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ブルガリア王国(ブルガリアおうこく、ブルガリア語: Царство България / Tsarstvo Bulgaria, 英語: Kingdom of Bulgaria)は、1908年10月に大ブルガリア公国大公フェルディナンド1世ツァール国王)を称することで誕生したブルガリア王国君主号のツァールは皇帝の意味も持つため、第一次ブルガリア帝国第二次ブルガリア帝国に次ぐものとして第三次ブルガリア帝国とも呼ばれる。

目次

歴史編集

ブルガリア王国の形成編集

ブルガリア王国
Царство България
 
 
 
 
1908年 - 1946年  
 
 
 
   
国旗国章
 
1914年のブルガリア王国の領域
公用語 ブルガリア語
首都 ソフィア
国王(ツァール)
1908年 - 1918年 フェルディナンド1世
1918年 - 1943年ボリス3世
1943年 - 1946年シメオン2世
面積
1908年95,223km²
1933年103,146km²
1946年110,994km²
人口
1908年4,215,000人
1920年4,846,971人
1933年6,067,000人
1946年7,029,349人
変遷
王政移行 1908年9月22日
共産化クーデター1944年9月9日
共和制移行、共産化
(ブルガリア人民共和国)
1946年9月15日

前身である大ブルガリア公国列強の思惑で領土を縮小されるなど、自治権は得たものの国内には不満が残る結果となった(ベルリン会議)。その後、1908年宗主国オスマン帝国青年トルコ人革命が勃発すると、オーストリア=ハンガリー帝国の助力を得てブルガリアは独立を宣言し、大公フェルディナンド1世は君主号を皇帝(ツァール)へ変更する。翌1909年4月19日、オスマン帝国はロシア帝国との戦争の賠償を肩代わりするという条件でブルガリア政府と議定書を交わし、ブルガリアは名実共に独立国となった。


第一次・第二次バルカン戦争編集

1912年にはロシア帝国を後ろ盾としたバルカン諸国オスマン帝国との対立が激化していた。汎スラヴ主義を掲げていたロシア帝国が主導し、ブルガリア王国はセルビア王国ギリシャ王国モンテネグロ王国バルカン同盟を結ぶ事となる。そしてモンテネグロ王国1912年10月8日にオスマン帝国に対し宣戦布告を行うと第1次バルカン戦争が勃発する。ブルガリアはこれに参戦して勝利し、領土を拡大するが、マケドニアの領有をめぐって同盟を結んでいたセルビア王国ギリシャ王国と対立する。こうした戦後処理の不満が原因となり、1913年2次バルカン戦争が勃発、同盟は破綻し、バルカン半島で再び戦争が起こることとなった。この戦争でブルガリアは敗北し、マケドニア、ドブロジャ地方、東トラキアを失った。

第一次世界大戦編集

第一次世界大戦では1915年10月に第二次バルカン戦争でセルビア王国に奪われた失地の回復を目標に中央同盟国ドイツオーストリアとともに連合国のセルビア王国へ攻撃した。敗戦を喫する。ヌイイ条約エーゲ海沿岸を同じく連合国の一員だったギリシャに割譲した。敗戦後、ブルガリアの政局が混迷したため、ボリス3世によって親政が行われた。

第二次世界大戦編集

 
第二次世界大戦中に一時獲得していた領土。クラヨーヴァ条約で得た濃橙(南ドブロジャ地方)は戦後も保持、パリ条約 (1947年)にて領土が確定された。

第二次世界大戦では枢軸国側で参戦し、1940年にはルーマニア王国領の南ドブルジャを併合する。1941年ユーゴスラヴィア王国とギリシャ王国が枢軸国に降伏すると、ブルガリアはユーゴスラヴィア南東部(現在のマケドニアあたり)とギリシャ東部を占領統治した。1943年、ボリス3世が急死すると、遺児であるシメオン2世が6歳で即位し、ボリス3世の弟キリル王子らから構成される摂政団による統治が行われた。

その後、枢軸国側が劣勢となると、1944年9月5日にはソ連軍がブルガリアに宣戦布告した。元来ブルガリア国民は、同盟国ドイツよりも同じスラヴ民族であるロシア人に親近感を寄せており、政府も対ソ戦には参戦しなかったにもかかわらず、ソ連軍は領土内への侵攻を開始した。ブルガリア軍は無抵抗のまま降伏し、同年9月9日に勃発したクーデター(en)により政権は交代、連合国側に鞍替えして対ドイツ戦を開始する。

大戦終結後編集

戦後の1946年祖国統一政府による国民投票の結果、王政が廃止された。最後のツァール、シメオン2世は9歳にしてエジプトへ亡命した。ブルガリアは共産主義国家・ブルガリア人民共和国となり、ソ連16番目の共和国と呼ばれるほどの親ソ連政策を執った。

脚注編集

参考文献編集

関連項目編集