トマス・クランマー

生涯編集

大司教ウィリアム・ウォーアム1532年に死去し、国王ヘンリー8世はその後継者を探し始めた。国王の右腕だったトマス・クロムウェルは当時ケンブリッジ大学の教授だったトマス・クランマーを就任させるべきだと進言し、その翌年クランマーはカンタベリー大司教に就任した。1548年に聖公会祈祷書を完成させた。キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚を承認した。ちなみに、『ユートピア』の著者として知られるトマス・モアは国王の離婚を痛烈に批判し、この時期に処刑されている。

次のエドワード6世もイングランド国教会を全面的に推奨した。エドワード6世の治世が始まると、クランマーは更に積極的に宗教改革を推し進めた。

ところがメアリー1世が即位すると、女王はイングランドをカトリックの国家にするという意思を表明、国教会の人々は苦境に立たされた。メアリーはプロテスタントを迫害し、女性子供を含む約300人を処刑したため、ブラッディ・マリー(血まみれマリー)と呼ばれた[1][2]。プロテスタントの教役者達は片っ端から逮捕され、クランマーもその例外ではなかった。最後までローマ・カトリックへの復帰を拒否したクランマーに対し女王は処刑命令を出し、1556年3月21日に彼はオックスフォードで火炙りにされた。処刑されたプロテスタントの殉教者の中には、ヒュー・ラティマーニコラス・リドリーらがいる。

脚注編集

  1. ^ ケアンズ『基督教全史』いのちのことば社
  2. ^ スコット・アンダーソン『殉教』ホームスクーリング・ビジョン

発表された主な論文編集

  • Book of Common Prayer (1549年)
  • Ten Article
  • Defense of the True and Catholic Doctrine of the Sacrament (1550年)
  • Forty-two Articles (1553年)

関連項目編集