦の後部から爆雷を投下する方法に代わり、駆逐艦の両脇から投下する新型爆雷の開発であった。これはアズディクの探知は艦船の真下で失われ、ドイツのUボートが離脱する際に逆に利用されることがあったためであった。さらに、爆雷は目標を囲むようボックス状に投下し、爆発の衝撃波でUボートを押しつぶすように破壊した。

CAMシップの登場 編集

連合軍の航空機の支援も徐々に範囲が伸びてきたものの、1941年の時点で大西洋を完全にカバーするにはあまりにも広すぎた。間に合わせの処置として、通常の貨物船を改造し船首に戦闘機1機を載せたカタパルトを増設したCAMシップ (Catapult Aircraft Merchantman) を登場させた。中古のハリケーン戦闘機を搭載して、敵機が寄ってきたらこれを追い払おうという算段である。

1941年11月に船団に接近するドイツ空軍の偵察機を撃退するなど効果は上がったが、発進した戦闘機は着艦することができないため、陸地が近くにない限りは1回限りの使い捨てであった。敵機を追い払ったパイロットは船団の護衛艦の近くに不時着水して回収されたが、時には命を失うこともあった。

後には飛行甲板を設けた商船(MACシップ)が1943年に登場し、護衛空母が本格的に船団護衛に投入されるまでのギャップを埋めた。このCAMシップの後に護衛空母の投入とイギリス空軍の沿岸軍団の増強によって、ドイツ軍の潜水艦や飛行機は船団への接近すら阻止されるようになった。

HF/DFの開発 編集

通信面での大きな成果はHF/DF(ハフ-ダフ) と呼ばれる無線方位探知機(RDF) の開発であった。HF/DFは無線士が無線内容の傍受に失敗した場合でも、無線が発せられた方向を知ることができた。群狼戦術が船団の位置情報をUボートによる確認に頼っていたため、連続する無線を傍受することで、HF/DFの搭載艦は船団に方角を知らせた。そして、護衛艦が襲撃に備えることでUボートに潜航を強要し、群狼戦術による攻撃を防ぐことができるようになった。これを駆逐艦など大型の護衛艦への装備を進め、船団にHF/DFを装備した船が2隻以上いた場合はUボートの正確な位置を測量して駆逐艦はUボートが船団に接近する以前に攻撃に向かえた。また、イギリスは大西洋の沿岸に多数のHF/DF基地を開設し、周囲で待ち伏せているUボートの位置を船団に通報した。

HF/DFの開発と時を同じくして、両陣営とも通信技術の研究を行ったが、無線が発せられた方向を探る手動のアンテナといった一般的技術は開戦前と変わらなかった。この難しい作業は、如何なる方角に設定するのにも多大な時間と労力を要し、この方角が正確でなければ発信源の特定は容易ではなかった。そのため、Uボートの無線士も発する通信文が短ければ短いほど安全性は大きく高まると熟考を重ねた。しかし、イギリス側がオシロスコープを元に計測機を開発しメッセージの長短に関わらず発信源が特定できるようになると、測量する必要もなくなり多くのUボートが攻撃を阻止された。護衛艦は提供された正確な位置情報から挟み撃ちした。最終的な位置特定にレーダーを使うこともでき、反撃に遭ったUボートは沈められた。そのような好例は、マイナーな技術面の大きな違いによって作られたのであった。

アメリカの参戦 編集

 
U-71英語版による魚雷攻撃で撃沈されるディキシー・アロー(1942年3月26日)

1941年12月に太平洋戦争の勃発によって日本とアメリカが参戦したが、ドイツと日本の連携がしたり、イギリスとアメリカの連携したりするよりアメリカ側の商船に対する防護が脆弱であることが目立った。カール・デーニッツはアメリカの参戦に伴い、即座にアメリカ東海岸への潜水艦派遣を決定し、ドラムビート作戦英語版(セカンドハッピータイム)と呼ばれるドイツ潜水艦の土壇場になった[4]

1942年2月、ノイラント作戦英語版を始めとするタンカーや製油所(石油精製)、ボーキサイト運搬船への潜水艦による雷撃と艦砲射撃などカリブ海の戦い英語版が行われ、戦略資源を巡って激しい攻防戦となった。しかし、デーニッツは軍艦や商船への攻撃に執着したため、総司令官エーリヒ・レーダーによる艦砲射撃の再攻撃命令を無視し、アメリカ軍が防備を固めたことから戦果を拡張することに失敗した[5]

キューバドミニカハイチパナマブラジルへの飛行場建設の他、アメリカ沿岸やカリブ海における港湾に沿岸砲が配置されて防護が固められると中部大西洋ギャップ英語版での活動が主体となった。アメリカ海軍は艦隊型の大型艦建造に注力しており、リバー級フリゲートのような小型護衛艦を整備しておらず、そのイギリスから逆レンドリースされたフリゲートで船団護衛ではなく、沿岸哨戒任務に当てていた。また、イギリス海軍も護衛空母が整備されるまで、航続距離の長い潜水艦を攻撃できる航空機を保有しておらず、激しい議論となった[6]

イギリス空軍のアーサー・ハリスは長距離機を爆撃機軍団に優先して配備し、ドイツ本土爆撃を推進していた。また、イギリス空軍自体も長距離機や水上機の開発に消極的で、沿岸軍団の主力偵察機は依然としてロッキード ハドソンであり、洋上航法技術も乏しかったことから偵察に出た機が味方船団を見つけることが出来ないことも珍しくなかった。アメリカからレンドリースされていたコンソリデーテッド リベレーターも保有していたが、イギリス航空省はこれらを長距離偵察機として使用出来ると考えず、多くは空輸軍団英語版に配備されていた。1942年11月に首相ウィンストン・チャーチルの主導でこれらが長距離偵察機として沿岸軍団に配備されることになった[6]

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

  1. ^ ジェレミー 2019, p. 173.
  2. ^ Burn 1993, pp. 20, 326–328.
  3. ^ ジェレミー 2019, p. 227.
  4. ^ ジェレミー 2019, p. 229.
  5. ^ ジェレミー 2019, p. 229-230.
  6. ^ a b ジェレミー 2019, p. 230-231.

参考文献 編集

  • デビット・メイソン『Uボート:海の狼あの船団を追え』寺井義守訳、サンケイ新聞出版局〈第二次世界大戦ブックス〉、1971年
  • バリー・ピット著『大西洋の戦い』高藤淳訳、タイム・ライフ・ブックス編集部編、タイム〈ライフ第二次世界大戦史〉、1979年
  • Karl Dönitz著 山中静三訳 『10年と20日間 ― デーニッツ回想録』 光和堂 1986年 ISBN 4875380739
  • Burn, Alan (1993). The Fighting Captain: Captain Frederic John Walker RN and the Battle of the Atlantic (Kindle 2006 ed.). Barnsley: Pen and Sword Books. ISBN 978-1-84415-439-5 
  • Arnold Hague,The Allied Convoy System 1939-1945:Its Organization,Defence and Operation,Anapolis:Naval Institute Press,2000
  • Herbert Werner著 鈴木主税訳 『鉄の棺 ― Uボート死闘の記録』 中央公論新社 2001年 ISBN 412003108X
  • 大内健二『輸送船入門:日英戦時輸送船ロジスティックスの戦い』光人社〈NF文庫〉、2003年
  • ジェレミー・ブラック 著、矢吹啓 訳『海戦の世界史-技術・資源・地政学からみる戦争と戦略』中央公論新社、2019年。ISBN 978-4120051937 

関連項目 編集

外部リンク 編集