ヘクター・デラクルーズ

ヘクター・フリオ・デ・ラ・クルーズHéctor Julio De La Cruz, 1965年12月5日 - )は、ドミニカ共和国出身の元プロ野球選手内野手外野手)。

ヘクター・デラクルーズ
Héctor de la Cruz
AA級ノックスビル時代
(1988年)
基本情報
国籍 ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
出身地 サント・ドミンゴ州サバナ・ペルディダ
生年月日 (1965-12-05) 1965年12月5日(58歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手遊撃手一塁手外野手
プロ入り 1984年 アマチュアFA
初出場 NPB / 1991年5月18日
CPBL / 1992年3月20日
最終出場 NPB / 1991年5月22日
CPBL / 1996年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

日本球界での登録名は「デラクルーズ」、台湾球界での登録名は「克魯茲」。

来歴・人物 編集

1984年トロント・ブルージェイズと契約。同球団の傘下マイナーリーグ1990年までプレーしたが、メジャーへの昇格はならなかった[1]

50m走5.9秒の俊足や強肩を誇り[2]外野手三塁手一塁手が務められる点などが評価され、二軍で育てる方針で読売ジャイアンツ1991年1月16日に年俸1,500万円(推定)で入団契約を結んだ[3]。同年は呂明賜フィル・ブラッドリーも巨人に在籍しており、外国人枠の制限もあって開幕は二軍で迎えた[4]

呂の打撃不振で5月17日に一軍に昇格し[5]翌5月18日にスタメンで一軍初出場を果たしたものの、5月24日に一軍登録を抹消された[6]。二軍でも35試合で打率.267、1本塁打と成績が低迷していた事から将来性に乏しいと判断され、7月15日に解雇が決まった[7]。なお、ブラッドリーも打撃不振だったことからデラクルーズの後任としてデニー・ゴンザレスが入団している[8]

1992年から1993年までは中華職業棒球聯盟(CPBL)の兄弟エレファンツ1996年興農ブルズでプレー。CPBLでは遊撃手を務めることも多く、ユーティリティプレイヤーとして活躍。1997年から1999年まではリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルでプレーし、現役を引退した[1]2006年から2012年までアリゾナ・ダイヤモンドバックス傘下マイナーリーグの監督を務めた[1]

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1991 巨人 5 5 4 2 1 0 0 0 1 0 0 1 0 0 1 0 0 2 0 .250 .400 .250 .650
1992 兄弟 77 291 236 50 67 16 0 12 119 39 19 17 2 1 50 0 2 55 8 .284 .412 .504 .916
1993 82 294 261 44 67 17 2 9 115 27 21 6 0 0 31 1 2 61 8 .257 .340 .441 .781
1996 興農 87 332 290 37 76 17 6 3 114 31 18 11 10 2 28 0 2 62 4 .262 .329 .393 .722
NPB:1年 5 5 4 2 1 0 0 0 1 0 0 1 0 0 1 0 0 2 0 .250 .400 .250 .650
CPBL:3年 246 917 787 131 210 50 8 24 348 97 58 34 12 3 109 1 6 178 20 .267 .359 .442 .801

記録 編集

NPB

背番号 編集

  • 49 (1991年)
  • 15 (1992年 - 1993年)
  • 7 (1996年)

脚注 編集

  1. ^ a b c baseball-reference.com マイナー成績
  2. ^ 読売新聞、1991年2月9日付朝刊、P.19
  3. ^ 読売新聞、1991年1月17日付朝刊、P.19
  4. ^ 読売新聞、1991年4月1日付朝刊、P.19
  5. ^ 読売新聞、1991年5月18日付朝刊、P.19
  6. ^ 読売新聞、1991年5月25日付朝刊、P.21
  7. ^ 読売新聞、1991年7月16日付朝刊、P.19
  8. ^ 読売新聞、1991年7月23日付朝刊、P.21

関連項目 編集

外部リンク 編集