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バディ・ホリー(Buddy Holly、1936年9月7日 - 1959年2月3日)本名チャールズ・ハーディン・ホリー(Charles Hardin Holley)は、アメリカのロック・ミュージシャン。1956年~1959年にかけザ・クリケッツを率い音楽活動を行う。代表曲「ザトル・ビー・ザ・デイ」「ペギー・スー」。1959年リッチー・ヴァレンス、ザ・ビック・ボッパーと共に搭乗した小型機の墜落事故により死去。テックスメックスと呼ばれる独特のサウンドと黒縁メガネのルックスは後世のロック・グループに強い影響を与えた。1986年ロックの殿堂入り。

バディ・ホリー
Buddy Holly
Buddy Holly cropped.JPG
バディ・ホリー(1957年)
基本情報
出生名 Charles Hardin Holley
別名 Buddy Holly
生誕 1936年9月7日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 テキサス州ラボック
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
死没 (1959-02-03) 1959年2月3日(22歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 アイオワ州グラント郡区
ジャンル ロックンロールロカビリー
職業 ミュージシャン
シンガーソングライター
ギタリスト
担当楽器 ボーカル
ギター
活動期間 1956年 - 1959年
レーベル デッカ・レコードブランズウィック・レコードコーラル・レコード
共同作業者 ザ・クリケッツザ・ピックスリッチー・ヴァレンス
著名使用楽器
フェンダー・ストラトキャスター
エルヴィス・プレスリー

来歴編集

しゃくりあげるような裏声を用いて独特のアクセントをかもすヒーカップ唱法や、現代のロックにも通じるギターサウンドや軽快なビートが特徴である。

愛用のギターフェンダー・ストラトキャスターで、アコースティックギターが全盛だった当時は新鮮であった。1960年代にデビューしたミュージシャンには、ホリーの影響でストラトキャスターを手にしたと語る者も少なくない。

ホリーのバンド、バディ・ホリー&ザ・クリケッツギター2本とベースドラムスバンドを編成し、後のバンドの基本的な形となった。当時はロックンロールでもいわゆるビッグバンドスタイルが主流だったが、金がない彼らは、巡業では4人のバンドメンバーだけで演奏することが多く、結果的にそのスタイルが定着した。最悪、バディとドラムのジェリー・アリソンだけで回ったこともある。

ホリーが表舞台で活躍した期間は1950年代末期から死去するまでの実質2年間あまりだったが、そのわずかな期間にもザ・ビートルズザ・ローリング・ストーンズサーチャーズホリーズを始めとする60年代のロックバンドに極めて多大な影響を与え、70年代以降のミュージシャンにも影響を見出すことができる。

活動後期にはヴォーカルのダブル・トラックストリングスの導入など、レコーディング・テクニックの可能性を追求し始めた。存命し続けていればさらなる音楽的発展が期待できたとも言われており、今尚その早すぎる死を惜しむ声は多い。

1986年に、ロックの殿堂入りを果たした。

イギリスのバンド、ホリーズのバンド名は、ホリーにちなむ。またビートルズはクリケッツのように2つの意味を持つ昆虫を考え、「Beatles」と綴り、発音からは昆虫を、スペルからはビートを想像させる名前を考えた。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第48位[1]

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第13位。

2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第80位。

生い立ち~初期のキャリア編集

1936年9月7日テキサス州ラボック[注釈 1] で4人兄弟の末っ子として生まれる。父ローレンス・オデル・ホリーは二人の祖父の名前からチャールズ・ハーディンと名付ける。「小さい子供に妙に長い名前なので私はバディと呼ぶことにしました。」(母エラ・ホリー)音楽を愛好する家庭環境の中で育ち、当時5歳のバディは二人の兄と共に地元の音楽コンテストに出場し賞をとる[注釈 2][2]。1949年(13歳)自宅にてワイヤー・レコーダー[注釈 3] を使用し最初の録音を行う[注釈 4]。1951年(15歳)ハッチンソン中学でボブ・モンゴメリーと出会い音楽活動をスタートする[2]

1953~1954年編集

バディ&ボブ編集

 
"My Two Timin' Woman"

1953年バディはジャック・ニール[注釈 5] と共に地元のラジオ局KDAVに売り込む。若い二人を局のオーナー、デイブ・ストーンとDJハイポケッツ・ダンカンは支持した。日曜午後の音楽番組「サンデー・パーティー」を持たせ、デモ録音の場所を提供した。1954年結婚のため音楽活動を停止したジャックに代わりに中学の同級生ボブ・モンゴメリーが新たなパートナーとなる [3]。プロモーターも兼ねるハイポケッツはラボックのダンスホール「コットン・クラブ」にマーティ・ロビンス、マーリン・ハスキー、ポーター・ワグナーなど人気カントリーミュージシャンを呼び、その前座としてバディ&ボブを起用。二人は少額のギャラなど気にもせず憧れのスターと同じステージに立つ喜びに満足した。ハイポケッツの回想。「あの子達は観客にアピールする事に非常に熱心でした。KDAVに来る子供達の中でもバディとボブは才能があり、特にバディは(プロミュージシャンとして成功し)外に出ていこうという決意に満ちていました。」この時期の編成はバディ&ボブ、ラリー・ウェルボーン(Bass)の三人。リード・ヴォーカルはボブがとった。自らの音楽を「ウェスタン&バップ」と呼び、名刺に記載した[2]

1955年編集

エルヴィス・プレスリー編集

バディに大きな転機が訪れる。6月3日ラボックのポンティアック・ディーラー新規オープン記念のショウにエルヴィス・プレスリー出演、その前座をバディ&ボブが務める。前年8月サン・レコードからのデビュー以来その激しいステージ・アクトで聴衆を熱狂させるエルヴィスの評判は中西部まで響いていた[4]。バディはエルヴィス・サウンドに強い衝撃を受け、ロックンロールに夢中になる。バディはエルヴィスと会話し「とても気さくで素敵な人」とハイポケッツに語っている[2]

クリケッツのドラム、ジェリー・アリソンの回想。「私が初めてバディを見たのは彼らがまだ中学生の時、バディ&ボブとのステージです。その後グループは編成にベースやスティールを加え大きくなる中でドラムの私やソニー・カーティス(Gt)もプレイに参加しました。ですがエルヴィスのステージを見たバディは元の3人編成に戻したためドラムの私は不要となりました。エルヴィスのバンドはドラム無しの3人でしたから。ところが再度エルヴィスがラボックに来たときドラムがいるじゃないですか!そうして私はまた彼らとプレイする事になったのです。」[2]

4曲のオリジナル編集

10月14日KDAVのプロモートによりラッボクのフェア・パーク・コロシアムにおいてロックンロール・ショウ開催。ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツをメインアクトとしジミー・ロジャース・スノウ(ハンク・スノウの息子)が出演、バディ&ボブが前座を務めた。このショウに随行していたナッシュビルのブッキング・エージェント、エディ・クランデルはソロ・アーティストとしてのバディ・ホリーに強い興味を持つ[注釈 6][注釈 7][2]

12月7日午前7時21分クランデルがKDAVオーナー、デイブ・ストーン宛に送った電報。

「バディ・ホリーのオリジナル4曲分のアセテート盤[注釈 8]を制作されたし。ただし彼本来の音楽スタイルであるものに限る。至急エアメール・スペシャルでの郵送願う[注釈 9]。」[2]

クランデルは出来上がったデモ・ディスクをナッシュビルの音楽出版社シダーウッド・ミュージックの経営者ジム・デニーに聞かせ、これにデッカ・レコードのポール・コーエンが食指を伸ばす。しかしデッカから来たオファーはバディ・ホリーのみでボブは含まれていなかった。二人にとって受け入れがたい内容だったがボブの説得により翌1956年1月バディ・ホリーはレコーディング・アーティストとしでデッカ・レコードと12か月、ソング・ライターとしてシダーウッド・ミュージックと3年間の契約を結ぶ。この時契約書に「Holley」を「Holly」とするスペル・ミスがあったがバディは委細気にすることなく以降「Holly」で通す[2]

1956年編集

ナッシュビルの大物たち編集

 
"Blue Days, Black Nights",

1月26日デッカ最初のセッション。場所はテネシー州ナッシュビル南16番通り[注釈 10]、ブラッドリーズ・バーン・スタジオ。エンジニア・ルームにはこのスタジオの所有者オウエン・ブラッドリー、通りの向かいに音楽出版社シダーウッド・ミュージックのオフィスを構えるジム・デニー[注釈 11]、デッカ・レコードのエグゼクティブ・チーフ、ポール・コーエン[注釈 12]ら業界の辣腕三人。ラリー・ウェルボーン、ジェリー・アリソンは在学中のため録音に参加できずソニー・カーティス(Gt)、ドン・ゲス(Bass)がバディと共にスタジオ入り。バディがヴォーカルに集中出来るようハウス・ギタリスト、グラディ・マーティンが呼ばれドラム不在のリズムセクションをリードした。デビューシングル「ブルーデイズ・ブラックナイト/ラブミー」を含む4曲を録音。ソニー・カーティスの回想。「バディの運転する新車のオールズモービルの屋根にドンのベースをくくりつけてナッシュビルまでの長旅でした。帰る時、私たちはほとんど一文無し。東テキサスでバディの叔母さんの家でようやくまともな食事にありついたのを覚えています。」[2]

ノ・ヴァ・ジャック・スタジオ編集

2月バディと仲間たちはラボックから100マイル、ニューメキシコ州クロービスを目指す。目的は東7番通り1313番ノーマン・ペティ所有ノ・ヴァ・ジャック・スタジオでのデモ録音。ペティはノーマン・ペティ・トリオとして「ムーン・インディゴ」「オールモスト・パラダイス」のヒット曲を持つピアニスト。元々自身の録音目的で建造されたプライベート・スタジオだったがその優れた設備は人口に膾炙するところとなり外部の人間にも開放されていた。スタジオの使用料は時間では無く1曲単位で定められた。4月までに7曲を録音。1年後このスタジオとノーマン・ペティはバディ・ホリーの音楽キャリアにおいて最も重要な拠点、パートナーとなる[2]

4月16日ファースト・シングル「ブルーデイズ・ブラックナイト/ラブミー」発売[5]。このシングルはチャート・インする事無く終わった(実売1万9千枚)。しかしバディはエージェント宛に手紙で「私たちのレコードはワシントンD.Cやミズーリ周辺で売れている、と言われました。」と書き送っている。ジェリー・アリソンとソニー・カーティスはナッシュビル二度目のセッションでジューク・ボックスの中に自分達のレコードを見たときの興奮を後々まで覚えている[2]

最悪の音楽、才能無し編集

7月22日2回目のセッション。ソニー、ドン、ジェリーのバディの仲間のみ4人で「ザトル・ビー・ザ・デイ」の初期バージョンを含む5曲を録音。セッションは開始前からつまづいた。現地でレンタルするはずのベースがスタジオに届かなかった。「ブラッドリーはこの後水上スキーに行く予定があったらしく、『20分だけ待つ』と言ってましたね。必死になってベースを調達しました。」「ザトル・ビー・ザ・デイ」はジョン・ウェイン主演映画「捜索者」の中で主人公が印象深く繰り返すセリフをモチーフにしたバディとジェリーの共同作曲[注釈 13]。「ブラッドリーは『今まで聞いた中で最悪の曲』と言ったみたいですね。[注釈 14]」(ジェリー・アリソン)「まあ私たちの演奏技術が至らなかったのは確かですがエンジニア・ルームの全員がこの曲は最悪だと思ったみたいです。でも子供が一人いてスタジオの掃除をしていたんです。私聞いたんですよ、『どの曲が一番良かった?』って。そうしたら彼は『ザトル・ビー・ザ・デイが好き』と答えました。『イエィ!君分ってるね!』」(ソニー・カーティス)このセッションからシングルはリリースされなかった。バディはブラッドリー、ジム・デニーと良好な人間関係を保っていたがポール・コーエンはバディの才能を疑っていた。コーエンはバディにこう告げている。「君は私が今まで仕事してきた中で最も才能が無い。」[2]

11月15日デッカ3度目のセッション。12月セカンド・シングル「モダン・ドン・ファン/ユー・アー・マイ・ワン・デザイアー」発売[5]。市場での反応は無く、翌1957年1月26日デッカはバディ・ホリーとの契約を打ち切る。

バディたちにとってデッカでの1年は苦い経験となった。元々排他的な性格を持つナッシュビルでさしたる人脈も無くラボック周辺でのキャリアしか持たない彼らは不利だった。「彼らは私たちとサウンドなどの打ち合わせをほとんどする事なくマイクのスイッチを入れました。彼らはロックンロール・ミュージシャンを必要としながらその制作の経験はありませんでした。ナッシュビルは基本的にカントリー音楽の専門ですからね。」(ソニー・カーティス)オーウエン・ブラッドリー後のインタビュー。「我々がロックン・ロールの扱いを知らなかった、と言いうのが正直なところ。私達はカンントリーを録るつもりだったがバディは何か違う方向に行ってる感じがした。後でブランズウィックの『ザトル・ビー・ザ・デイ』を聞いたが最初に(デッカ録音で)これをやってくれれば良かったのにね。ま、一種の事故みたいなものかな。」[2]

1957年編集

完璧なデモ録音編集

 
"That'll Be The Day"

2月バディ・ノックスの「パーティー・ドール」が全米NO.1ヒットとなっていた。この曲は1956年4月にノ・ヴァ・ジャック・スタジオで録音されN.Yのルーレット・レコードから発売されたもの。これに触発されたバディらは新たなレコード会社との契約をルーレットに定める。2月25日ノ・ヴァ・ジャック・スタジオで「アイム・ルッキング・フォー・サムワン・トゥ・ラブ」「ザトル・ビー・ザ・デイ」2曲のデモを録音。バディはデッカで録音しながらお蔵入りとなっていた「ザトル~」に絶対の自信を持っていた。この曲に新たなアレンジとバック・コーラスを加え録音。ラリー・ウェルボーンの回想。「『ザトル~』には本当に長い時間をかけました。バック・コーラスと一緒に何度となくテイクを重ねそれをバディとノーマン・ペティが繰り返し確認してました。」[2]

しかし「ザトル・ビー・ザ・デイ」のデモを聴いたルーレットは自社専属のバディ・ノックスやジミー・ブラウンと似たタイプのバディ・ホリーとの契約よりむしろ楽曲のほうに興味を示し、バディ・ノックスにこれらの曲を歌わせたいと考えた。当然ホリー側の希望とは折り合いがつかず交渉は流れた。見かねたノーマン・ペティはこれまでの人脈を使いバディらを援護する。まずコロンビアに打診するもミッチ・ミラーの回答は「No」。だがコーラル・レコードのボブ・シールは「ザトル・ビー・ザ・デイ」を聴きその完成度の高さに驚き正式の録音は行わずデモ・テープをそのままレコード化したい意思があると言う[6]

違約編集

3月19日コーラル・レコードと契約。「ザトル・ビー・ザ・デイ」のレコード化にあたって大きな障害があった。デッカとの契約内容に「契約期間中録音した曲は最低5年間他社で再録音する事は出来ない」という条項がありこれに抵触した。苦肉の策として別グループの名義で「ザトル~」を発売するというもの。新グループ命名にあたり百科事典から選んだ昆虫の名「クリケット(コオロギ)」を採用、ザ・クリケッツが誕生した[注釈 15]。最終的にソロ・アーティスト、バディ・ホリーをコーラルと、ザ・クリケッツをブランズウィックと別々に契約する変則的な形がとられた。奇しくもコーラル、ブランズウィック共にバディを一年で切り捨てたデッカの子会社であった。数か月後デッカは「ザトル~」のヒットを受けこれに気付くが看過している[2]

全米NO.1ヒット編集

5月27日「ザトル・ビー・ザ・デイ/アイム・ルッキング・フォー・サムワン・トゥ・ラブ」発売[5]。初動は悪かったが徐々に売り上げを伸ばし8月全米 No.1ヒット(R&B2位)を記録[7]。9月には100万枚を突破、ミリオンセラーとなる。

ペギー・スー編集

 
Peggy Sue

6月29日~7月1日「ペギー・スー」録音。「ペギー・スー」は元々「シンディー・ルー[注釈 16]」というタイトルのラテン・ビートを持ったスロー・テンポの曲だったが現場で大胆なアレンジが施された。「最初にチャ・チャのリズムを入れてみましたが上手くいきませんでした。ジェリー(アリソン)がバディに提案しました。『曲名をペギー・スー[注釈 17]に変えてみたら?』バディはジェリーに『パラディドル(ドラム・ルーディメンツの一つ)入れてみて。』これで曲が走り出しました。」(ニキ・サリヴァン)全体の音量バランス調整のためドラムセットをスタジオのロビーに移動、この音をペティはエコー・チャンバーを通したマイクで拾い、曲に合わせエコーの強弱を手動で操作した。マイキングが完了するとバディのギター・プレイに問題が起きた。「私はバディと一緒にリズム・ギターを弾いていたのですが彼のギターがリズムからソロにチェンジする時、ギターのスイッチ切り替えのタイミングがどうしてもあいません。仕方がないので私達が演奏中のバディのギターのスイッチを切り替えました。[注釈 18]」(ニキ・サリヴァン)「私は2、3日間録音を続ける彼らが疲れているのを知っていたので皆に休むように言いました。しかしバディは『もう少し続けさせて下さい。私は眠くありません。』私が『O.K』と返事したのが朝の5時半、そう確か9時半頃には完全なマスターが出来上がっていました。」(ノーマン・ペティ)完成した「ペギー・スー」のB面には「今までと違う少し変わった感じの可愛い曲を」と言うメンバー達のリクエストで「エブリデイ」が選ばれた。「『エブリデイ』には時間がかかりました。私はセレステを演奏する事になりスタジオとエンジニア・ルームを行ったり来たりでした。」(ノーマン・ペティ)ドラムのジェリー・アリソンは即興で膝を叩いている[2]

人種のはざまで編集

アポロ・シアター出演 8月2日バディ&クリケッツにとって最初の大規模なツアーがスタート。80日間のスケジュールの中にアポロ劇場での一週間が含まれていた(8月16日~22日)。1934年の開場以来黒人エンターテインメント最高のステイタスとされるこの劇場に白人の出演記録は無い。しかし同名の黒人コーラス・グループ「ザ・クリケッツ」[注釈 19]と混同したプロモーターが誤って「白いクリケッツ」をブッキング、かくてバディ&クリケッツは白人による最初のアポロ出演として名を残すことになった[2]

9月ツアー一行116人を乗せる2台のバスはメイソン・ディクソン・ラインを越え北部から南部に入った。アトランタを経由しニューオリンズに入る国境線でバスはパトカーに呼び止められる。「警官は『ニューオリンズの州法により白人と黒人が同じステージに立つことは出来ない。』と言います。そして2台のバスは96人の黒人と20人の白人に振り分けられ、街に着くと別々のホテルに宿泊させられました。私達はステージに上がる事は出来ず予定外の休暇となりました。」(ニキ・サリヴァン)[2]

9月27~28日「メイビー・ベイビー」録音。ノーマン・ペティは録音の機会を待っていた。コーラル、ブランズウィックの2社からそれぞれ1枚づつLPレコードをリリースするため最低でも必要な20曲を揃えるための新録音が求められていたからだ。ノーマン・ペティの回想。「私のトリオ(ノーマン・ペティ・トリオ)はサウンドトラック制作のためオクラホマ・シティに滞在していました。ツアー中のバディと連絡を取ると二日間の休暇があると言います(上記ニューオリンズでのトラブルを指す)。それならばと私は彼らと合流しスタジオ、オフィサーズ・クラブを一晩借り録音しました。その後ニューメキシコでバック・コーラスとエコーを加えマスターを完成させました。」「ザトル・ビー・ザ・デイ」のヒット以降スタジオ録音はツアーやTV出演のスケジュールの合間を縫うようにして行われるようになる[2]

  • 11月「ペギー・スー」2位(R&B2位)、同月「オー・ボーイ!」10位、2曲のトップ10を叩き出す。
  • 11月27日LP「ザ・チャーピング・クリケッツ」リリース。
  • 12月1日「エド・サリヴァン・ショー」出演。
  • 12月 ニキ・サリヴァン、過酷なツアーを理由にクリケッツ脱退。[3]

1958年編集

  • 1月25日 ボブ・シール、バディとノーマン・ペティに「ペギー・スー」のゴールド・ディスクを進呈。
  • 1月30日~2月4日 ハワイ~オーストラリア6日間のツアー。
  • 2月 イングランド・ツアー。25日間で50回のステージ。
  • 2月20日LP「バディ・ホリー」発売。[3]

ボビー・ダーリン編集

 
Bobby Darin 1959

6月ブランズウィックから1枚のシングルがリリースされた。ザ・ディン・ドンズの「アーリー・イン・ザ・モーニング」。ディン・ドンズはアトランティック傘下アトコ・レーベル所属のボビー・ダーリンの変名。以前録音しながら未発売となっている自信作「スプリッシュ・スプラッシュ」のリリースを待たずにアトコとの契約満了を目前としたダーリンは次への保険の意味で変名を使いブランズウィックに「アーリー~」を録音したのだ。これに気付いたアトコはブランズウィックに対しオリジナルマスターの譲渡を要求、翌7月「リンキー・ディングス」名でアトコから発売するという。どちらかと言えば非はブランズウィック側にあるのだがこれに同じデッカ傘下のコーラルが反応した。自社で制作したマスターをみすみす他社に奪われた挙句ヒットされるのを指をくわえて見ている手は無い、と[8]。プロモーションのためN.Yを訪れていたノーマン・ペティとバディにオリジナルの「アーリー~」を聞かせ録音の同意を取ると翌日にはレコーディングの手配を完了、それはスタジオ、プロデューサー、アレンジ、バック・コーラスに至るまでダーリン版「アーリー~」と全く同一の環境というもの。バディらとの交渉から48時間もたたずに録音された2曲は2週間後の7月5日にはレコード・ショップの店頭に並んでいた。2枚の「アーリー・イン・ザ・モーニング」は市場で対決、バディ最高32位、ダーリン24位とダーリン盤に軍配が上がった。図らずもボビー・ダーリンを巡る2社のつばぜり合いが生んだN.Y録音であった[2]

ラブ・ロマンス編集

「アーリー・イン・ザ・モーニング」の録音を見学する一人の女性がいた。ブロードウェイの音楽出版社ピア・サザン・ミュージックの受付嬢 マリア・エレナ・サンティアゴ 。叔母プロヴィ・ガルシアは同社ラテンアメリカ音楽部門エグゼクティヴ。彼女は前日バラの花束と共にバデイ・ホリーからプロポーズを受けたばかりだった。二人の出会いは1957年8月(「ザトル・ビー・ザ・デイ」がNo.1ヒットになった時)バディがピア・サザンを訪問した時。8月15日ラボックのバディの自宅で挙式。ノーマン・ペティは女性ファンの動揺を考慮し二人の結婚を公表せず表向きマリアをクリケッツの秘書と紹介した[2]

最後のセッション編集

10月21日ピディアン・テンプル・スタジオ[注釈 20]においてバディ・ホリー唯一となる弦樂団との共演によるステレオ録音が行われた。最後のシングル「イット・ダズント・マター・エニーモア」を含む4曲を録音、生前最後の公式録音となった。ディック・ジェイコブス[注釈 21]の回想。「夕方6時半頃バディが私のオフィスに来ました。9時に始まるセッションの編曲は出来上がっていたのですが彼は『ポール・アンカから素晴らしい曲をもらいました。今夜録音します。』と。急遽その「イット・ダズント・マター・エニーモア」という曲に取り組んだのですが私が出来た事と言えば簡単なストリングスのパートとユニゾンのピチカートのアレンジぐらい。ちょっとしたハプニングでしたが最高のレコードが出来ました。」録音に立ち会ったノーマン・ペティはこう語る。「私は最初彼らがステレオで録音している事に気付きませんでした。彼らは4トラックのミキシングボードに全てのソースをモノラル入力していたのですがステージから離れた部屋で3トラックのマシンを使いステレオのミックスをしていました。」[2]

マネー・ゲーム編集

ミュージシャンとしての成功、そして結婚。順風と思われたバディの周辺が急にざわつき始める。マリアはクリケッツのツアーに同行しメンバーの身の回りの世話をしながらコンサートの収益を集計した。しばらくするとマリアと叔母ガルシアはある事に気付く。コーラル、ブランズウィックから支払われるバディ&クリケッツのロイヤリティ(著作権使用料)をノーマン・ペティが自分の会社の口座に引き入れているらしい、と。それを知らされたバディはエヴァリー・ブラザースから紹介された弁護士ハロルド・オレンスタインを雇いペティと結んでいたマネージャー、プロデューサーとしての契約の解消とロイヤリティ回収に動く[3]

時を同じくしてもう一つの金銭トラブルが発生する。バディはN.Yのプロモーター、マニー・グリーンフィールドと「メデイア出演やコンサートを斡旋した場合その収益の5%を斡旋料として支払う」旨の約束を口頭で交わしていた。実際ディック・クラーク・ショーやイギリス・ツアーをブッキングしたグリーンフィールドに対しバディは約束通りの金額を支払ったがグリーンフィールドは「ブッカーとしてだけではなくマネージメントも行った」と主張、さらなる支払いを要求し訴訟を起こす。ニューヨーク法によれば「訴訟はニューヨーク州から州外に向けられたものであるため問題が解決するまで資産を凍結する」とした。これによりバディは必死に稼いだカネをどうする事も出来なくなった[3]

バディとノーマン・ペティの決別に対しクリケッツのメンバーが選んだ道はペティについていく事だった。バディを成功まで導いたペティ、アマチュア時代から苦楽を共にしてきたクリケッツの仲間たち。永遠に続くと思われた絆は脆くも崩れ去った。このトラブルに突き動かされるようにバディは最後のツアーへと向かう。

アパートメント・テープ編集

12月5日自宅録音開始。結婚を機に移り住んだグリニッチビレッジのアパートで作曲のアイデアやデモを新しく手に入れたギター[注釈 22]を弾きながらレコーダーに吹き込んだ。ノーマン・ペティの回想。「バディは自宅で録音するためのテープ・レコーダーを欲しがっていました。私が最新の機器を薦めると「いや、私が欲しいのは『ペギー・スー』を録音した、オクラホマ・シティで使ったのと同じもの。[注釈 23]」と言うので私はその時使用したポータブル・レコーダーを彼に譲りました。」以下マリア談「バディはよく私に新しい曲の感想を聞きました。曲が出来ると私と二人でピアノがある私の叔母のアパートへ行き曲が正しく聞こえるかどうかの確認をしました。私の名前「マリア・エレナ」を曲名にしてもらいバディにスペイン語を教えながら一緒に歌った事がありますがその時のテープはもうどこかへ行ってしまったでしょう。」これらの音源はバディの死後ノーマン・ペティの手によりバッキングを加えたオーバーダビング処理がなされ「ペギー・スー・ゴット・マリッド」「ラブ・イズ・ストレンジ」などがシングル化された[2]

1959年編集

冬のダンスパーティー編集

最後のツアーとなる「ウィンター・ダンス・パーティー」の直前、レストラン「ブライアー・ハウス」でバディー・ホリー、ディック・ジェイコブス、デッカとコーラルの副社長を兼任するマーティ・ソルキンの三者による今後の音楽的方向性についての話し合いが持たれた。ジェイコブスの回想。「非常に満足する内容でした。ソルキンは『それが優れた音楽である限り変更の必要は無い。』と言いました。バディはこれから始まるツアーを楽しみにしていましたが彼と会ったのはその時が最後となってしまいました・・・。」

 
バディ・ホリーの墓
 
事故現場に作られたファンによるモニュメント

眼鏡スーツという出で立ちは、一般の大人しい若者を中心に受け入れられたが、1959年2月3日未明、アイオワ州クリアレイクでのツアー後搭乗したメイソンシティ空港ミネソタ州ムーアヘッド行きのチャーター機(ビーチクラフト ボナンザ35機体記号N3794N)が、吹雪のために方向を失ってアイオワ州セロ・ゴード郡グラント郡区トウモロコシ畑に墜落し、パイロットとホリー、同乗していたリッチー・ヴァレンスザ・ビッグ・ボッパーの4人全員が死亡した。ホリーは22歳、ヴァレンスは17歳、ビッグ・ボッパーは28歳で没した。このツアーの終了後、クリケッツと活動を再開する予定となっていたが、果たされなかった。3人のロックンローラーが一度に死に、ファンに衝撃を与えたこの日は、後に「音楽が死んだ日」と呼ばれるようになった。妻のマリアは当時ホリーの子供を妊娠していたが、程なくして流産した。ポール・アンカが書き贈った「イット・ダズント・マター・エニモア」が事実上の遺作となった。

墓石には、愛用したストラトキャスターの形が刻まれている。

ホリーは死の直前に6曲のデモテイクを録音しており、死後にクリケッツによってオーバーダビングが行われた「クライング、ウェイティング、ホーピング/ペギー・スーの結婚」がリリースされている。

ディスコグラフィー編集

エピソード編集

  • ドン・マクリーンは、ホリーとヴァレンス、ビッグ・ボッパーが死亡した飛行機事故を題材に8分30秒の大作『アメリカン・パイ』を作った(後に、マドンナがカバー)。この曲内で繰り返される「音楽が死んだ日」というフレーズが、後に、そのままこの飛行機事故を指す語となっている。
  • ジョージ・ルーカス監督の映画『アメリカン・グラフィティ』の中に、「バディ・ホリーが死んでロックンロールは終わった」というセリフがある。
  • ミック・ジャガーは、「レコードジャケットの写真を見るまでバディ・ホリーは黒人だと思っていた」「バディほど独創的な人はいない。ロックンロールの真の天才」と語っている。
  • キース・リチャーズは、「バディは何でも自分でやってしまうし、バンドとしても凄かった。そんな事ができたのはバディが最初だよ。本当の天才だ」と語っている。
  • ポール・マッカートニーは、「3コード、バンド、立って楽器を弾くスタイル、ビートルズはクリケッツの真似から始まった」と語っている。また、ポールはホリーの版権を所有している。
  • ビートルズの前身バンド、クオリーメン結成後初めてのレコーディング(1957年)で前述の「ザットル・ビー・ザ・デイ」を採り上げるなど、アマチュア時代には、ホリーの楽曲を多くレパートリーにしていたのに、公式にカバーしたのが1曲のみ(「ワーズ・オブ・ラヴ」)というのは、「ホリーの曲は特別好きなものだから、彼に敬意を表するためにあえてカヴァーしないようにする」という取り決めがあったから、という説がある。プレスリーの楽曲も、同様の理由で公式カバーされていないのだと思われる。なお、両者ともBBCラジオ番組では度々カヴァーしており、『ザ・ビートルズ・ライヴ!! アット・ザ・BBC』で聴くことができる。
  • ジョン・レノンは青年時代、眼鏡をかけることに強い抵抗感を持っていたが、ホリーが「眼鏡をかけたロックンローラー」として堂々と振舞っていたのを見て、人前で眼鏡をかける事を恥と思わなくなったという。
  • 1989年からロンドンでバディ物語のミュージカル『Buddy -The BUDDY HOLLY Story-』が長期公開され、劇場を変え、休憩期間を挟みながら、現在も公演されている。ロンドン以外にアメリカとドイツ、スウェーデン、オーストラリア、メキシコ、南アフリカ、カナダでも公演され、1997年には陣内孝則が主演で日本でも公演された。
  • ホリーの大ファンの一人であったロリー・ギャラガーは、ホリーが使っていたという理由でストラトキャスターを購入し、以後生涯そのギターを使い続けた。
  • ウィーザーのボーカルであるリヴァース・クオモは、ホリーのファンで、「バディ・ホリー英語版」というタイトルの曲まで作っている。この曲は全米で大ヒットし、2010年の「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500」において499位にランクインした。

モチーフ&パロディ編集

出典編集

  1. ^ Rolling Stone. “100 Greatest Singers: Buddy Holly”. 2013年5月26日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 「THE BUDDY HOLLY STORY」John Beecher/Malcolm Jones共著1979年MCA原盤 LP
  3. ^ a b c d e JACK HODJIN BOOKS「The True King Buddy Holly」2017年
  4. ^ Elvis Presley & Buddy Holly …Contrasts and Comparisons
  5. ^ a b c d 45cat.com Buddy Holly - Discography
  6. ^ Buddy Holly and the Crickets
  7. ^ a b musicvf.com/ Buddy Holly Top Songs
  8. ^ Discovermusic.jp/バディ・ホリー VS ボビー・ダーリン「Early In The Morning」

注釈編集

  1. ^ 採油、酪農を主産業とする
  2. ^ 「Down the River Of Memories」を歌唱、賞金5ドルを得る
  3. ^ テープ・レコーダーの前身。ワイヤーに帯磁させ録音・再生を行う原理はテープと同じ
  4. ^ 1948年Hank Snowデビュー曲 「My Two-Timin 'Woman」
  5. ^ Jack Neal (1934~2015) 1949年当時13歳のBuddyと出会う。1953年Buddy & Jackのコンビを組みKDAV「サンデー・パーティ」への出演、アセテート盤の制作を行う
  6. ^ この時期のステージではバディが一人でパフォーマンスする事があった
  7. ^ (翌15日同ステージにエルヴィス・プレスリー出演、バディ&ボブが前座
  8. ^ 一般に市販されるビニールレコードと素材が異なりアルミニウムの円盤にニトロセルロースラッカーをコーティングしたもの。プロユースの録音、放送での使用を目的とする。
  9. ^ このアセテート盤は現在所在不明。タイトルも分っていいない。
  10. ^ この地区は通称ミュージック・ロウと呼ばれナッシュビル音楽関係の主要なレーベル、出版社、スタジオが集中する
  11. ^ Jim Denny(1911~1963)1946年WSMの局長に就任。1951年グランンド・オル・オープリーのゼネラルマネジャーに。1954年ウェッブ・ピアスと共同で音楽出版社シダー・ウッド・ミュージック設立。1966年演奏者以外の人物として最初のカントリー・ミュージックの殿堂入り。
  12. ^ Paul Cohen (1908~1970)シカゴ生まれ。1920年代後半コロンビアの元でレコード・ビジネスに参入。1934年デッカ・レコードの設立に伴い入社、1935年シンシナティへ移住、デッカ中西部支店長に就任。1958年デッカ退社後自身のレーベルToddを立ち上げ、1964年Kappのカントリー部門責任者に。1970年死去。葬儀の際ミュージック・ロウは故人の追悼のため封鎖された。
  13. ^ 作曲者にノーマン・ペティも名を連ねるが原文に基づいた。ペティのこの作曲に対する関与は懐疑的な意見が多い。
  14. ^ ジェリー・アリソンは後のインタビューで「その時は誰がブラッドリーで誰がコーエンなのか分りませんでした。」と答えている。表現が曖昧なのはそのため。
  15. ^ 人々をハッピーにさせる音を奏でる、という意味が込められていた
  16. ^ Cindy Louは ホリーの姪の名前
  17. ^ Peggy Sue Gerron(1940~2018)は当時のジェリー・アリソンのガールフレンド。後二人は結婚する。
  18. ^ エレクトリック・ギターに複数のピック・アップがマウントされる場合、リズム/ソロの切り替えスイッチがボディ・トップに搭載される
  19. ^ Dean Barlow & the Crickets 1953年MGMから「Milk and Gin」でデビュー、同年Jay-Deeへ移籍。1954年Beaconリリース「Be Faithful」がヒット。1955年メイン・ヴォーカルDean Barlowがソロに転向。
  20. ^ ピディアン・テンプルは1927年友愛団体「ナイツ・オブ・ピティアス」の集会場所としてN.Yに建造されたビルディング。1941年からデッカがスタジオとして所有。広いフロアと高い天井を持つ講堂をスタジオに改造したため反響の強いライブな環境を特徴とした。
  21. ^ Dick Jacobs(1928~1988)バンドリーダー、作曲家、アレンジャー、A&Rマン。1950代から60年代にかけ主にデッカ系列の録音に携わった。「Main Title」「Molly-O」 (共に1956年)のヒット曲を持つ。 Buddy Hollyの他 Jackie Wilson 、Bobby Darin の録音をサポート。 この日(10月21日)自己のオーケストラを率いプロデュース、編曲を担当した。
  22. ^ ギブソン社製アコースティック・ギターJ-200
  23. ^ 1957年9月オクラホマで録音されたのは「メイビー・ベイビー」のためペティの記憶違いと思われるが原文をそのまま引用した
  24. ^ 煩雑を避ける為「Buddy Holly」「The Crickets」名義を区別せず記載した。4曲入りEP、再発盤、1970年以降のシングルは割愛。バディの死後Coral、Libertyからリリースされた(バディ不在の)クリケッツのシングルは除外した。

外部リンク編集