ハンニバル

カルタゴの将軍
ハンニバル・バルカから転送)

ハンニバル・バルカ(Hannibal Barca, ポエニ語: 𐤇𐤍𐤁𐤏𐤋𐤟𐤁𐤓𐤒, 紀元前247年 - 紀元前183年/紀元前182年)は、カルタゴの名将。ハミルカル・バルカの長子。ハンニバルは「バアルの恵み」や「慈悲深きバアル」、「バアルは我が主」を意味すると考えられ、バルカとは「雷光」という意味である。ハンニバルは「バアルの恵み」や「慈悲深きバアル」、「バアルは我が主」を意味すると考えられ、バルカとは「雷光」という意味である[要出典]

ハンニバル・バルカ
Hannibal Barca
生誕 紀元前247年
カルタゴ
死没 紀元前183年
ビテュニア
指揮 カルタゴ軍最高司令官
戦闘 第二次ポエニ戦争
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第二次ポエニ戦争を開始した人物とされており、連戦連勝を重ねた戦歴から、カルタゴが滅びた後もローマ史上最強の敵として後世まで語り伝えられてきた。カンナエの戦いにおける包囲殲滅(せんめつ)は戦史上の金字塔として名高い[1]。2000年以上経た現在でも、各国の軍隊組織戦術家の能力を研究対象とし、参照するなど評価は非常に高い。

チュニジアで流通している5ディナール紙幣に肖像が使用されている。

生涯 編集

 
ハンニバルの行路(アメリカ合衆国陸軍士官学校戦史部Frank Martini作画)

少年期 編集

第一次ポエニ戦争シチリア共和政ローマに奪われると、ハンニバルの父ハミルカルは、当時未開の地であったイベリア半島植民地化政策に乗り出す。そして植民都市カルタゴ・ノウァを建設し、イベリア人部族をまとめて兵士を集め、軍隊を養成した。ティトゥス・リウィウスによると、父に同行を願い出た際、バアルの神殿に連れて行かれたハンニバルは、ローマを終生まで敵とする事を誓わされたという。父の死後、ハンニバルは義理の兄にあたるハシュドゥルバルのもとで少年期を過ごす。

 
地中海沿岸の版図(紀元前218年)【凡例】:赤=カルタゴ(中央)、イベリア半島の部族(左)。水色=ローマ。オレンジ=その他。★=主な戦場。

ハンニバル戦争 編集

アルプス越え 編集

 
アルプス山脈を越えるハンニバルの軍

紀元前221年に義兄ハシュドゥルバルが暗殺されると、ハンニバルはまだ26歳ながら軍に司令官として推され、カルタゴから承認を受ける。そしてイベリア半島戦線の指揮を執り、エブロ川南方の制圧に着手した。当時カルタゴはローマとエブロ川を境界として相互不可侵条約を結んでいたが、ローマはハンニバルの軍勢を恐れ侵入を阻止しようとエブロ川南方にある都市サグントゥム(現サグント)と同盟関係を結ぶ。しかし、ハンニバルはサグントゥムを包囲攻撃し、8か月後に陥落させた[注釈 1][要出典]。ローマはハンニバルの行動を条約違反としてカルタゴ政府に懲罰を要求したが、ハンニバルの絶大な人気の前に政府は何の手も打てなかった。

紀元前218年、ハンニバルはカルタゴ・ノウァを出発。はじめ軍勢にはカルタゴの伝統に従い多数の傭兵が含まれ、歩兵9万人にリビア兵6万とヒスパニア兵3万、騎兵1万2千はヌミディア兵主体で、戦象37頭を率いた[2][注釈 2]。ハンニバルはエブロ川を渡ったところで川岸とピレネー山脈を結ぶ戦線の守りに歩兵1万人と騎兵1千人を残し、また遠征に不安を訴えたヒスパニア兵は帰還させた。軍勢は歩兵5万と騎兵9千、戦象37頭に縮小、これを率いたハンニバルはピレネー山脈を越えガリアに入った。

ローマはハンニバルのガリア侵入に気付いたが、深い森林の中で敵勢の進路を見失った。ハンニバルはローヌ川を渡るにあたり、騎兵の先遣隊を上流から対岸のガリア人掃討に向かわせたが、危険な渡河で多くの犠牲を出し、歩兵・騎兵あわせて軍勢を4万6千まで減らし(損失およそ25%)、戦象30頭は温存したようである。この渡河の際、ローヌ川下流を巡回していたハンニバル側500騎は自分たちを探索中のローマ兵300騎と出くわして戦端を切った。索敵に当たったローマ執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオは敵の渡河から3日後に現地に駆けつけ、後塵を喫した。ハンニバルはすでにアルプス山脈に向かっていた。

このときのハンニバルのアルプス越えは、詳しいルートが分かっておらず、現在も歴史家[誰?]の間で意見が分かれている[要検証]。ともあれ、ハンニバルは山中のガリア人を驚かせる作戦を立てると、戦象を先頭にして行軍をはじめた。途中で遭遇するガリア人に「ローマ人は敵だ」と言いふくめ、だいたいは金品を握らせて懐柔した。雪が降るほどの寒さや疲労、狭い山道と崖など、行軍は困難をきわめたが、ハンニバル軍はアルプスを越えた。軍勢はイタリア到着の時点で、歩兵2万、騎兵6千にまで減っていた。ポリュビオスによれば、この数字はハンニバル自身の記録による[4][要検証]。この記録は現代の学者によっても踏襲される[5]

 
ハンニバルのアルプス越えのルート(紀元前218年ころ)【凡例】赤い線=1850年代の主な道路。青い線=ハンニバル軍の進路(推定)。
カルタゴ軍は画面左端のグルノーブル(近代の地名)からイゼレ川添いに山地へ分け入り、この推定図では尾根伝いに右のトリノ方面へ通った説を表す。右寄り三分の一に3500メートル級のモンスニ山が位置する。(「図6:モン・スニ峠の行程」[6]、1853年発行)

ついにハンニバルはイタリア半島へ進軍し、ローマ元老院を驚愕させる。第二次ポエニ戦争(別名ハンニバル戦争、紀元前218年 - 紀元前201年)の始まりであった。

トレビアの戦い 編集

 
トレビアの戦い。トレビア川を越えるローマ軍(紀元前218年12月)カルタゴ軍は青色。
 
トラシメヌス湖畔の戦いの陣形図(紀元前217年6月

ローマはハンニバルの攻勢を予測してはいたが、アルプス山脈を越えて侵攻してくるとはまったくの予想外であり、戦闘はイベリア半島平野部で構えようと備えていた。執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオはただちに敵軍の動きを阻止すべくローマ軍を出陣させるが、ティキヌスの戦いで敵軍に撃破され、スキピオ自身も負傷する。ローマ軍の敗北を見るや、周辺のガリア人部族はハンニバルに協力し始めた。ハンニバル軍は続くトレビアの戦いでも、もう一人の執政官ティベリウス・センプロニウス・ロングスを破る。

トラシメヌス湖畔の戦い 編集

こうして北イタリアに勢力基盤を築き上げると、ハンニバルはさらに版図を拡大すべく紀元前217年の春に南下を開始し、エトルリアに侵入する。これに対し、ローマ軍は新たな執政官グナエウス・セルウィリウスとガイウス・フラミニウスが再びハンニバルの進路を阻もうと進軍するが、トラシメヌス湖畔の戦いで敗北、執政官は両名とも戦死した。この勢いに乗じてローマの同盟都市に離反を促すため、南イタリアマグナ・グラエキア)へ向かったハンニバルは「戦勝を材料として同盟都市を離反させ、その上でローマを滅ぼす」戦略であった。一方で戦勝の勢いに乗り敵のローマ本軍とその捕虜には厳しく接し、他方、同盟都市の捕虜は丁重に遇して即時釈放し、ローマからの離反を促すメッセージを託すなど、工作を重ねていくのである。そうした戦いの中、不衛生な沼沢地の行軍などで疫病に感染し、ハンニバルは左目の視力を失った。

ここに至ってローマは非常事態宣言を発令し、クィントゥス・ファビウス・マクシムス独裁官に任命する。ファビウスはハンニバルと対峙しつつ直接の戦闘は避けるという方針で臨んだ。ハンニバルはアプーリア(現在のプーリア)を荒し回りカンパニアへ進軍したが、ファビウスはハンニバル軍に接近するものの、ハンニバルが戦いの火蓋を切ろうとすると退く戦法を繰り返す。

カンナエの戦い 編集

 
カンナエの戦いの[7](紀元前216年8月)ハンニバル側は青色。
 
ハンニバル軍のカプア侵攻(紀元前216年)。破線は進路、丸印はローマが治めてきた都市。炎のアイコンは焼き落とされた都市を示す。カプアはローマを離れてカルタゴ側についた。

紀元前216年、ローマの執政官にガイウス・テレンティウス・ウァッロルキウス・アエミリウス・パウッルスが当選した。このうち、ファビウスの戦法に不満を持つ前者ウァッロはハンニバルに対して果敢に立ち向かってゆく。ウァッロはローマ軍を増強し、同盟都市からも兵を募って、ハンニバルのいるアプーリアへ南進した。しかしハンニバルは相手の性急さを利用して決戦に持ち込み、史上有名なカンナエの戦いでローマ軍を完膚なきまでに叩き潰す。この戦いではローマ兵5万から7万人が戦死あるいは捕虜になったという。戦死者は執政官パウッルスと次期執政官内定者2名、さらに執政官補2人と高級将校48人にのぼり、ローマは一度の戦闘で指導者層の25%を失うという、過去に例のない完敗を喫した。これ以降、ローマはハンニバルに対して消極的な戦法に徹することになる。

勝利したカルタゴ側では余勢を駆って一気にローマを攻略すべきだという声があがり、特に騎兵隊長のマハルバルが強く進言したが、ハンニバルは攻城兵器兵站の不足という戦略上の理由から、首都ローマへの進軍を選択せずにローマ同盟都市の離反を図ると決定する。この時、マハルバルはハンニバルに対し「あなたは勝利を得ることができるが、それを活用することは知らない」と言ったという。

ハンニバルは紀元前216年にカプアを、紀元前212年タレントゥムをローマから離反させ、シチリア島のギリシア人都市にも反乱させるなど手柄を挙げたが、それらを除く目立った戦果をあげないまま、イタリア半島で一進一退の膠着状態にもつれこむ。上記の戦勝を背景にした工作にもローマと同盟都市の結束は崩れず、このことがハンニバルの戦略的誤算として祟っていく。シラクサヒエロニモスと同盟したハンニバルはカルタゴ本国に補給を要求したが、初めから日和見の立場を取り続けた政府は制海権をローマに握られており、ハンニバルは本国から有効な連携を引き出せなかった。

ローマ側の反撃、スキピオ登場 編集

ファビウスの消極戦法は効果を発揮し、ハンニバル軍は次第にカンパニア領内に封じ込められつつあった。これに対してハンニバルは紀元前215年アンティゴノス朝ピリッポス5世とも同盟を結び、ローマを内外から圧迫してゆく。

 
スキピオの胸像[疑問点]

だがローマはハンニバルをイタリア半島に封じ込めながら、国外の敵対勢力を各個に撃破・無力化して行く。紀元前211年プブリウス・スキピオはハンニバルの本拠地であるイベリア半島を攻略し、またギリシアのアエトリア同盟と結託してハンニバルの友軍ピリッポス5世の治める東方マケドニアの押さえとしている。

ハンニバルは紀元前210年アプリアに進撃するが、同年にタレントゥムを失った。また紀元前208年にはロクリに迫るローマ軍を蹴散らして執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスを戦死させるものの、タレントゥムの損失は大きく、補給のおぼつかなさに行動範囲に制限を受けてしまう。さらにローマにルカニア地方とサムニウム地方を抑えられると、ハンニバルは南イタリアにおける戦略的な主導権を覆されてしまう。

紀元前207年、ハンニバルは再度北上してアプリア地方を制圧、ここでイベリア半島から西進する弟・ハスドルバルの援軍を待ったが、弟はその途上、メタウルスの戦いで落命している。さらにハンニバルと行動を共にしていた弟・マゴリグリア攻略失敗、またピリッポス5世との連携の亀裂などによって、南イタリアでの主導権回復の術を失う。このようにローマはハンニバルの指揮下にない敵対勢力を徐々に削り取っていった。

ハンニバル軍がアプリア地方に封じ込まれる中、ヒスパニアで功績を挙げたスキピオがローマ軍を攻勢に転じようとしていた。占拠したシチリア島を拠点にスキピオは志願兵を募り養成していたが、カンナエの戦いの失敗から攻めに踏み切れない元老院は当初、スキピオに渡航許可を与えなかった。曲折を経てようやくその許可[注釈 3]が下りると、スキピオは軍勢とともにアフリカに渡航する。いきなりハンニバルを無視して本土に現れた敵にカルタゴ政府は驚き、ヌミディア王国のシュファクス率いる騎兵を援軍に頼んで迎え撃つが敗北した。

この敗戦に狼狽したカルタゴ政府は、態度を一変してローマとの休戦交渉とハンニバルの召還を画策、ところが裏で呼び戻しを工作していたと露見し休戦交渉は反故となった。ともあれ紀元前203年、ハンニバルは十数年ぶりに故国カルタゴに戻る事となった。

ザマの戦い 編集

 
ザマの戦いの図(紀元前202年10月)。カルタゴ軍は赤色。
 
『ザマの戦い』(コルネリス・コルト、1567年作、ハンテリアン美術館英語版収蔵)

スキピオは先の会戦でヌミディアシュファクスを追撃して王位から引きずり下ろし、ローマ側についていたマシニッサをヌミディア王に即位させていた。カルタゴ軍はそれまでヌミディア騎兵に依存してきたが、勢力図が変わるとローマに対する騎兵力の優位を失った。このような状況の中、ハンニバルはスキピオに直接交渉を打診し、紀元前202年10月19日、対峙する両軍の見守る前でハンニバルとスキピオは会見した。

ハンニバルはスキピオに対して、ローマとカルタゴは相互不可侵とし、地中海を境に北をローマ領、南をカルタゴ領とする休戦条件を提案する。しかしスキピオはこのたびの戦争はハンニバルのザグントゥム侵略が発端だと指摘、ローマ人はカルタゴ人を信用できないと拒否する。個人的には互いの才能を高く評価していた2人であったが、交渉は決裂した。

ザマの戦いはそれまでのハンニバルの戦いのパターンと異なり、歩兵で有利なカルタゴが騎兵ではローマ軍に劣るという状況であった。この劣勢を覆すためにハンニバルは先頭に戦象を配備した。敵に戦象がいると知ったスキピオは、軽装歩兵で編成した歩兵中隊を広い間隔で配置して直進しかできない戦象を回避させ、敵の先鋒の無力化に成功した。大集団の密集した重装歩兵を基幹とするカルタゴ軍は、後方から機動力に勝るローマ騎兵の攻撃を受け、また前面をローマ歩兵に封じられて大敗した。第二次ポエニ戦争はカルタゴの敗北に終わり、地中海での優位性を完全に失う。

戦後 編集

カルタゴ再建 編集

第二次ポエニ戦争後、ローマの同盟国になるよう強要されたカルタゴは膨大な賠償金を課せられて国の前途も危うくする。しかしそれまでカルタゴの政治を牛耳っていた貴族たちが権勢を失い、敗軍の将に返り咲きの道が開くと、ハンニバルは先頭に立って母国の経済建て直しを図る。

ハンニバルは行政の長であるスッフェトに選ばれ、改革の陣頭指揮を取る。まず名誉職に化していたスッフェトの立場を回復すると、自身に権限を集中させた。次いでカルタゴの行政母体である「104人委員会」の改革に着手する。直接選挙による議員任命制を整え、また民衆の支持を背景に議員の任期を終身から2年へと縮めた。これら行政改革は効果を挙げ、賠償金をすべて払ったハンニバルは軍人としてのみならず政治家としての手腕の高さも証明した。

シリアへ亡命 編集

続いてハンニバルは国力の回復を目指すが、不可能と思われた賠償金を払い遂げた事が、逆にマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスを始めとするローマ側の反カルタゴ派の危機感をあおってしまった。また早々に効果を挙げるためかなり強引な改革を進めており、自国内に台頭した反ハンニバル派からローマに「ハンニバルがシリア(セレウコス朝)と内通している」と讒言(ざんげん)されてしまう。ローマは事実関係の究明に調査団の派遣を決め、身の危険を感じたハンニバルはカルタゴを脱し、シリア王アンティオコス3世の許へ亡命する。

身を寄せたセレウコス朝では、王の軍事顧問として意見を具申し、シリアがローマとの戦争に突入した際にはシリア軍の参謀の一人としてローマと対峙したともされる。ところが戦場では若い指揮官や王に疎まれてハンニバルの意見は採用されず、エウリュメドン川の戦いでシリアのアポロニオス将軍と連携できなかっために敗北する。セレウコス朝自体もマグネシアの戦い(紀元前190年あるいは同189年開戦)で大敗を喫して、アンティオコス王は降伏を余儀なくされた。

確かにハンニバルはローマを滅亡の渕まで追い込むことに成功した。しかしローマは戦いのなかでハンニバルに苦しめられた包囲殲滅戦術を習い得ると強大な存在となっていき、マケドニア戦争やローマ・シリア戦争にも完勝する。

最期 編集

 
ハンニバル記念碑。アタチュルク(1881年 - 1938年)生誕100年に建立。(トルコ・現ゲブゼ郊外。北緯40度46分56秒 東経29度26分30秒 / 北緯40.782264度 東経29.441711度 / 40.782264; 29.441711

シリア戦後、ハンニバルはローマの追っ手から逃れようとクレタ島、さらに黒海沿岸のビテュニア王国へと落ち延びた。ハンニバルのビテュニア滞在を知りながらしばらくは静観したローマだが、元老院は使者としてティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスを送り、ビテュニア王プルシアス1世英語版にハンニバルの身柄の引渡しを迫った。これを察知したハンニバルは逃亡を企てたが果たせず自害した[8]奴隷に首を絞めさせたとも、毒薬を仰いだとも伝わっている[9]

なお、没年は紀元前183年紀元前182年とされるが、ハンニバルのかつての好敵手スキピオ・アフリカヌスもローマ元老院の弾劾を受けて政界を退き、ローマを離れた地で紀元前183年に没している[要出典]

死後の評価、エピソード等 編集

ローマ人の評価 編集

 
ハンニバルの主な戦跡[10]。【凡例】:緑の矢印=進路。赤いアイコン=主な戦場。

ハンニバルはローマ史上最強の敵としてローマ人の記憶に残った。ハンニバルにまつわる記述のほとんどは後世のローマ人によるものであるため、当然ながらローマの敵として彼の能力は高く評価されつつも、人間味のない恐るべき将軍として書かれている。多くの記録には決まり文句のように「彼は残虐きわまりなかった」と書かれており、ティトゥス・リウィウス、さらにキケロでさえもそのような表現を使っている。

後世のローマ人は彼を、偉大なるローマに立ち向かってきたが、実力を備えた強敵であり畏敬すべき相手として認めていたようで、このカルタゴ人の像を街の中心地に建立するというようなこともあった[要説明]

 
ハンニバルの紙幣(額面5チュニジア・ディナール、1990年代発行)

エピソード 編集

ザマの戦いから数年後、エフェソスに亡命していたハンニバルは、使節として同地を訪れたスキピオと再会し、しばし言葉を交わしたというエピソードがティトゥス・リウィウスによって伝えられている。スキピオが史上もっとも偉大な指揮官は誰かと問いかけると、ハンニバルは「第一にアレクサンドロス大王、第二にピュッロスエペイロス王)、そして第三に自分だ」と答えた。スキピオが重ねて「ザマの戦いであなたが私を破っていたら」と問うと、「アレクサンドロスを越えてわたしが史上第一の指揮官になっていた」と率直に答えたという[11]

とは言え、ハンニバルの用いた包囲殲滅戦術は現代の陸軍士官学校でも必ず教材として使われるほど完成度の高いものである[要出典]

またリウィウスの『ローマ史』によればハンニバルはこう語ったという。

いかなる超大国といえども、長期にわたって安泰であり続けることは出来ない。国外に敵を持たなくなっても、国内に敵を持つようになる。外からの敵は寄せ付けない頑健そのものの肉体でも、身体の内部の疾患に苦しまされることがあるのと似ている。

のちにローマではポエニ戦争の勝利に伴う社会構造の変化にうまく適応できず、内乱の一世紀と呼ばれる混乱の時代が訪れることとなる。

その他 編集

格言「戸口にハンニバルがいた」(ラテン語: Hannibal erat ad portas[12])には危険が迫っていたという意味がある[注釈 4]。ここから転じ、イタリアでは今でも子供がいたずらすると「ハンニバルが来てあなたを連れて行ってしまうよ」と叱る場合があり、いまだに恐怖の代名詞となっていることがうかがわれる。他方、ローマ人に制圧されてきた国では、自身がカルタゴの後裔であるか否かを問わず、ハンニバルを英雄として称えることがある[要出典]

登場作品 編集

小説
漫画
映画

参考文献 編集

主な執筆者順。

  • アメリカ合衆国陸軍士官学校「戦史資料23:カンナエの戦い01[リンク切れ]
  • 有坂 純『歴史を動かした7つの戦い』学習研究社〈学研M文庫 . 世界戦史 ; [1]〉、2000年。ISBN 4059010235NCID BA5071157X 
  • Ellis, Robert (1853). A Treatise on Hannibal's passage of the Alps, in which his route is traced over the Little Mount Cenis. ロンドン: 大英図書館. p. 6. Shelfmark: "British Library HMNTS 1307.k.14-001060405 
  • キケロー 著、小川正廣、根本英世、城江良和 訳「「カティリーナ弾劾:ピリッピカ 1.11」」『法廷・政治弁論』 3巻、岩波書店〈キケロー選集〉、1999年。 
  • 栗田 伸子、佐藤 育子『通商国家カルタゴ』講談社〈講談社学術文庫2387:興亡の世界史〉、2016年。ISBN 9784062923873NCID BB2223773X 
  • プルタルコス「ティトゥス・フラミウス20」『英雄伝』[疑問点]
  • Benton, William (1964). “Hannibal”. Halicarnassus to Hydroxylamine. Encyclopaedia Britannica. 11. ロンドン: Encyclopædia Britannica. pp. 65–67. OCLC 248498748 
  • ポリュビオス 著、城江良和 訳、内山勝利、大戸千之; 中務哲郎 ほか 編『歴史』 3巻、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2011年。ISBN 9784876981922NCID BA69767070 
    • 原題『Polybii historiae』(ドイツ語)、底本: Th. Büttner-Wobst. Polybii historiae. 全5巻(第1巻第2版)。ライプツィヒ:Bibliotheca Teubneriana、1889年-1905年。
  • リヴィウス, ティトゥス(Livius, Titus) Bloch, Raymond、Guittard, Charles、Nicolet-Croizat, Fabienne、Bayet, Jean、Baillet, Gaston、François, Paul、Hus, Alain、Adam, Richard、Adam, Anne-Marie、Jal, Paul、Gouillart, Christian、Achard, Guy、Mineo, Bernard.訳 (1940) (ラテン語、フランス語). Histoire romaine. Collection des universités de France (t. 35 ed.). Les Belles Lettres. ISBN 2251014365. NCID BA00814107  。別題『Ab urbe condita』『Abrégés des livres de l'Histoire romaine de Tite-Live』。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 攻略に8か月もかかったことから、ハンニバルは野戦は得意でも攻城戦は不得意だったという評価がある[要出典]。逆に、ハンニバルはわざと戦いを長引かせ、ローマ側から宣戦布告を引き出そうとした説では、計略にかかった敵に自ら不可侵条約を破らせ、エブロ川北岸への侵入の口実を狙ったという。
  2. ^ 兵力の数値はポリュビオス[3][要検証]リウィウス著作による。2人はそれぞれハンニバルのギリシャ語教師シレヌスの記録と、ローマの元老議員ファビウス・ピクトルの記したものを参考にしたが、どちらも現存しない[要出典]
  3. ^ 実際は元老院の黙認であり、スキピオへの援助・援軍は約束されなかった。
  4. ^ 読みは「ハンニバル・エラト・アド・ポルタース」。

出典 編集

  1. ^ 有坂 2000, 「3 カンナエ殲滅戦—ハンニバルが演出した包囲戦の金字塔」
  2. ^ 栗田、佐藤 2009, pp. 305–306
  3. ^ ポリビウス, p. §35, 『歴史』第3巻
  4. ^ ポリュビオス, pp. §56, 『歴史』第3巻
  5. ^ 栗田、佐藤 2009, p. 314
  6. ^ Ellis 1853, p. 6
  7. ^ 陸軍士官学校資料戦史資料23「カンナエの戦い01」より(部分)。
  8. ^ プルタルコス, pp. 「ティトゥス・フラミニウス20」, 『英雄伝』
  9. ^ リヴィウス 1940, 39.51
  10. ^ Benton 1964, "Hannibal", Encyclopaedia Britannica
  11. ^ プルタルコス, pp. 「ティトゥス・フラミニウス21」, 『英雄伝』
  12. ^ キケロー & 小川正廣、根本英世、城江良和 1999, pp. 1.11, 「カティリーナ弾劾:ピリッピカ」

関連資料 編集

発行年順。本文の典拠以外の資料。

  • J・P・V・D・ボールスドン 編『ローマ人 : 歴史・文化・社会』長谷川博隆 訳、岩波書店、1971年。国立国会図書館書誌ID:000001219971全国書誌番号:73011000doi:10.11501/12180005、国立国会図書館デジタルコレクション、遠隔複写可。Balsdon, John Percy Vyvian Dacre(1901-1977)
  • 長谷川博隆『ハンニバル : 地中海世界の覇権をかけて』清水書院〈センチュリーブックス. 人と歴史シリーズ ; 西洋 3〉、1973年。
    • 長谷川博隆『ハンニバル・地中海世界の覇権をかけて』東京 : 国立国会図書館(手製)、1996年、録音資料、カセット5巻。(原本:清水書院〈清水新書〉、1984年。)
    • 長谷川博隆『ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて』〈講談社学術文庫〉、 2005年、全国書誌番号:20849222ISBN 4-06-159720-5
    • 長谷川博隆『地中海世界の覇権をかけてハンニバル』清水書院〈新・人と歴史拡大版 ; 13〉新訂版、新訂版、2017年。
  • アラン・ロイド『カルタゴ 古代貿易大国の滅亡』木本彰子 訳、河出書房新社、1992年。全国書誌番号:83018807doi:10.11501/12185525、国立国会図書館デジタルコレクション、館内/図書館・個人送信限定。原題『Destroy Carthage』
    • 「カルタゴ関係年表・参考文献」261-267頁。
  • ネポス『叢書アレクサンドリア図書館第三巻 英雄伝』岡道男中務哲郎監修、国文社、1995年
  • 森本哲郎、ムハンマド・ファンタール、登誠一郎特別座談会「カルタゴの興亡と現代日本」『正論』通号305号、産経新聞社、1998年、184-147頁。CRID 1520573330820018176
  • コンベ=ファルヌー、ベルナール『ポエニ戦争』石川勝二 訳、白水社〈文庫文庫クセジュ〉、1999年。原題『Les Guerres Puniques』第3版。
  • 松谷健二『カルタゴ興亡史 ある国家の一生』白水社、1999年
  • ウルス=ミエダン、マドレーヌ『カルタゴ』高田邦彦 訳、白水社、1999年
  • テオドール・モムゼン『ローマの歴史』長谷川博隆 訳、東京大学出版会、2008年
    • 書評あり。高田 康成「あとはおぼろ:〈書評55〉テオドール・モムゼン/長谷川博隆訳『ローマの歴史』1-4」『UP』第37巻第10号、東京大学出版会、2008年10月、44-50頁。ISSN 0913-3291CRID crid/1520009407485518592 

関連項目 編集