ハドリアヌス
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プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス(古典ラテン語:Publius Aelius Trajanus Hadrianus プーブリウス・アエリウス・トライヤーヌス・ハドリアーヌス、76年1月24日 - 138年7月10日[1])は、第14代ローマ皇帝(在位:117年 - 138年)。ネルウァ=アントニヌス朝の第3代目皇帝。帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、トラヤヌス帝による帝国拡大路線を放棄し、現実的判断に基づく国境安定化路線へと転換した。
ハドリアヌス Hadrianus | |
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ローマ皇帝 | |
![]() ハドリアヌス胸像 | |
在位 | 117年8月11日 - 138年7月10日 |
全名 |
プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス Publius Aelius Trajanus Hadrianus |
出生 |
76年1月24日 ローマ (またヒスパニア・バエティカ属州、イタリカ) |
死去 |
138年7月10日(62歳没) バイアエ(ナポリ近郊) |
継承者 | アントニヌス・ピウス |
配偶者 | サビナ |
子女 |
ルキウス・アエリウス・カエサル(養子) アントニヌス・ピウス(養子) |
王朝 | ネルウァ=アントニヌス朝 |
父親 | プブリウス・アエリウス・ハドリアヌス・アフェル |
母親 | ドミティア・パウリナ |
治世・歴史的評価編集
皇帝即位からローマ還御まで編集
ハドリアヌスはローマで生まれた(原籍があるヒスパニア・バエティカのイタリカで生まれたとの説もある)。トラヤヌスの従兄弟の子である。
93年(または94年)、二十人委員の職に就き、民生関係の修行をした。ついで、パンノニア、モエシア・インフェリオル及びゲルマニア・スペリオル各属州で高級軍団将校を務める。その後101年、元首財務官に就任、トラヤヌスの秘書を務める。皇帝の演説を元老院で代読したのは、この時のことである。105年護民官に就任、ついで法務官(プラエトル)に任命された。その後、軍団司令官として第2次ダキア戦争に従軍、この戦争で実績を重ね、107年からは属州長官として下部パンノニアを治めた。この属州の長官のときの功績により、108年には数か月間、補充執政官を務めた。
114年から開始されたパルティア戦争では軍団の司令官に任命され、参謀本部内でトラヤヌスの補佐役として優れた手腕を発揮した。117年、トラヤヌスは、ハドリアヌスを属州シリアの総督に親任した。病を得たトラヤヌスは、ハドリアヌスをパルティア遠征軍の総司令官に親任し、ローマへ還御の途につく。しかし、トラヤヌスはキリキア地方のセリヌスで不帰の人となった。崩御の床でトラヤヌスはハドリアヌスを養子に勅定したが、これは皇后プロティナの支持があったからだといわれる。
8月9日、アンティオキア滞在中のハドリアヌスにトラヤヌスの養子となった旨の書簡が届く。その2日後、トラヤヌス崩御を報ずる書簡が届いた。このとき、ハドリアヌスは配下の軍隊から「インペラトル(皇帝)」と歓呼された。公式にはこの日が「即位の日」とされる。ハドリアヌスはセリヌスに行幸し、弔問したあと、再びシリアへ戻る。その際、東部国境の安定化のため、属州メソポタミアとアルメニアの放棄を勅定した。その処理が終わると、蛮族の侵入によって不穏な情勢にあったドナウ川流域に行幸し、属州ダキアと属州モエシアを再編成し、翌年7月、ようやくローマへ還御した。
ハドリアヌスの帝位継承については、元老院議員の一部から異論が出るおそれがあった。そのためであろう、かつてハドリアヌスの後見人であった腹心の近衛長官アッティアヌスは予防的措置として、「元老院の命令により」、執政官を経験した有力な元老院議員4名を殺害させた(ハドリアヌスの勅命であったとする研究者もいる)。
ハドリアヌスの業績編集
ハドリアヌスの治世において特筆すべき事柄は
- 属州メソポタミアとアルメニアの放棄による東部国境の安定化ならびに防壁建造などの帝国周辺地域における防衛策の整備
- ローマ帝国全体の統合強化と平準化
- 2度にわたる長期の巡察旅行
- 官僚制度の確立と行政制度の整備
- 法制度における改革
である。
トラヤヌスは、すでにダキアを属州化していた。パルティア戦争開始後、メソポタミア、アッシリア、アルメニアを属州とし、治世末期にはローマ帝国史上最大の版図を実現していた。しかし、東方の隣国であるパルティアとの紛争を収束させていなかった。このような状況に鑑み、ハドリアヌスは外交政策を攻勢から守勢に転換し、ユーフラテス川以東のメソポタミア、アッシリア、アルメニアを放棄して、東方の国境の安定化を図った。
ハドリアヌスは帝国の統一のためには平和が欠かせないことを充分認識しており、帝国の東部以外でも帝国の防衛力を整備した。軍事的脅威を受けている地方では、防壁(リメス)の構築あるいは天然の要害によって帝国を防衛することにした。なかでも、カレドニア人との紛争が続いていたブリタンニア北部に「ハドリアヌスの長城」として知られる防壁を構築した。ゲルマン人との境界のライン川やドナウ川地域、そのほか、アフリカでも防壁が構築されている。そして、皇帝自ら軍紀の徹底を図り、巡察旅行中も現場で兵士の訓練を親覧し、直接指示を出したりした。また、軍団に地元の兵士を採用することによって、軍団の徴募を安定化させ、経費の節約を図った。
パルティア問題を収拾させたあと、帝国内の諸問題に取り組む。まず属州に対する姿勢を変更した。属州の重要性を強調し、開発を推進すると同時にイタリアとの一体化に努力を傾注した。このため、ハドリアヌス自身、2度にわたって長期の巡察旅行に発輦した。この旅行の目的は、帝国防衛の再整備、帝国の行政の調整、統合の象徴としての皇帝の周知、帝国各地(とくにギリシア化していた地域)の巡察にあった。巡察旅行には建設関係者をも随伴していたといわれ、公共工事も行われた。
次に、ハドリアヌスは統治機構を整備した。彼の構築した官僚機構は以降の帝国の基礎となる。
ハドリアヌスは法制度の整備も推進する。サルウィウス・ユリアヌスに命じて、『永久告示録』と呼ばれる法典を編纂させた(完成は131年頃、6世紀まで使われた)。これは、法務官が出した従来の告示(属州総督や属州の審判人の法源)を集大成したものである。ユスティニアヌスの時代には、これらを基に『ユスティニアヌス法典』(別名『ローマ法大全』)が編纂された。
130年、エルサレム市をローマ風の都市に建設、自らの氏族名アエリウスにちなんで植民市「アエリア・カピトリーナ」と命名し、さらに132年には割礼を禁止した。そのため、ユダヤ人の大規模かつ組織的な反乱が発生した。バル・コクバの乱と呼ばれる。ハドリアヌスは他の属州からも軍団を動員し、135年にようやく反乱を鎮圧した。3年以上を要したことになる。この戦争の終結を機に、ユダヤ地方は「属州シリア・パレスティナ」と名称が変更され、この地からユダヤの名が消えた。ユダヤ人は離散(ディアスポラ)を余儀なくされ、以後、エルサレム市内への立ち入りも制限された。
皇帝と元老院との関係編集
ハドリアヌスはその治世を通じ、国内外において目覚しい成果を挙げた。しかし、元老院にはハドリアヌスの政策をよしとしない者がいたことも事実である。
まず、治世当初の執政官経験者4名の殺害はこれを反映している。ハドリアヌスは、防衛に必要な兵力や維持費等の負担増に耐え切れないと判断して、メソポタミア、アッシリア、アルメニアから撤退するという現実路線に切り換えた。ところが、当時の元老院には実際に戦場へ赴いて領土拡大に貢献した者もおり、ハドリアヌスの対外政策には批判的な者がいた。元老院の一部には、激しく反発するものもいたのであろう。これに対してハドリアヌス擁護派は、反対派の大物4人を粛清するという強硬策に訴えた。
治世末期の後継者選びの際にも、意見の不一致から義兄弟ユリウス・ウルスス・セルウィアヌスとその孫ペダニウス・フスクスを自殺に追いこんだ。そのため治世末期、皇帝と元老院の関係は緊張していた。しかし、いくつかのグループとの関係が緊張していたにすぎないと見る向きもある。
皇帝の崩御後、元老院では、ハドリアヌスを神格化し国家神の列の加えることに反対する動きがあった。神格化されないと、ドミティアヌス帝のように記憶の抹殺が行われ、ハドリアヌスの統治に関する行為はすべて抹消されることになる。後継者のアントニヌス帝は涙を流しながら必死に元老院の説得に努め、ハドリアヌス神格化について元老院の同意を得ることができた。このため、アントニヌスはアントニヌス・ピウス(敬虔なアントニヌス)と呼ばれることになった。
ローマ皇帝の業績を称える碑が多いローマにおいて、五賢帝の一人とされるハドリアヌスの巡幸を称える碑は見つかっていない。
その他編集
文化面では118年、ローマ近郊のティヴォリに大規模な別荘ウィラ・ハドリアヌスの造営を開始し、同時に後世の新古典主義建築に大きな影響を与えた、ローマに今日まで残るパンテオン神殿の再建に着手した[いつ?]。そのほか、ローマのウェヌスとローマ神殿など、ローマ、イタリア、属州各地においてきわめて多くの造営事業を行った。
私生活では、ビテュニアの美青年の愛人アンティノウス(アンティノオス)を寵愛し、属州アエギュプトゥス(エジプト)視察中にこの美青年がナイル川で事故死を遂げたあとは、彼を神格化して神殿を建設し、都市アンティノオポリスを創建したほか、帝国中にアンティノウス像を建てさせ、天空にアンティノウス座を作ったことが知られている。
もともと頑健であったが、晩年は体調不良に苦しみ、幾度か自殺を試みるも直前に家内奴隷に制止された。また、自分の後継者と決めていたルキウス・アエリウス・カエサルが138年1月に死去するという悲運もあったが、翌月にはアントニヌスを養子とし、自らの後継とした。138年7月、バイアエ (Baiae) の別荘において62歳で崩御した。
建築物編集
ローマ市内編集
- トラヤヌスの記念柱
- ウェヌスとローマ神殿
- パンテオンの再建
- アグリッパ橋の再建(アエリウス橋と改名)
属州地編集
- ハドリアヌスの城壁(ブリタニア)
- ウィラ・ハドリアヌス (ティヴォリ)
- アテネの建築群[2]
- レプティス・マグナの浴場[2]
最期の詩編集
ハドリアヌスは崩御に際して、以下の詩を残したと伝えられる[注釈 1]。
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家系図編集
マルキア | 大トラヤヌス | ネルウァ | ウルピア | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マルキアナ | トラヤヌス | ポンペイア | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハドリアヌス・ アフェル | 大パウリナ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フルギ | マティディア | サビニウス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルピリア・アンニア | アンニウス・ ウェルス | ルピリア | ウィビア・サビナ | ハドリアヌス | アンティノウス | 小パウリナ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ドミティア・ ルキッラ | アンニウス・ ウェルス | リボ | 大ファウスティナ | アントニヌス・ ピウス | ルキウス・ アエリウス | ユリア・パウリナ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大コルニフィキア | マルクス・ アウレリウス | 小ファウスティナ | アウレリア・ ファディラ | サリナトル | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小コルニフィキア | ファディッラ | コンモドゥス | ルキッラ | ルキウス・ウェルス | ケイオニア・ プラウティア | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンニア・ ファウスティナ | ユリア・マエサ | ユリア・ドムナ | セプティミウス・ セウェルス | セルウィリア・ ケイオニア | ゴルディアヌス1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ユリア・ソエミアス | ユリア・アウィタ | カラカラ | ゲタ | リキニウス・ バルブス | アントニア・ ゴルディアナ | ゴルディアヌス2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アウレリア・ ファウスティナ | ヘリオガバルス | アレクサンデル・ セウェルス | ゴルディアヌス3世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
逸話編集
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。 |
- 元首財務官時代、皇帝の演説を元老院で代読したとき、少しヒスパニア訛りがあったので揶揄されたといわれる。これはおそらく側近が地方出身者であったからであろう。そこで青年ハドリアヌスは練習を重ね、矯正したという。
- ハドリアヌスは大の浴場(テルマエ)好きであった。大浴場を訪れた際、老人が石鹸のついた背中を壁面で擦り落としているのを見たハドリアヌスは、老人が自分の指揮下にいた元百人隊長であることをすぐに思い出し、体を清める専門の奴隷すら雇えない経済状況に同情してその老人に料金の負担を申し出、奴隷と財産を贈った。後日、この噂を聞きつけたローマ中の老人がこぞって浴場の壁面に背中をこすり付けたという。その場に居合わせたハドリアヌスは、すぐに先日の老人を真似て財産を得ようとしていることに気づき、老人たちに互いに体を洗うよう命じたと言う。
- ハドリアヌスは詩に深い造詣があった。詩人フロルスがいつも地方巡察をしているハドリアヌスに対して皮肉を込めて詩を送ると、ハドリアヌスもパロディ風に同じ統辞構造を使った詩で返答した[注釈 2]。この応答に彼の詩才の一端を垣間見ることができる。
- 18世紀の歴史家エドワード・ギボンはハドリアヌスについて、「ハドリアヌスの情熱の元は『好奇心』と『虚栄心』から構成されており、対象によってハドリアヌスは優れた君主にも、滑稽なソフィストにも、また嫉妬深い暴君ともなった」と評している。
- ネロと同じく非常にギリシャへの傾倒が強く、その影響か男色家だった。当時のローマでは男色は嫌悪されることではなかったが、大っぴらにするようなものでもなかったため、公にされることはほとんどなかった。
伝記編集
- ステュワート・ペローン 『ローマ皇帝ハドリアヌス』 (暮田愛訳、前田耕作監修・解説、河出書房新社、2001年)
- マルグリット・ユルスナール 『ハドリアヌス帝の回想』 (多田智満子訳、白水社、新装版2008年) - 歴史小説
- レモン・シュヴァリエ、レミ・ポワニョ 『ハドリアヌス帝 - 文人皇帝の生涯とその時代』 (北野徹訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2010年)
- アントニー・エヴァリット 『ハドリアヌス - ローマの栄光と衰退』 (草皆伸子訳、白水社、2011年)
ハドリアヌスが登場する作品編集
脚注編集
注釈編集
出典編集
- ^ Hadrian Roman emperor Encyclopædia Britannica
- ^ a b http://www.livius.org/ha-hd/hadrian/hadrian.html
- ^ スパルティアヌス, pp. 51–52, ハドリアヌスの生涯16節.
参考文献編集
- 桜井万里子、本村凌二『世界の歴史 5 ギリシアとローマ』中央公論社、1997年10月。ISBN 978-4-12-403405-9。
- 桜井万里子、本村凌二 『世界の歴史 5 ギリシアとローマ』 中央公論新社〈中公文庫〉、2010年5月。ISBN 978-4-12-205312-0。
- アエリウス・スパルティアヌス 著、南川高志 訳『ローマ皇帝群像1』京都大学学術出版会、2004年1月。ISBN 4-87698-146-9。