ポール・マッカートニー

ジェイムズ・ポール・マッカートニーSir James Paul McCartney, CH, MBE, Hon RAM, FRCM1942年6月18日 - )はイギリスミュージシャンシンガーソングライターマルチプレイヤー。 ファーストネームはジェイムズだが父のファーストネームも同じジェイムズであるためか、ミドルネームであるポールを主に用いている[注釈 1]。 『ギネス世界記録』に「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として掲載[注釈 2]1960年代にはロックバンドザ・ビートルズのメンバーとして、ジョン・レノンと共に多くの楽曲を作詞作曲し、ヴォーカルと演奏を担当した(レノン=マッカートニーを参照)。ビートルズ解散後はウイングス(ポール・マッカートニー&ウイングス)のメンバーまたはソロ・ミュージシャンとして活動。左利き(サウスポー)。ベジタリアン。デビューから半世紀以上が過ぎた現在も第一線で活躍を続けている。弟はマイク・マクギア(マイク・マッカートニー)で、ミュージシャンである。

ポール・マッカートニー
Sir Paul McCartney
CH, MBE, Hon RAM, FRCM
Paul McCartney black and white 2010.jpg
ポール・マッカートニー(2010年)
基本情報
出生名 James Paul McCartney
生誕 (1942-06-18) 1942年6月18日(76歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド マージーサイド州リヴァプール
学歴 Liverpool Institute
ジャンル ロック
ポップミュージック
ロックンロール
ブギー
レゲエ
職業 ミュージシャン
ボーカリスト
ベーシスト
ギタリスト
ピアニスト
シンガーソングライター
作詞家
作曲家
編曲家
音楽プロデューサー
映画プロデューサー
実業家
担当楽器 ボーカル
ベース
ギター
ドラムス
パーカッション
ピアノ
キーボード
シンセサイザー
ブルースハープ
ウクレレ
シタール
マンドリン
バンジョー
フリューゲルホルン
トランペット
フルート
サックス
活動期間 1957年 -
レーベル ヒア・ミュージック(2007年 - 2017年)
アップル・レコード(1968年 - 1975年、以降単発リリース有)
パーロフォン(1962年 - 1968年、1975年 - 2007年・イギリス)
キャピトル・レコード(1964年 - 1968年、1975年 - 1978年、1985年 - 2007年、2017年 -・アメリカ)
CBS/コロムビア・レコード(1979年 - 1984年・アメリカ)
ユニバーサルミュージック(2007年 - ・日本)
東芝音楽工業→東芝EMI (1964年 - 2007年・日本)
※上記はビートルズ、ウイングス時代も含む
共同作業者 クオリーメン
ザ・ビートルズ
ビリー・プレストン
リンダ・マッカートニー
ウイングス
ジョージ・マーティン
マイケル・ジャクソン
スティービー・ワンダー
エルヴィス・コステロ
カニエ・ウェスト
リアーナ
公式サイト www.paulmccartney.com
著名使用楽器
ヘフナー・500/1
リッケンバッカー・4001S
エピフォン・テキサン
ギブソン・レスポール
エピフォン・カジノ
マーティン・D-28
ウォル・5ストリングベース
エルヴィス・プレスリー
バディ・ホリー
リトル・リチャード
ジェームス・ジェマーソンなど

目次

人物編集

ロック界で特に有名なポピュラーミュージシャンシンガーソングライターの1人。「ラヴ・ミー・ドゥ」「イエスタデイ」「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」など、ザ・ビートルズの代表作とされる楽曲を数多く作詞・作曲している。解散後の1970年代にはウイングスのリーダーとして「ジェット」「愛しのヘレン」「ハイハイハイ」「ジュニアズ・ファーム」「メアリーの子羊」「アイルランドに平和を」などのすぐれた楽曲を発表した。1980年代以降はソロとして活動し、全米チャート第1位に9曲、トップ20に20曲以上がランクインしている。2000年代以降も作品を発表し続け、近年ではクラシック音楽も手がけている。

ビートルズ時代から現在に至るまで、バンドでは主にベース(レコーディングではギターキーボードも)を演奏しているが、近年はコンサートでもギターを演奏しギタリストとしての一面を見せる事も増えている。彼のメロディアスなベースラインは評価が高く、後のロックバンドにも多大な影響を与えたと言われる。他にもシンセサイザーキーボードドラムスウクレレフラットマンドリン、またトランペットサックスなどといった管楽器をも扱うマルチプレイヤーである[注釈 3]。「タックスマン」「涙の乗車券」などビートルズ時代のいくつかの曲でリード・ギターを担当し、また「バック・イン・ザ・USSR」「ディア・プルーデンス」「ジョンとヨーコのバラード」などでドラムを叩いている。ソロ・アルバム『マッカートニー』や『裏庭の混沌と創造』ではすべての楽器を一人で演奏(マルチレコーディング)している。

作曲技法ではクラシック音楽、ベースではモータウンのジェームス・ジェマーソン、ボーカル・スタイルでは「リトル・リチャード」の影響が強い。ロック・ナンバーを歌いこなすほか、バラードにおける甘い歌声や、唸りを効かせた歌唱法など、多彩なボーカルを聴かせる。ビートルズのメンバーでは最も高い声域を持ち、コーラスの一人多重録音も盛んに行っている。信条は環境保護、動物愛護、平和主義、差別反対。ポールの差別反対が顕著に出ているのが、「ゲット・バック」の変更以前の最初の歌詞である。ポールは、英国保守党内閣の元大臣で差別主義者の、イノック・パウエルによる差別的な「血の川」演説に反発していた。最初のバージョンは、人種差別を告発し、米国と英国の移民に対する態度を批判していた。「プエルトリコ人はアメリカにいらない」。 「パキスタン人、仕事を奪ってはいけない」などの歌詞が含まれていた。元のタイトルは "(Don't Dig) No Pakistanis"[1](「パキスタン人は要らない」)だったが、レコード会社の懸念と、歌詞が逆の意味に誤解される危険性があったので、発表されたヴァージョンに変更された。

顕彰編集

1965年MBE勲章(大英帝国第五級勲位、1997年に英国のナイト爵位を授与され、1999年にはロックの殿堂入り。2010年ガーシュウィン賞を受賞。同年、フランスのレジオンドヌール勲章オフィシエを受章。2013年のグラミー賞では『バンド・オン・ザ・ラン』が殿堂賞、第56回グラミー賞でリンゴ・スターとともに特別功労賞、2018年にウルフ賞芸術部門受賞、同年5月にはコンパニオンズ・オブ・オナー勲章英語版を授与される[2]。顕彰多数。

経歴編集

幼少期〜青年期編集

1942年6月18日(木)にリヴァプールで誕生する。労働者階級出身。父はセールスマンや工場勤務で働く一方、”アマチュアのジャズ・ミュージシャン”で腕はセミプロ級でもあった。母方の祖父はアイルランド系で、父方の曽祖父もやはりアイルランド系だった。ビートルズではポール、ジョン、ジョージの三人にアイルランドの血が入っている。

1956年に母のメアリー(1909~56)が乳癌で死去。この年、処女作「アイ・ロスト・マイ・リトル・ガール」を作曲する。同曲は後に1991年発売のライブ・アルバム公式海賊盤』に収録される。ポールとジョンはいずれも母が亡くなっており、この点でもお互い共感するものがあったと言われている。

名門リヴァプール・インスティチュート在学中の1957年7月6日、共通の友人の紹介でジョン・レノンと出会う。10月18日にジョンのバンド、ザ・クオリーメンに加入する[3]

ザ・ビートルズ時代編集

西ドイツハンブルクなどのクラブでの演奏で多数のライブを経験する。歓楽街のハンブルグではアルコール、ロックンロール、女性、ドラッグなどの日々だった。スチュアート・サトクリフピート・ベストの脱退など何度かのメンバーチェンジを経た後、ジョン、ジョージ・ハリスンリンゴ・スターとの4人で1962年、「ザ・ビートルズ」としてパーロフォンよりレコードデビューする。

1966年6月にビートルズとして訪日し、熱狂的に迎えられて日本武道館にて公演を行った[4]。公演が実施される前には正力松太郎の「ベートルスとかペートルスとかいう連中」発言や、細川隆元、小汀利得や街宣車などの反対があったが、コンサートは無事に開かれた。ビートルズが公演を行ったことから日本武道館は「日本音楽界の聖地」とも呼ばれる場合もある。

恋人の写真家リンダ・イーストマンが妊娠したため、1969年3月12日に結婚する。以降、リンダはポールを公私共に支え続けたが、1998年に癌のため56歳で死去した。娘のステラ・マッカートニーは、ファッション・デザイナーになっている。

ビートルズ解散前後編集

1970年4月10日(金)にポールはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』にてビートルズからの脱退を発表し(厳密には、後述のソロアルバム『マッカートニー』販促用に用意した「ポールとの一問一答」という資料の中に「ソロキャリアのスタート」「今後ビートルズのメンバーと作曲することはない」というポールの発言があるのをデイリー・ミラー紙がすっぱ抜いたもの)ビートルズは事実上解散となる。その1週間後の4月17日、騒動の最中に彼は初のオリジナル・アルバム『マッカートニー』を発売する。脱退の反響が巻き起こした宣伝効果は大きく、アルバムは好調な売れ行きを見せ、アメリカの「ビルボード」誌で第1位を獲得し、「キャッシュボックス」誌でも第1位を獲得した。ジョン・レノンからは「グループの脱退宣言をアルバムの宣伝に利用した」として非難され、当時の音楽メディアやロック・ファンからは酷評する声も少なくなかった。目立つ曲は「メイビー・アイム・アメイズト」だけである。

1971年に発表されたシングル『アナザー・デイ』およびアルバム『ラム』にも『マッカートニー』の作風は受け継がれる。妻リンダとの連名で発表した『ラム』は前作同様にヒットし、イギリスでは第1位、「ビルボード」誌では最高第2位を獲得し、トップ10内に24週間もランクされるロング・セラーとなったが、評論家からは手厳しい批評を受けた。アラン・クレインにまつわる訴訟問題などで、険悪な関係に陥っていたビートルズの元メンバーの『ラム』への評価もきびしかった。このアルバムからアメリカ限定でシングル・カットされた「アンクル・アルバート〜ハルセイ提督」は、1972年度のグラミー賞で最優秀アレンジメント賞を獲得した。

ウイングス時代編集

1971年、新たなバンド、ウイングスを結成する。

 
ウイングスのコンサートで演奏するマッカートニー(1976年

1980年代編集

1980年は元ビートルズのメンバーにとっても、ファンにとっても最悪な年になった。1980年1月16日ポールが日本で薬物禍を起こし、12月にはジョン・レノンが死亡した。1月のウイングス日本公演は全て中止となった。グループとしての活動が休止状態に陥ったウイングスは、翌1981年4月のデニー・レインの脱退表明により自然消滅していく。イギリスに送還されたマッカートニーは、ソロ・アーティストとしての活動を9年ぶりに再開。10年ぶりとなるソロ名義のアルバム『マッカートニーII』と先行シングル「カミング・アップ」で成功を収めた。ジョン・レノンはこの頃、休止していた音楽活動を再開させつつあった。

米国東部時間・1980年12月8日(月)23時頃、レノンがニューヨークの自宅アパート、「ダコタ・ハウス」の前でマーク・チャップマンによって拳銃で射殺される衝撃的な事件が発生する。ビートルズの黄金時代を共に築いたパートナーであったレノンの死にマッカートニーは大きな衝撃を受け、数か月間、自宅に引き篭もって過ごした。翌年、音楽活動を再開させたマッカートニーは、プロデューサーのジョージ・マーティンの進言で腕利きのスタジオ・ミュージシャンを起用し、カール・パーキンススティーヴィー・ワンダーなどとのデュエットも行った。82年には「エボニー・アンド・アイヴォリー」とアルバム『タッグ・オブ・ウォー』を発表。同年、マイケル・ジャクソンと『ガール・イズ・マイン』でデュエットした。マイケルとはポールのアルバム『パイプス・オブ・ピース』でも「セイ・セイ・セイ」でデュエットしている。この曲も全米、全英で1位を獲得した。ポールは70年から83年までに3回ほど音楽的スランプに陥っている。70~71年、76~77年、80~83年の時期である。これらはいずれも音楽的な不調であって、曲の方は逆に大ヒットしていた。1980年代にマッカートニーはマイケル・ジャクソンエリック・スチュワートエルヴィス・コステロなど、さまざまな有名ミュージシャンと共演している。

1984年には、久しぶりにポールらしさの出た佳曲「ノー・モア・ロンリー・ナイツ」を発表した。さらに自らが脚本・音楽を手がけ、主演した初の映画作品『ヤァ! ブロード・ストリート』を制作・公開し、ビートルズナンバーも収録されたサントラ盤が成功を収めた。だが、対照的に映画の内容は酷評され、興行的にも失敗に終わっている。

1985年の映画『スパイ・ライク・アス』の主題歌『スパイズ・ライク・アス』は、全米トップ10ヒットであった。1985年7月13日にアフリカ難民救済を目的として行われた、20世紀最大のチャリティー・コンサート「ライヴエイド」(LIVE AID)では、イギリス・ステージのトリを飾った。

1980年代中盤にはヒュー・パジャムフィル・ラモーンなどの有名なプロデューサーを起用して音楽活動を行うが、1986年の『プレス・トゥ・プレイ』はチャート順位・売上共に不振に終わり、評論家からの評判も芳しくなかった。続いて発売される予定であったアルバム(通称「ザ・ロスト・ペパーランド・アルバム」)は完成を目前にして頓挫してしまう。この頃を境に以前のような大きなヒット曲には恵まれなくなる。1987年にジョージ・ハリスンが久々にビルボード1位を獲得していた。音楽活動低迷していたマッカートニーだったが、1989年発表の『フラワーズ・イン・ザ・ダート』はエルビス・コステロとの共作の話題性も手伝って久々のヒットを記録した(全世界で250万枚以上の)セールス。一方で少年時代に慣れ親しんだロックンロールのスタンダード・ナンバーを歌った初のカヴァー集を制作し、1988年ソ連限定で発表した。マッカートニー夫妻は『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の発売後、アルバムに参加したスタジオ・ミュージシャン4人とともに10年ぶりの本格的なコンサート活動を開始する。

1989年から翌年にかけてワールド・ツアーを行う。のちに『ゲット・バック・ツアー』と称されたこのワールド・ツアーでは、彼が長年演奏を躊躇していたビートルズ時代の作品がセットリストの約半分を占めた。

1990年3月に24年ぶりの日本公演が実現。ツアー終盤、1990年4月21日ブラジルリオデジャネイロマラカナン・スタジアム公演では18万人以上の観客を集め、有料コンサートの観客動員数の世界最高記録を更新した。このツアーでの演奏はライヴ盤『ポール・マッカートニー・ライブ!!』として発売され、映像は映画『ゲット・バック』として公開された。

1990年代編集

1991年初頭にはMTVアンプラグドの収録を行い、それが後に『公式海賊盤』としてリリースされる。マッカートニーはポピュラー音楽以外のジャンルにも挑戦し、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の創立150周年を記念した初のクラシック作品『リヴァプール・オラトリオ』を上演する。アメリカ人作曲家カール・デイヴィスとの共作で、ヴォーカリストにキリ・テ・カナワとアメリカのテノール歌手ジェリー・ハドレーを迎えたこの作品は、同名のライヴ盤もリリースされた。これ以降、現在に至るまで彼はロックやポップスと並行して数作のクラシック作品を発表している。

1993年にアルバム『オフ・ザ・グラウンド』を発表したマッカートニーは、『アンプラグド』と同じラインナップのバックバンドを率いてコンサート・ツアーを行う。『ニュー・ワールド・ツアー』と題されたこのツアーは、前回のツアーで訪れることのできなかった地域を中心にコンサートが行われ、公演の模様はライヴ盤とビデオで発売された。なお、当初はスケジュールに組み込まれていなかった日本公演も93年秋に行っている。

1994年、ビートルズの歴史を振り返るドキュメンタリー作品および未発表音源集を発表する『ザ・ビートルズ・アンソロジー』プロジェクトが本格的に始動した。とりわけ注目されたのが「25年ぶりの新曲発表」と大々的に報道された新録音である。ジョン・レノンが1970年代後半に録音したデモテープに、他の3人のメンバーの演奏を重ねて完成させるというこの企画は、1980年代後半にハリスンをカムバックに導いたことでも知られるエレクトリック・ライト・オーケストラジェフ・リンの協力を経て、最終的に「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」として結実した。

1995年、リンを共同プロデューサーに迎えてアルバムを制作し、1997年に『フレイミング・パイ』としてリリースする。この作品は全米と全英のチャート両方で高順位を記録しただけでなく、翌年の第40回グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされるなどその内容も賞賛された。1998年に長年連れ添った妻リンダが乳癌で亡くなると、マッカートニーは彼を支え続けた愛妻の死を悼んで2作のクラシック作品を捧げ、さらに彼女が生前に提案していたロックン・ロールの傑作カヴァー集『ラン・デヴィル・ラン』を発売した。

2000年代編集

 
ザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ』直筆サイン入りドラムヘッド.

2001年ウイングス時代の軌跡を振り返るドキュメンタリー作品『ウイングスパン』を発表。2枚組の同名ベスト盤も同時発売され、アメリカでは100万セットを売り上げてプラチナ・ディスクに認定された。同年の秋にはリンダが亡くなって以来初のオリジナル・アルバム『ドライヴィング・レイン』も発表している。

9月11日のアメリカ同時多発テロ事件による世界貿易センターの崩壊で亡くなった消防士の追悼とチャリティを目的に、10月20日、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにて『 ザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ』がポールの提唱によって開かれた。ポールの呼びかけに応じ、 デヴィッド・ボウイミック・ジャガーキース・リチャーズエルトン・ジョンボン・ジョヴィ)等々、多数のミュージシャンが参加した。

2002年、アメリカで9年ぶりにコンサート・ツアーを行う。この公演を収めたライヴ盤『バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002』はアメリカでミリオン・セラーを記録した。同年11月には、3度目のソロでの来日公演が行われた。2003年にはロシアモスクワにある「赤の広場」でコンサートを開いて話題となった。このコンサートはロシアにとっても初めての外国人のアーティストの大規模なコンサートになった。ロシアはそれまで西洋や外国のロック音楽を受け入れていなかったが、このコンサートがモスクワで大成功を収め、ポールは史上初めてロシアで成功したロック・ミュージシャンとなった。

2004年の第56回のエミー賞で、10万人を集めたロシア公演の2時間のドキュメンタリー番組『イン・レッド・スクエア』が、「マルチカメラ編集賞(ミニシリーズ、映画、特別番組)」を受賞した。2005年には「ライブ・イン・ザ・U.S.2005」としてアメリカツアーを行い、その中のカリフォルニア州アナハイムでのコンサートでは史上初の試みとして、アメリカのNASAを通じて地球から約220マイル上空の宇宙飛行士へライブを生中継した。この時のナンバーはイングリシュ・ティとビートルズナンバーのグッド・デイ・サンシャインだった。

 
LIVE 8でのポール・マッカートニー

また、2005年7月に世界中で同時に行われた、チャリティー・コンサートであるLIVE 8(ライブ エイト)にも参加した。 2003年から2005年春までの長期間に渡り、マッカートニーはレディオヘッドの作品などで知られるナイジェル・ゴッドリッチをプロデューサーに迎えてアルバムを制作する。2005年の秋に『裏庭の混沌と創造』として発表されたこのアルバムは2006年第48回グラミー賞に3部門でノミネートされ、アルバムに先がけてシングル・カットされた「ファイン・ライン」も、同賞のソング・オブ・ザ・イヤーの候補に挙がった。また、2007年第49回グラミー賞に最優秀男性ポップボーカル賞に「ジェニー・レン」がノミネートされた。

 
ポール・マッカートニー(2009年)

2007年、長年契約していたEMIから、新興レーベル『ヒア・ミュージック』に電撃移籍。日本での発売元も東芝EMIからユニバーサルに変わった。2007年6月、移籍第1弾アルバム『追憶の彼方に〜メモリー・オールモスト・フル』を発表。このアルバムでも2008年の第50回グラミー賞に3部門でノミネートされると共に、全米では1982年の『タッグ・オブ・ウォー』以来となるオリジナルアルバムでのプラチナ・ディスクに認定された。

2008年ブリット・アワードにて特別功労賞を受賞。5月、米エール大学から名誉音楽博士号を授与される。

2010年代編集

2010年9月22日、ポール・マッカートニーとコンピューター大手HPは、マッカートニーの作品をクラウド型のデジタル・ライブラリー化する計画を発表。HP社はマッカートニーのプロダクション会社、マッカートニー・プロダクション・リミテッドと共同で、インターネット上で公開しながら、デジタル・ライブラリーを保護することが可能な最新システムを構築する。HP社によると、ファンは、マッカートニーのライブラリーの一部を「個人的に」視聴することができるという。計画の詳細はマッカートニーのウェブサイト「paulmccartney.com」でも公開されている。

 
バラク・オバマ大統領から賞を贈られたポール

アメリカでポピュラー音楽で世界の文化に大きな影響を与えた作曲家・演奏家に贈られるガーシュウィン賞を受賞。授賞式では、バラク・オバマ大統領から直々に賞を贈られた。 2012年2月、ダイアナ・クラールらを迎えて制作した、ジャズのスタンダード・ナンバーのカヴァー集『キス・オン・ザ・ボトム』をリリース。このアルバムは第55回グラミー賞で最優秀トラディショナル・ポップ・ボーカル・アルバム賞を受賞した[5]。2月9日には個人としてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を獲得[6]。6月4日、エリザベス2世の英国女王即位60周年祝賀の『クイーンズ・ダイヤモンド・ジュビリー・コンサート英語版2012』に参加し、コンサートのトリを飾った。7月27日、ロンドンオリンピックの開幕式で、会場を埋めつくした観衆とともに「ヘイ・ジュード」を熱唱。
2012年12月12日には、ハリケーン・サンディの被災地を支援する121212コンサートでニルヴァーナデイヴ・グロールクリス・ノヴォセリックらと共演した。

2013年10月、オリジナル作品としては5年ぶりとなる新作アルバム『ニュー』を発表。全英・全米では3位、日本では2位(デイリーチャートでは1位)とヒットし、ゴールドディスク(10万枚販売)にも認定された。11月には11年ぶりとなる日本公演を大阪、福岡、東京で行い、26万人を動員した。

2014年5月17日、前年に引き続き日本公演が東京と大阪で予定されていたが、ウイルス感染による体調不良で中止となり緊急帰国する。1975、1980年に続く3度目の公演中止となった。日本公演直後に予定されていた初の韓国公演も中止となり、6月の米国公演は10月以降に延期となった。7月5日、ニューヨーク・オールバニ公演よりツアーを再開。約3時間で40曲を熱唱した[7]

2015年1月、リアーナカニエ・ウェストと共演した『フォー・ファイブ・セカンズ英語版』が24年ぶりの全米トップ10ヒットを記録。4月には日本公演が京セラドーム大阪、東京ドームで計4回、追加公演として1966年のビートルズ以来49年ぶりとなる日本武道館での公演が行われた。日本武道館でのライヴは同年7月と10月に日本でTV放送された。

2016年8月17日、キャピトル・レコードとの再契約を発表し、同レーベルへの復帰第1弾となる新作アルバムの制作中であるとも報道される[8]。2016年12月31日、NHKの『第67回NHK紅白歌合戦』にビデオ出演し、「2017年に日本に行きます!」(I'm coming to Japan in 2017. See you there!)と発言。「ONE ON ONE JAPAN TOUR 2017」と題し、2017年4月25日(火)の日本武道館と、4月27日・29日・30日の東京ドーム公演を行った[9]

2017年1月18日、マイケル・ジャクソンが1985年に購入した多くのビートルズの楽曲の著作権を保有している世界最大の音楽出版会社『SONY/ATV』に対し、ビートルズの楽曲の著作権の返還を求めて米ニューヨーク・連邦裁判所に提訴する。SONY側は「提訴は不必要で残念」と述べた。

環境保護活動編集

菜食主義者であり、環境保護活動家としても精力的に活動している。同じく菜食主義者だった最初の妻リンダの娘ステラ、2番目の妻ヘザー・ミルズと共にPETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)の会員でもある。

  • 2000年3月29日、キツネ狩りの廃止が議論されているイギリスに対して『臭いの跡を追う猟』という代替案を提案した[10]
  • 2005年11月28日、PETAが作成した中華人民共和国でのの処分を見た際、妻ヘザー・ミルズと共に(日本など、かなりの国で動物の処分は実施されているが)「私は中国では演奏しない。2008年の北京オリンピックを無視する。中国製品は不買しよう」と人々に呼びかけた[11]
  • 2006年3月2日、カナダアザラシ猟に対する反対活動の最中、ポールとヘザーはカメラの前でアザラシの子供を抱き抱えた。この行為はカナダの海洋哺乳類侵害罪に抵触していたが、責任は問われなかった[12]

日本公演実現とファンの努力編集

ポールはビートルズの解散後にソロミュージシャンとして6度訪日し、ツアーを行っている。だが、ウイングスとして活動していた1970年代に彼の日本公演が実現することはなかった。初の日本公演は1975年に予定されていたが、法務省がマッカートニー夫妻の72年のスウェーデンなどでの薬物所持歴などを理由として、訪日直前にビザを無効とし中止になる。

ポールは入国管理局のブラック・リストに掲載され、日本への入国は不可能になる。しかしビートルズ・シネ・クラブが1989年春にポールの入国許可を求める署名活動を全国的に実施し、ポールの世界的な文化貢献の認知度を考慮して日本入国の特別許可を法務省が下したため、10年後、ビートルズの来日公演から数えると約24年ぶりとなる(1990年3月)に日本公演が行われた。

1993年11月にはワールド・ツアーの一環として再び訪日し、東京ドームで3公演、福岡ドームで2公演を行った。

2002年11月、9年ぶりとなる来日公演を行い、東京ドーム3公演、大阪ドーム2公演を行った。

2013年11月に11年ぶりに訪日し、京セラドーム大阪で2公演、福岡ヤフオクドームで1公演(福岡公演は20年ぶり)、東京ドームで3公演を行った[13]。MCでは積極的に日本語を使い、大阪弁、九州弁によるトークも披露した。アンコールでは「福島被災者に捧げたい」と前置きし「イエスタデイ」を披露した[14]。これは海外のツアーでも必ず行っているパフォーマンスである。なお、これによりポールが東京ドーム公演を行った史上最年長アーティストとなった。

2014年5月に訪日し、東京国立競技場・日本武道館と大阪ヤンマースタジアム長居で開催予定だったが、後述の急病を受け全公演が中止となった。産経新聞の報道によれば、腸捻転により緊急手術を受けていたとも言われる。日本ツアー直後に行われる予定であった初の韓国ソウルソウルオリンピック主競技場公演も中止となった。

2015年4月、中止となった前年の“リベンジ公演”として大阪と東京で改めて日本公演を4回行った[15]

2017年4月、日本武道館で1公演(追加公演)、東京ドームで3公演を行った[16]

日本公演日程編集

  • (中止)1975年11月19 - 21日 日本武道館
  • (中止)Wings Japan Tour 1980:1980年1月21 - 24日・31日 - 2月2日 日本武道館、1月25日・26日 愛知県体育館、1月28日 フェスティバルホール 29日大阪府立体育館
    • 全て中止。
  • Get Back Tour In Japan:1990年3月3日、5日、7日、9日、11日、13日 東京ドーム
    • この公演は当初、3月2日、3日、5日、6日、8日、9日、11日の計7公演が予定されていたが、2月初旬に行ったアメリカツアーで体調不良となり、公演直前に「公演日の日程を1日置きにしてほしい」と要求し、7公演より6公演に急遽変更した。なお、3月8日に予定されながら中止となった公演の別日への振り替えは設定されず、他の6公演も完売だったため、チケットの払い戻しが行われた。また、3月9日の公演は「東京へ来られないファンへ、映像でコンサートを楽しんでほしい」との趣旨で、「クローズド・サーキット」(実際のコンサートを各地方都市の会場に衛星生中継を行い、映像で楽しんでもらう企画)を行った。
  • THE NEW WORLD TOUR:1993年11月12日、14日、15日 東京ドーム、11月18日、19日 福岡ドーム
  • driving Japan Tour:2002年11月11日、13日、14日 東京ドーム、11月17日、18日 大阪ドーム
  • Out There! Japan Tour 2013:2013年11月11日(追加公演)、12日 京セラドーム大阪、11月15日 福岡 ヤフオク!ドーム、11月18日、19日、21日 東京ドーム、
  • (中止) Out There! Japan Tour 2014:2014年5月17日・18日 国立競技場、5月21日 日本武道館(追加公演)、5月24日 ヤンマースタジアム長居
    • 当初、5月17日に国立競技場で行う予定だった公演においては、ステージが設営され、グッズ販売も実施されるなど準備が整えられていたが、同日の開場直前になって、ポール本人の急病により急遽中止となった。19日に振替公演を行うとし、17日のチケットはそのまま有効となると発表された(希望者にはチケットの払い戻しも実施)。この時点では、翌18日以降の公演は予定通り行うとされていた。
    • しかし18日も前日と同じく開場直前になって中止が発表され、延期で開催される予定であった翌19日の公演についても中止となった。この発表があった直後、招聘元であるキョードー東京は「延期」と表現していたが数時間後に「中止」と訂正した。ただし、チケットの払い戻しは一度停止されていたことから、事実上「日程未定の延期」となった。この時点では日本武道館公演とヤンマースタジアム長居公演は予定通り実施するとしていた。
    • 5月20日になって、キョードー東京は「日本武道館公演、ヤンマースタジアム長居公演を含めた全公演を中止する」と発表された。5月22日から6月9日までチケットの払い戻しに応じた[17]
    • 別項記述の通り、この再来日公演直後に予定されていた初の韓国公演(ソウルオリンピック主競技場)、6月に予定されていたアメリカでの7公演についても並行して中止が発表された。この後、アメリカの7公演については同年10月に振り返られ、後に開催された。国立競技場はすでに同年5月31日改築に伴う使用停止が決まっていたためこれ以上の延期ができず、「幻の国立競技場公演」となってしまった。
    • キョードー東京はポールの病名を「ウイルス性炎症」と発表。詳細については公表されなかった。5月23日、ポール側は都内の病院で治療を受け順調に回復していることを明らかにするが[18]、その後も報道は過熱。日刊ゲンダイは、ポールが腸閉塞を発症し緊急手術を受けていたと報道[19]。また産経新聞は、腸捻転により緊急手術を受けていたと報じた[20]。招聘元関係者の一人である湯川れい子は、自身のTwitterで、これらの報道は公式発表ではなく、本人は回復して次のツアーに備えていることを強調。詳細については守秘義務のために公表できない状況であることを認めた[21]
    • キョードー東京の発表によると、5月26日にホテルをチェックアウトし、空港へ直行してチャーター機で離日した[22]。出国は極秘に行われ、渡航先も公表されなかったが、翌27日にロンドンでナンシー夫人と散歩している姿がパパラッチによって撮影され、イギリスに帰国していたことが判明した[23]
    • キョードー東京は再来日公演が開催直前に中止となったことや、主催者発表の大幅な遅れ、情報が二転三転したことを謝罪した。この一連の動きの後、ポール本人も希望している早期の来日公演実現に向けて協議が行われ、翌年の再来日が実現している。
  • Out There! Japan Tour 2015:2015年4月21日 京セラドーム大阪、4月23日・25日・27日 東京ドーム、4月28日 日本武道館(追加公演)
    • 前年に予定されていた公演が全て中止となったため、改めて再来日公演として行われた。前年予定されていた国立競技場は既に閉場となっており、ヤンマースタジアムでの公演も日程の都合がつかなかったため、2013年の来日時と同じ屋内での公演となったが、日本武道館ではポールの単独としては初めて(ビートルズの元メンバーではリンゴ・スターが1989年と1995年に武道館公演を行っている)、ビートルズ時代を含めると49年ぶりとなる念願の公演が実現した[24]。また日本と同様に開催中止となった初の韓国公演についても日本公演直後の5月2日に実現している[25]
  • One On One Tour 2017:2017年4月25日 日本武道館(追加公演)、4月27日・29日・30日 東京ドーム[26]

ディスコグラフィ編集

オリジナル・アルバム編集

※ウイングス名義のアルバムについてはこちらを参照 (チャート;英:ミュージックウィーク/米:ビルボード)

カヴァー・アルバム編集

ライヴ・アルバム編集

ベスト・アルバム編集

ザ・ファイアーマン(The Fireman)名義編集

ザ・ファイアーマンは、ポール・マッカートニーとユース(キリング・ジョークオーブ)によるプロジェクト。 結成当初は覆面ユニットのインストゥルメンタル・アンビエント・ミュージックのプロジェクトであったが、3作目の『エレクトリック・アーギュメンツ』では、ポール自らがボーカルと作詞作曲を務め、ロック色の強いバンドに生まれ変わっている。 また、前2作は、EMIからのリリースであったが、3作目では世界各国のインディペンデント・レーベルと契約。日本では、Traffic Inc.からのリリースとなっている。(イギリスはONE LITTLE INDIAN、アメリカはATO RECORDSからのリリース)

クラシック作品編集

楽曲提供編集

プロデュース作品編集

コーラス参加編集

その他編集

(『ラム』に収録された楽曲をオーケストラ演奏でアレンジした作品)

Twin Freaks(ザ・フリーランス・ヘルレイザーと組んだリミックス・プロジェクト)

  • Twin Freaks(2005年) (LP、およびダウンロード販売のみのリリース)

ビデオグラフィ編集

  • Rock Show(1982年) : VHS & LD
  • Give My Regard to Broad Street(1984年) : VHS & LD & DVD
  • Rupert and the Frog Song(1985年) : VHS & LD
  • Paul McCartney Special(1986年) : VHS & LD
  • Put It There(1989年) : VHS & LD & DVD
  • Get Back(1990年) : VHS & LD & DVD
  • Going Home(1993年) : VHS & LD
  • Movin' on(1993年): VHS & LD
  • Paul is Live(1994年) : VHS & LD & DVD
  • In the World Tonight(1997年) : VHS & LD & DVD
  • Live at the Cavern Club(2000年) : DVD
  • Wingspan(2002年) : DVD(「ウイングス」&「ポールのソロ」)
  • Back in the U.S.(2002年) : DVD
  • The Animation Collection(2004年): DVD
  • In Red Square(2005年) : DVD
  • Space Within Us(2006年) : DVD
  • The McCartney Years(2007年) : DVD
  • Good Evening New York City(2009年) : DVD

主な使用楽器編集

ベース編集

カール・ヘフナー500-1(Karl Höfner 500-1)(1本目 1961年製)
 
ヘフナー社で最も有名なエレキベースの500/1
最初に入手した左利き用500-1。デビュー前よりキャバーン・クラブなどで使用していたため、通称『キャバーン・ベース』という名称で知られる。ヘッドの部分の「HOFNER」のロゴがゴシック体に近い書体で縦書きで書かれており、リア・ピックアップがフロント・ピックアップのすぐ隣についており、二つのピックアップの間隔が狭いことが2本目との最大の違いである。それまでビートルズのベーシストだったスチュアート・サトクリフが脱退しポールがベーシストに転向するにあたり、ハンブルクの楽器店で購入した。ヘフナーを選んだ理由として、「本当はフェンダーのベースが欲しかったんだけど、値段が高くて買えなくてね(当時のイギリスではアメリカ製の品物には高額な税金がかけられていた)。フェンダーのベースよりずっと安くて、左用のベースがこれ(ヘフナー)しかなかったんだ。あと、ボディのシェイプが左右対称で左利きの僕が持っても違和感がなかったし、形も何となくカブトムシ(beetle)に似ていたからね」と後にポールは述べている。またショートスケール(30インチ。通常のベースは34インチの物が多い)で弾き易く、非常に軽くて肩がこらないので、ポール本人はヘフナーのベースはとても気に入っているそうである。1963年に2本目のカール・ヘフナーを購入後は、コンサート時のサブ・ベースとしてバックステージに待機させていた。1965年頃には赤みの強い3トーン・サンバーストの再塗装を施し、破損していたピックアップのエスカッションを一体型の物に交換した。1968年にはシングル「レボリューション」のプロモーションビデオで使用。さらに1969年の「ゲット・バック・セッション」でも使用していた。「ゲット・バック・セッション」終了後に盗難にあったらしく現在ポールはこのベースを所有していない。
カール・ヘフナー・500-1(Karl Höfner 500-1)(2本目 1962年仕様の1963年製)
2本目に入手した左利き用500-1。1963年10月頃に入手した物で、こちらはヘッドの「Hofner」のロゴが、横書きの筆記体状のものになっている。二つのピックアップの間隔は、片方がネック寄り、もう一方はブリッジ寄りと1本目の物より広くなっている。ポールのトレードマークとして有名になったのは、この2本目の方である。1964年まではレコーディングとステージの双方においてメインベースとして使用された。このベースにはもともとストラップピンがおらず、ビートルズ時代にはネック側はネックエンドとボディの隙間にストラップを二つに裂いて巻き付け、反対側はテールピースにフックを引っ掻けて使用していた。1965年リッケンバッカー4001Sを手に入れてからは、レコーディングに使用される頻度は徐々に減っていったが、ライヴでは1966年にコンサート活動を停止するまでは一貫してメインベースとして使用された。ピックガードは一般的なねじ止め式ではなく、釘のようなもので取り付けられている。当初はピックガードを付けたままで使用しており、1966年6月の日本公演でもピックガードは付けられていたが、同年8月のアメリカツアーでは、ジョージのエピフォンカジノとともにピックガードが取り外されていた(原因はオクターブピッチの調整時に、ピックガードが割れた為と言われている。ポールによるとその後このピックガードは紛失したとの事)。1967年、シングル「ペニー・レイン」のプロモーションフィルムに登場して以降はレコーディングに使用されることもなく表舞台にも出てこなかったが、1969年の「ゲット・バック・セッション」で1本目とともにメインベースとして再登場し、アップル屋上でのライブでも使用された。ビートルズ解散後およびウイングス結成後は、レコーディング・ステージともにリッケンバッカー4001Sをメインにしていたため表舞台に出ることはなかった。1974年頃のウイングスのリハーサル風景を撮影した写真の中でアンプに立てかけてあったり、当時のウイングスのギタリストだったジミー・マッカロクが左右を逆にして(ジミーは右利き)弾いている写真が残されているが、ウイングス時代にはスタジオには持ち込まれていたが、レコーディングやライヴに使用されたことはなかったと思われる。
1980年、ソロ名義で発売されたヒットシングル「カミング・アップ」のプロモーションビデオではポールがビートルズ時代の自身に扮し、このヘフナーを抱えて登場する。続いて1982年の「テイク・イット・アウェイ」のプロモーションビデオでもこのヘフナーを演奏したが、レコーディングには使用されていないと思われる。この時期にはストラップが交換され、フォークギターのようにネックのナット付近にストラップの片方が結び付けられていた。
1989年、アルバム「フラワーズ・イン・ザ・ダート」レコーディングセッションにおいて、共作者のエルヴィス・コステロの勧めで再びヘフナー使用を決意。この際に本格的かつ大規模なリペアを施し(ピックアップ・電気系等の配線交換・改良、ネックの反りの修正・補強、表面塗装の強化、すり減ったフレットの打ち直し、ブリッジの改良、ロック式ストラップピンの増設等多岐に及ぶ)、「マイ・ブレイヴ・フェイス」「ディス・ワン」などの主要曲のレコーディングに使用。続いておこなわれたワールドツアーでは、1969年のアップル屋上ライブ以来20年ぶりにライブ演奏に使用し、ビートルズ時代のヒット曲も多数演奏した。1989年~1990年のワールドツアーでは、ウォル製の5弦ベース等、曲によっては他のベースも使用していたが、1993年の2度目のワールドツアーからはメインベースとして、ウイングスやソロの曲もヘフナーで演奏するようになり、以降コンサートとレコーディングの双方に於いて、再びメインベースとして現在も使用され続けている。現在のポールのライヴでは、ギターに関しては様々な種類のものを曲ごとに使い分けているが、ベースはヘフナーしか使っていない。
1993年の2度目のワールドツアーまで、ボディサイドに1966年のビートルズ最後のコンサートツアーのセットリストが貼ってあったが、現在は剥がされている。2005年頃に、それまで40年以上酷使してきたオリジナルの2連ペグ(長方形の形状でペグボタンの色は飴色で形も薄く小さい物)は破損したのか、当時流通していたHofner純正リイシューパーツ2連ペグ(楕円形のペグはパール模様で厚く、大きさもオリジナルの物よりも二回り程大きい)に交換され、現在(2010年4月)もこの状態で使用されている。ツアー時のサブベースとして、90年代は2本目の仕様に近いオールドのレフティ・ベース(3本目:1963年製)をスタンバイさせていた。この3本目はPV『OFF THE GROUND』で空飛ぶHofnerとして目にする事が出来るが、コントロール・パネルの位置が2本目に比べて上部に付いているので容易に見分ける事が可能。 その後、2008年頃のツアーではキャバーン・タイプの新しいヘフナー(50周年記念ピックガード付き:2006年製)がスペアとして常備されていたが、最近(2010年)のライブでは1962年リイシューモデル20/40の最初期ロットと同等品(ピックガード無し:1995年製)に変わっている。2012年に入って現行のビンテージ’62年型モデル(通称:「マージー」モデル)のボディ全体にユニオンジャックがペイントされたモデルを寄贈され、同年6月4日のエリザベス女王戴冠60周年コンサートで使用された。その後、この英国旗柄ベースがファンの目の前で披露されたのは2013年11月21日に東京ドームで行われた日本公演最終日のみだが、ステージサイドには前出の20/40の1995年製と同じく、サブ・ベースとして常時スタンバイされている。また近年、1964年頃にカール・ヘフナー社からポールに贈られたと言われるゴールド・パーツ付きのヘフナーがオークションに出品された(落札はされなかった)が、ポール自身はこのヘフナーを「所有したことがない」と明言している。実際にこのベースがポールに贈られたことは事実のようであるが、このヘフナーを手にしている写真などが存在せず、本人はこのベースについては全く覚えていないらしい。本人が使用することなく他人に譲ったのか、ポール自身の手に渡る前に第三者の手に渡ったのかなど真相は明らかになっていない。
リッケンバッカー4001S(Rickenbacker 4001S)(1964年製)
リッケンバッカー社より贈呈された左利き用ベース。当時イギリスではリッケンバッカーは独自のモデルを展開しており、ドット・ポジションマーク、ノンバウンドボディの形状であるこのベースは「#1999」と呼ばれていた。通常の4001はバウンドボディにトライアングル・ポジションマークであったがクリス・スクワイアジョン・エントウィッスル、ピート・クウェイフといった有名ベーシストがこぞって「#1999」を使用していたことから、「4001S」としてアメリカでも販売されたものである。トラスロッドカバーは通常の右利き用タイプなので、肩に吊すと先が上あがりになっている(通常は下さがり)。同社製ホースシュー・ピックアップが取り付けられ、ブリッジユニットはミュートが出来るようになっている。500/1と比べ硬く引き締まったサウンドが特徴。1965年の『ラバー・ソウル』のレコーディングから使用され始め、1966年の『リボルバー』セッションからビートルズ解散まで、レコーディングにおけるメイン・ベースとして使用されるようになった。1966年のツアーではサブ・ベースとしても使用され、1966年6月の来日公演にも持ってきていた。当初は赤いサンバースト調の色(リッケンバッカーでは「ファイア・グロー」と呼んでいる)であったが、1967年にはジョンのギブソン・J-160E、ジョージのフェンダー・ストラトキャスターとともにサイケデリックな塗装が施され(シルバー、もしくはグレーの塗料をボディ上部にデタラメに塗っているか、垂らしている)、1969年の「ゲット・バック・セッション」中に塗装が剥がされ、木の地肌を露出したナチュラル仕上げを施される。ビートルズ解散後、1971年にはボディーシェイプが削られ、全体がより丸みを帯びた姿になった。その後のウイングス時代には、レコーディング、ライヴ活動の両方で一貫して使用され、カール・ヘフナーに代わるポールのメインベースとして有名になった。1974年には、ビートルズ時代の1965年に損傷して一部が欠けていたピックガードを新品に交換し、ピッキングの邪魔になっていたリアのホースシュー・ピックアップをハイゲイン・タイプに交換している[注釈 4]
ウイングス解散以降もレコーディングやプロモーションビデオで使用され、1984年の映画『ヤァ!ブロードストリート』やアルバム『オール・ザ・ベスト』のジャケット写真にも登場したが、1989年のアルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』のレコーディングセッション以降はほとんど使用されていない。ただし、2002年からのワールド・ツアーではサブとしてスタンバイされており、同年の日本公演にも1966年と同様に持ち込まれていた。なお、現在の写真を見るとリアピックアップが再びホースシュー・タイプに交換されているようである。
リッケンバッカー4001S(Rickenbacker 4001S)(1970年代製)
1970年代製でスリーピースネックの4001S。1964年製と違いヘッドのウォルナットの羽部分はナチュラルカラー。あまり詳細は知られていないが1970年代前半にレコーディングで使用した説がある。そして1964年製のリアピックアップをハイゲインに交換した際のパーツ取りという説もある。
ヤマハ・BB-1200L
1980年の来日公演が決定した際にヤマハ社よりプレゼントされたもの。1979年の英国ツアーや「テイク・イット・アウェイ」PVなどで使用。
フェンダー・ジャズベース
ビートルズ後期より2本使用。どちらも1967-1968年製。1本は右利き用のもの(ジョージ・ハリスンの使用モデルを譲り受けた説がある)を弦を左用に張り替えて使用、もう1本は左用。なお、左用に付いているチューニング・キー(通称「パドル・ペグ」又は「lollipop key」)は1966年〜1970年のうちの限られた個体のみの仕様、あるいは1966年のみの仕様等の説がある。
ウォル・マーク(マッハ)II(Wal Mach II)
ポールがツアー用に特注制作した5弦ベース。『フラワーズ・イン・ザ・ダート』録音と1989-1990年のツアーで使用された。1994~95年のビートルズ再結成時の「フリー・アズ・ア・バード」と「リアル・ラヴ」のレコーディングにも使用されている。
ケイ ジャズ(Kay Jazz)
1960年代に製造されたフル・アコースティック構造のエレクトリック・ベース。ウイングス初期のライヴと「エボニー・アンド・アイボリー」PVで使用。
Wベース(コントラバス)
1974年にリンダがナッシュヴィルで購入してポールにプレゼントしたもの。エルヴィス・プレスリーのベーシスト、ビル・ブラックが「ハートブレイク・ホテル」の録音で使用したといわれる金色のモデル。

ギター編集

ビートルズ時代とウイングス時代は左利き用のギターは入手困難(もしくは特注する必要があった)であったため、右利き用のギターを改造して使用していた。ポールは普通の右利き用の弦の張り方のまま、ギターを逆向きにして演奏することもできるが、左利き用の弦の張り方の方がしっくり来るようで、右利き用は全てナットとブリッジを左利き用のものに交換、もしくは調整して使っている。

アコースティック・ギター編集

  • ゼニス・モデル17 (Zenith Model17)
ポールが最初に手にしたギター。誕生日プレゼントとして父から贈られたトランペットを楽器屋に持ち込み、そのままこのギターと交換してもらったという。ドイツの楽器メーカーであるフラマス社が製造し、イギリスの音楽出版社ブージー&ホークス社が流通させていたギターで、メイプルの合板を使用したノンカッタウェイのアーチトップ・アコースティックギターである。クオリーメンに加入した当初から使用しており、後にアーチトップ用の金属のバーに固定するタイプのフローティング式ピックアップを後付けしてエレキ化されるが、その後機材面の限界を感じたポールがロゼッティ・ソリッド7を入手したことで、ギグで使われる事はなくなった。ポールは現在もこのモデル17を所有しており、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の映像の中で、このギターで「トウェンティ・フライト・ロック」を演奏している姿を確認できる。現在は塗装をリフィニッシュされ、ピックガードも外されたままの状態となっている。
 
エピフォン・テキサン(2005年製)直筆サイン入り Aged Texan
1964年製。ビートルズ時代の1965年より使用開始。右利き用。現在もコンサートツアーでは(1音下げチューニングに固定され)「イエスタデイ」の演奏時に使用されている。現在はステッカーが表面に2枚貼られている。
1967年より使用開始。ビートルズ時代からウイングス時代までは右利き用、ウイングス解散後には左利き用に切り替える。
  • マーティン・OOO-18 (Martin OOO-18)
  • マーティン・J-18 (Martin J-18)
1993年のワールド・ツアーで使用。左用。サウンドホール内に後付式のピックアップがガムテープで固定されている。J-18は、マーチンのMサイズボディと同じながら厚みはDサイズの深いもの、ボディ下部の広がりでooo-18と見分けが可能。
  • マーティン12弦ギター (モデル名不明)
  • ギブソン・J-180 (Gibson J-180)
通称エヴァリー・ブラザーズモデル。ムスターシュ (髭形) ・ピックガードがサウンドホールの左右に貼られ、外見上は利き腕による区別がない。ウイングス時代からレコーディングやライヴで使用されている。
  • タカミネ・NPT-010 (Takamine NPT-010)
  • アルヴァレズ・ヤイリ・YD-88BK(Alvarez Yairi YD-88BK)
日本のK・ヤイリの米国輸出モデル。黒色・左用で、サウンドホールが無いのが特徴。現在も市販されている(オーダーでのカスタマイズも可能で、日本でもアルヴァレズ・ヤイリ仕様で作ることができる)。1989-1990年のツアーで使用。
ウイングス時代に6弦のモデルと12弦のモデルを複数使用。いずれも右用。

エレクトリック・ギター編集

  • ロゼッティ・ソリッド7 (Rosetti Solid7)
ポールにとって初めてのエレクトリック・ギター。1960年6月30日にヘッシー楽器店で分割払いで購入した。オランダの楽器メーカー、エグモンド社が製造したギターで、同社はイギリスに輸出するモデルに「ロゼッティ」という別のブランド名を施している。「ソリッド」という名称だが実際はソリッドボディではなく、サウンドホールの無いセミ・ホロウボディである。ハンブルク巡業の際にベーシストのスチュアート・サトクリフが度々バンドを休むようになり、ポールにその代役が回ってくるようになったことで、ポールはソリッド7に(クラブに備え付けのピアノから失敬してきた)ピアノ線を3本強引に取り付け、即興ベースとして使用するようになる。しかし、ピアノ線の強い張力に耐えられるはずもなく、間もなくしてソリッド7は大破し、直す価値が無いと判断したバンドメンバー達は、全員で「ソリッド7を木っ端微塵になるまで叩き壊す」という儀式めいたパフォーマンスをステージ上で行ったという。ソリッド7が即興ベースとしての役割を終えた1961年の春頃にはスチュアートが脱退寸前の状態で、既にバンドの正式なベーシストはポールになっており、トニー・シェリダンとの「ポリドール・セッション」を控えていたポールは新しいベース「ヘフナー・500-1」の購入を決断する。
1962年(もしくは1961年)製のサンバースト。右利き用。右利き用のビグスビー・ビブラート・ユニット付き。後年作られたジョン・レノンやジョージ・ハリスン所有のモデルとは、ヘッドの形状(オールド・スタイルのニューヨーク・ヘッド)、トラスロッドカバーにeマークがない、コントロールノブが黒い、ホーンの丸みが大きめといった点が異なる。アルバム『4人はアイドル』のレコーディング・セッション以来、現在までのレコーディングにおけるメイン・ギターである。「涙の乗車券」や「タックスマン」などのリード・ギターは、このカジノによって演奏されている。ピックガードは1970年以後外されている。ストラップピンがネックヒールではなく、右のカッタウェイに付いている。2005年のアビー・ロード・スタジオでの『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』の公開セッション時にもこのギターを使用。通常とは違い、ボディ裏までサンバーストがかかっている事から、一度ネック折れしたという説もある。ステージでは1973年のウイングスのヨーロッパ・ツアーで使用したのが最初。2005年の『Live 8』にて「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」をU2と演奏した時もこのギターを使用。近年のツアーでもスタンバイしており、2010年のマイアミ公演や2013年・2015年の日本公演での「ペイパーバック・ライター」の演奏時など、ごくまれにステージでも使用される。
少なくとも3本所有。すべて左利き用。(1)1989年にチープ・トリックのリック・ニールセンより購入した1960年製サンバースト。1989~90年のツアーに登場、以後ステージにおけるメイン・ギターとなる。ネックジョイント部分のサンバーストがかなり濃くなっている点が特徴である。同年代のレフティ仕様は非常に少なく、かなり貴重な一本である事は確かである。(2)2000年代の現行モデルで、元々の色はサンバーストだったが、2009年頃に両手を挙げた人がたくさん描かれたペインティングが施されているのが『グッド・イヴニング・ニューヨーク・シティ』のDVDで確認できる。2013年・2015年の日本公演では「レット・ミー・ロール・イット」演奏時に使用された。(3)妻リンダよりプレゼントされた1957年製ゴールドトップ。「ワンス・アポン・ア・ロング・アゴー」のPVや『夜のヒットスタジオDX』出演で使用後、1989-1990年のツアーで使用。
1966-1969年に製造されたノン・リバース・ボディ。左利き用。ビグスビー・ビブラート付き。アルバム『ラム』セッション以降で使用。
  • ダン・アームストロング/アンペグ・アクリル・ボディ・ギター
右利き用。『バンド・オン・ザ・ラン』セッションで使用。また、『タッグ・オブ・ウォー』期のフォト・セッションでもその姿が見られる。
1960年製2トーン・サンバースト。左利き用。ローズ指板。
左利き用も所有しているが、リアピックアップを交換し、ボディの一部を削って弾きやすくした右利き用を使用していたことがある。
右利き用のサンバースト。ビートルズ時代の1967-1968年に使用。ローズ指板。
よく言われる360/12V64ではない。24フレット仕様の左利き用。ファイアーグロー。『オール・ザ・ベスト』TVCMや『フラワーズ・イン・ザ・ダート』レコーディング・セッションなどで使用。Queenie Eye のメイキングビデオで存在が確認できる。

メインのレスポールとストラトキャスターは1960年製にこだわっており、おそらく1960年8月にザ・ビートルズというバンド名が誕生したためと思われる。

私生活編集

イギリスの女優ジェーン・アッシャーと1967年に婚約したが、翌1968年にポールの浮気が原因で婚約破棄されている。

恋人であるリンダ・マッカートニーが妊娠したため、1969年に結婚する。写真家となったメアリーファッションデザイナーとして世界的に有名になったステラ、ミュージシャンの長男ジェームズを儲ける。リンダと前夫との娘ヘザーも育て上げる。リンダはアリゾナ州トゥーソンにて乳癌のため1998年4月17日に死去した[27]

1993年11月中旬に東京で公演し、11月17日に羽田空港から航空機で福岡空港に移動し相撲観戦のため福岡国際センターに直行。予告なくポールが登場したために場内は騒然となり、翌日のスポーツ新聞でも取り上げられた。 ホテル日航福岡に泊まり11月18日・19日に福岡ドームで公演し「ノットーヤ?」などと博多弁を話す。

2002年に地雷撲滅運動を進める元モデルヘザー・ミルズと婚約を発表。前妻リンダの死後に出会った彼女とはその後正式に再婚し、2003年にはベアトリス・ミリーという名前の娘も生まれた。しかし、家庭を重視するマッカートニーと、世界を飛び回り家を空けることの多かったミルズとの関係にはすれ違いが生じた。その上、夫である彼の仕事に口を出して周囲のスタッフとトラブルを引き起こすミルズとの間には、次第に口論が頻発するようになったともいう。ヘザーはポールの子供たちとの関係もうまくいかず、ポールは再婚に反対する子供たちと衝突して一時期は疎遠になったという。2006年にミルズとは別居した。ロンドンの裁判所は2008年3月17日における判決で総額2430万ポンド(約47億円)をミルズさんに支払うよう命じたと発表した。「ミルズは慰謝料5450万ドル(約50億円)で不動産の購入・豪勢な海外旅行・寄付活動を行ない、2年足らずで全て遣い切った」と報道される[28]

4年ほど交際していたナンシー・シェベルとの婚約を2011年5月6日に発表。

2011年5月、ニューヨークポスト紙の報道により、婚約者であるナンシーにカルティエの5カラットダイヤモンドの指輪を贈ったことがわかった。この指輪は1925年のビンテージもので値段は65万ドル(日本円で約5,200万円)だという。婚約者であるナンシーはインタビューで「プロポーズの場所はカリフォルニア州。突然でした。彼が贈ってくれた5カラットの指輪にぞくぞくしました」と述べている[29]

2011年9月14日、ナンシーとの婚姻予告届をロンドン市内の登記所に提出。同年10月9日に結婚し、ロンドン市内の公会堂で結婚式をあげた。

サッカーのプレミアリーグではエヴァートンFCのファンであるが[30]2008年6月1日にはリヴァプールFCのホームスタジアムであるアンフィールドでライヴを行っている。

2013年4月、『サンデー・タイムズ』が「英音楽界での長者番付」を発表し、ポールと、アメリカで運送会社を経営する妻ナンシー・シェベルの合計資産は6億8千ポンドにも上り、長者番付1位を飾る。

2013年、大相撲11月場所を観戦。日本相撲協会が11月14日午前から「ポール・マッカートニーさんが相撲を観に本日いらっしゃいます」と告知していて画面に何回も登場した。また懸賞制度に特に興味を持ち、横綱の取り組みなどにおいて新作アルバム『ニュー』を懸賞に掛けた[31]

ファンの著名人編集

ポール死亡説編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 労働者階級では自分のファースト・ネームを長男に付けることが慣習なので。身内に同じ名前の人がいる場合、区別するためにミドル・ネームを主に用いるのはよくあることである。因みにポールの長男であるジェームズ・ルイーズ・マッカートニーもファーストネームは祖父・父に同じくジェイムズであるが、父・ポールのようにミドルネームではなくファーストネーム(ジェイムズ)で呼ばれることが多い
  2. ^ 他に「ゴールドディスクの最多保持者」「最多レコード売り上げミュージシャン」としても認定されている
  3. ^ デビュー以前のビートルズ(スチュアート・サトクリフ在籍時)ではギタリストであり、時にはドラマーも務めた。ブルースハープ(ハーモニカ)やシタール(インドのギター)も扱える。
  4. ^ ホースシュー・ピックアップのコバルト磁石が磁力を失っていたため、ストックのピックアップのコイルを増し巻きしたものに交換。オリジナルのブリッジが変形してきしみ音を出すようになっていたため交換。さらにフレットとナットも(ナットは牛骨製に)交換。ポールが実際にリッケンバッカー社に依頼した修理内容は音の出なくなったホースシュー・ピックアップの修理のみだったが、担当修理スタッフの「たくさんのラヴとケア」によりその他の修理もなされたと、当時の修理スタッフは語っている。

出典編集

  1. ^ http://www.feelnumb.com/.../the-beatles-get-back-no-pakistanis-vers...
  2. ^ ポール・マッカートニー、英女王より名誉勲章を授与 BARKS(2018年5月5日)
  3. ^ 「ポール・マッカートニー ザ・ライフ」フィリップ・ノーマン著
  4. ^ http://features.japantimes.co.jp/beatles-in-budokan/
  5. ^ And The GRAMMY Went To… Paul McCartney | GRAMMY.com
  6. ^ Paul McCartney | Hollywood Walk of Fame
  7. ^ ポール・マッカートニー、「アウト・ゼアーツアー」を再開”. 2014年7月10日閲覧。
  8. ^ ポール・マッカーニー、キャピトル・レコードと再契約”. 2016年8月24日閲覧。
  9. ^ ワン・オン・ワン ジャパン・ツアー2017
  10. ^ ポール、キツネ狩りに代わる新たな方法を提案{リンク切れ}
  11. ^ イギリス:マッカートニー中国に激怒@BBC - 今日の覚書、集めてみました{リンク切れ}
  12. ^ Paul McCartney マッカートニー夫妻、アザラシを抱いて侵害罪? - BARKS ニュース
  13. ^ Out There! japan tour キョードー東京新聞
  14. ^ ポール 71歳東京ドーム公演最年長 福島に捧げる「YESTERDAY」、中日スポーツ - 2013年11月22日閲覧{リンク切れ}
  15. ^ アウト・ゼアー ジャパン・ツアー2015
  16. ^ ポール来日、羽田にファン700人 2年ぶり単独公演 朝日新聞デジタル
  17. ^ コンサート公式サイト
  18. ^ Statement from Japan
  19. ^ 日刊ゲンダイ ポールは日本で"緊急手術"を受けていた{リンク切れ}
  20. ^ ポール"極秘離日"腸捻転の手術していた 再来日公演は実現に向け協議中
  21. ^ 湯川れい子twitter
  22. ^ コンサート公式サイト
  23. ^ Need a mac, Macca?
  24. ^ ポール、49年ぶり武道館に興奮「ヒサシブリ!」【全演奏曲掲載】 (オリコン)
  25. ^ ポール・マッカートニー、韓国公演終了…観客の熱狂的な反応に「ファンタスティック!」と感激(Kstyle)
  26. ^ 「コンバンハ ブドウカン!」ポール、来日ツアー始まる 朝日新聞デジタル
  27. ^ 淡路和子「リンダ・マッカートニー」『ポール・マッカートニー 世紀を超えた音楽家』河出書房新社、2001年6月30日。74-75頁。
  28. ^ 50億円を2年足らずで使い切った豪傑美女 - livedoor ニュース
  29. ^ http://www.cinematoday.jp/page/N0032182
  30. ^ MACCA'S A BLUE! The Official Website of Everton Football Club 2008年2月20日
  31. ^ ポール懸賞 九州場所きょう結び日馬取組 日刊スポーツ 2013年11月21日閲覧
  32. ^ BRUTUS」2011年3月1日号 p.74

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集