中華職業棒球大聯盟

中華職業棒球大聯盟(ちゅうかしょくぎょうぼうきゅうだいれんめい)は、中華民国プロ野球団体。略称は「中華職棒」、「中華職棒聯盟」、「中華職棒大聯盟」、「CPBL」。

中華職業棒球大聯盟
競技 プロ野球
開始年 1990年
参加チーム 4
中華民国の旗 中華民国
前回優勝 義大ライノズ(1回目)
最多優勝 統一ライオンズ(9回目)
中華職業棒球大聯盟
各種表記
繁体字 中華職業棒球大聯盟
簡体字 中华职业棒球大联盟
拼音 Zhonghuá Zhíyè Bàngqíu Dàliánméng
注音符号 ㄓㄨㄥ ㄏㄨㄚˊ ㄓˊ |ㄝˋ ㄅㄤˋ ㄑ|ㄡˊ ㄉㄚˋ ㄌ|ㄢˊ ㄇㄥˊ
英文 Chinese Professional Baseball League
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前身は1989年に発足した中華職業棒球聯盟であり、2003年台湾職業棒球大聯盟と合併し現在の名称となった。リーグ戦の開始は1990年。1990年を「職棒元年」とし、2016年は「職棒二十七年」と呼ばれた。

発足当時の参加チームは兄弟エレファンツ統一ライオンズ味全ドラゴンズ、三商タイガースの4チームで 桃園、台中、台南、高雄、をはじめ、野球場がある都市巡回として開催された。

目次

現在加盟する球団編集

 
 
Lamigoモンキーズ
 
富邦ガーディアンズ
 
統一ライオンズ
 
中信兄弟
各チームの縁故地
  • 兄弟エレファンツ(兄弟象、1990 - 2013) → 中信ブラザーズ(中信兄弟、2014 - )
  • 統一ライオンズ(統一獅、1990 - 2007) → 統一セブンイレブン・ライオンズ(統一7-ELEVEN獅、2008 -2016 ) - 統一ライオンズ(統一獅、2017 - )
  • 俊国ベアーズ(俊國熊、1993 - 1995) → 興農ベアーズ(興農熊、1996前期) → 興農ブルズ(興農牛、1996後期 - 2012) → 義大ライノズ(義大犀牛、2013 - 2016) → 富邦ガーディアンズ(富邦悍将、2017 - )
  • 第一金剛(2003) → La Newベアーズ(La New熊、2004 - 2010) → Lamigoモンキーズ(Lamigo桃猿、2011 - )

過去に加盟していた球団編集

歴史編集

  • 1989年10月23日 - 中華職業棒球聯盟発足。加盟球団は味全、三商、兄弟、統一。
  • 1990年 - 初のシーズン。味全が初代王者となる。
  • 1992年 - 1試合平均観客数が歴代最高の6878人を記録。
  • 1993年 - 俊国と時報が加盟。
  • 1995年11月 - 俊国が興農に球団を売却。
  • 1996年2月 - 和信が加盟。
  • 1996年6月 - 野球賭博が発覚(黒鷹事件)。以後の人気低迷を招く。
  • 1997年2月28日 - 台湾職業棒球大聯盟発足。
  • 1997年11月 - 時報が活動休止。
  • 1998年 - 1シーズン制とし、プレーオフ制度を採用。
  • 1998年9月 - 時報が解散。
  • 1999年11月8日 - 三商が解散。
  • 1999年12月13日 - 味全が解散。
  • 2000年 - 前後期制に戻し、プレーオフ制度を廃止。1試合の平均観客数が歴代最低の1676人に。
  • 2002年 - 和信が中信に改名。
  • 2003年1月13日 - 台湾大聯盟と合併。中華職業棒球大聯盟発足。那魯湾太陽と第一金剛が加盟。
  • 2003年3月13日 - 那魯湾太陽のスポンサーに誠泰がつく。
  • 2003年12月 - 那魯湾が誠泰に、第一がLa Newに球団を売却。
  • 2005年 - プレーオフ制度を再採用。
  • 2008年2月4日 - 誠泰が米迪亜に球団を売却。
  • 2008年2月21日 - 統一が統一セブンイレブン・ライオンズに改名。
  • 2008年10月27日 - 米迪亜が野球賭博に関わっていたことが発覚(黒米事件)。米迪亜は中華職棒から除名。
  • 2008年11月 - 中信が解散を表明。
  • 2009年 - 野球賭博が発覚。
  • 2010年3月13日14日 - 全球団からの選抜選手が、(スプリングトレーニング期間中の)MLBロサンゼルス・ドジャースと2日間試合を行なう。ドジャースに所属する郭泓志胡金龍の凱旋試合となる[1][2]
  • 2012年1月6日 - La NewがLamigoモンキーズに改名。
  • 2012年3月10日 - 東日本大震災復興支援ベースボールマッチ野球日本代表(侍ジャパン)と対戦。
  • 2012年12月17日 - 興農が義大に球団を売却。
  • 2014年1月5日 - 兄弟が中信に球団を売却。
  • 2016年11月1日 - 義大が富邦に球団を売却。

試合数や方式 試合開始時刻編集

1990年 - 1992年
年間90試合(30回総当たり)を前・後期各45試合ずつ(同15回総当たり)行い、各ステージ1位チームが7試合制の総冠軍賽に進出。同一チームの場合はそれを行わず、そのチームが年間王者となる。毎週の基本日程は4チームの総当たり。
1993年 - 1994年
同じく年間90試合を前・後期各45試合ずつだったが、6球団になり年間は18回総当り、各ステージは9回総当りになる。その他の試合方式は変わらず。毎週の基本日程は6チーム中4チームが総あたりで残り2チームは金曜日からの3連戦で。
1995年 - 1996年
年間は100試合に拡大、前・後期各50試合ずつ、よって年間は20回総当たり、各ステージは10回総当たりになる。その他の試合方式は変わらず。毎週の基本日程は6チーム中4チームが総当たりで残り2チームは木曜日からの4連戦で。
1997年
年間は96試合に、前・後期各48試合ずつ、年間は16回総当たり、各ステージは8回総当たりになる。その他の試合方式は変わらず。毎週の基本日程は7チームを毎週違う2グループに別れ、3チームのグループは先攻&後攻形式の週2回総当たり、4チームのグループは1回総当たり。
1998年
1シーズン制105試合(21回総当たり)のリーグ戦+プレーオフ制度。毎週の基本日程は各チーム3連戦で1カード。また、この年から本格的にホーム&アウェイ制を導入した(1997年以前はホームやアウェイの意識が無い)。
1999年
1シーズン制100試合(20回総当たり)のリーグ戦+プレーオフ制度。毎週の基本日程は2カードが3連戦、1カード4連戦。
2000年 - 2002年
年間90試合(30回総当たり)を前・後期各45試合ずつ(同15回総当たり)行い、各ステージ1位チームが7試合制の決勝戦に進出。同一チームの場合は総冠軍賽では不戦勝の1勝が手に入る。決勝戦の対戦相手は年間2位の球団(2000年から2004年まで使用)。毎週の基本日程は3連戦を2カード行う。
2003年 - 2004年
年間100試合(20回総当たり)、前・後期各50試合ずつ(同10回総当たり)となる。その他の試合方式は変わらず。毎週の基本日程は3連戦が2カード、4連戦が1カード。
2005年 - 2008年
年間100試合(20回総当たり)、前・後期各50試合ずつ(同10回総当たり)は変わらないが、新プレーオフ制度を導入。2005年の毎週の基本日程は2003年、2004年と同じで、2006年は3カードともに4連戦に変更された。半期が各チーム残り10試合の時点は2連戦で週間5カードが日程を終了する。2007年は週6カードを行い、各カードともに2連戦開催し、半期が各チーム残り10試合の時点は週間5カード開催する。2008年も週6カードを行うが、2日間で2連戦から3日間で2連戦をする。また同じ週に同一チームが4日連続試合することがなくなり、全年度の300試合全て同じ編成となる。
2009年 -
年間120試合(40回総当たり)、前・後期各60試合ずつ(同20回総当たり)となる。

試合開始時刻は平日が18:35、土曜日が17:05、日曜日が4、5、9、10月が14:00

1990年の発足時から指名打者(DH)制を採用している。方式は日本のパシフィック・リーグを参考にしている。

プレーオフ編集

1998年、1999年
シーズン2位と3位とが2勝先取制で総冠軍賽出場をかけて戦った。1999年シーズン終了後、球団数減少に伴い廃止。
2005年 -
プレーオフシリーズ(季後挑戰賽)の名で再びプレーオフ制度が採用されている。3勝先取制で勝者は台湾シリーズに進出する。

出場チーム編集

前後期で優勝チームが違う場合、両チームの内、年間勝率の高い方は台湾シリーズへ進出。勝率が低い方のチームと、「ワイルドカード」として両チームを除いた4球団で年間勝率が一番高いチームとがプレーオフに出場。

前後期で優勝チームが同じ場合、優勝チームは台湾シリーズへ進出。「ワイルドカード」として優勝チームを除いた5球団で、年間勝率が高い2チームがプレーオフに出場。

各年の結果編集

星取表は勝利チームから見た結果。○は勝利、●は敗戦。

開催年 勝利チーム 勝利監督 成績 星取表 相手チーム 敗北監督
1998年 味全 徐生明 2 - 1 ●○○ 統一 林增祥
1999年 味全 徐生明 2 - 1 ●○○ 統一 曾智偵
2005年 誠泰 郭泰源 3 - 1 ○●○○ 統一 大橋穰
2006年 統一 大橋穰 3 - 0 ○○○ 興農 劉榮華
2007年 統一 呂文生 3 - 0 ○○○ 誠泰 吳復連
2008年 兄弟 王光輝 3 - 0 ○○○ La New 洪一中
2017年 中信兄弟 コーリ―・スナイダー 3 ‐ 1 ○●○○ 統一 黃甘霖

台湾シリーズ編集

年間王者を決めるシリーズ試合。1990年から2002年までは総冠軍賽(總冠軍賽)の名であったが、2003年から台湾シリーズ(台灣大賽)と改称された。

1996年までは総冠軍賽は交互で後攻チームを担当し、参加チームの勝率が高い方が第1・3・5・7戦の後攻チームとなり、もし前後期完全制覇チームがあると総冠軍賽は行わず優勝決定された。

1997年から2004年までは2-3-2形式に変更、例外として1998年は2-2-1-1-1形式で行った。

また、第2次前後期制度がスタートした2000年からは、前後期完全制覇チームがあってもかならず総冠軍賽が開催されることになった。この場合、前後期完全制覇チームは先に1勝のアドバンテージが付き、対戦チームは年間成績で前後期完全制覇チームに次ぐ球団で、優勝決定シリーズは最大6試合開催することになる。6試合で双方ともに3試合のホームゲームを行うが、日程と移動日はリーグが決定する。

2005年から前後期完全制覇チームに1勝のアドバンテージが付くことがなくなり、かわりに試合の興行権利が3-2-2形式に変更され、2005年は日程も3-2-2形式で、最初の移動日は第3戦終了後に組んだ。2006年も試合の興行権利が3-2-2形式であったが、日程は2-3-2形式に戻り、最初の移動日は第2戦終了後に組み、両チームが決定した開催球場次第で第3戦から第4戦に移動するかしないかが決定される。

2007年の台湾シリーズは3年ぶりに2-3-2形式で開催した。

八百長問題編集

台湾社会に隠然たる勢力を持つ暴力団(黒社会)が野球賭博を仕切っていて、八百長を持ちかけることがある。八百長行為は現地で「放水」あるいは「假球」と呼ばれ、1990年代には時報、味全、三商などのチームが解散に追い込まれた。そののち野球賭博にかかわった選手たちは、永久追放に処されることとなる。

しかし連盟のトップ層が引責辞任せず交代していないこともあり、そういった体質は2000年代になってもまったく改善されず、王建民ら有力選手がMLBやNPBなどの海外リーグに進出・流出し続けたことと、八百長事件によるイメージの悪化によってプロ野球人気は低迷し続けた。問題が収まることはなく、2006年にはLa Newのコーチが暴力団関係者から八百長をするよう脅されたことが明らかとなる。さらに2007年には中信で八百長が発覚し、複数の選手が永久追放処分を受けた。2008年誠泰を買収した米迪亜に至っては球団ぐるみで野球賭博に関与していたことが発覚し、シーズン終了を待たずして除名された。直後に中信も解散に追い込まれ、2009年シーズンは前年の6球団から2球団が消滅した4球団で公式戦を行っている。

それでも 2009年シーズンオフに大規模な八百長問題が発覚した。地元紙によれば、暴力団の関係する野球賭博に4球団中3球団・計14選手の関与が疑われる。14人の中には埼玉西武ライオンズで活躍した張誌家(La New)、MLB球団でも活躍した曹錦輝(兄弟)らスター選手も含まれる。兄弟エレファンツ監督で元阪神タイガース投手の中込伸も一時は身柄を拘束された。これに関して馬英九総統は「過ちは野球でなく人にある」と異例の声明を出した。さらに捜査はアマチュアチームでプレーしている元プロ選手にも及んだ。

マック鈴木は、在籍時に暴力団関係者に八百長を持ち掛けられた事があると後に記者に告白している[3]

2010年2月10日、台湾検察当局は中込伸、張誌家ら選手監督7人を含む24人を賭博罪詐欺罪で起訴した。24人の中には台南県県議会議長の呉健保も含まれた[4]。中込は同年4月の初公判で起訴事実を一部認め[5]7月13日の公判では全て認めた[6]

八百長が多発する背景には、スター選手クラスでさえ月給35万台湾ドル(約100万円)程度といった職業としての待遇の悪さが原因であるという指摘がある。これは日米や韓国のトップリーグと比較しても明らかに少なく、また台湾には公営ギャンブルが存在しないため、裏稼業として暴力団に付け込まれやすい事情もあるともいう。

こうした事態に対し、2010年3月20日の開幕戦に馬英九総統が自ら始球式を行い、台湾を代表するスポーツとして公的に支援する必要があると指摘。そのうえで、選手たちが金ほしさに八百長に手を染めないよう、今後4年間で20億台湾元(約57億円)の公的資金を導入し、今後4年間をかけて選手の最低給与や退職金の制度などを整える考えを示した。また大聯盟は、外国人を除くすべての選手が給与の10%を引退するまで連盟側に預け、賭博や八百長にかかわった場合没収する制度を設けるなどの対策を講じた[7]

八百長事件も一因となって観客数も減少したが、2013 ワールド・ベースボール・クラシックにベスト8進出を果たしたことで人気が再燃し、影響を脱することができた[8]

主な日本人選手編集

戦力外になった日本人選手が挑戦し、日本プロ野球では結果を出せなかったか力の衰えた選手でも主力として活躍することが多かった。中山裕章横田久則正田樹鎌田祐哉真田裕貴などはその代表格である。しかし、台湾プロで活躍して日本に戻って来ても活躍した例は少ない[9]高津臣吾は、台湾プロは雑なプレーが多くて日本や韓国のプロよりレベルが落ちると発言しており、待遇面や設備の酷さについても言及している[9][10][11][12][13]。2010年代になりプロ野球チームの数が減少して外国人選手枠が狭くなり、プロで実績のある日本人選手も日本各地の独立リーグと契約することが増え、日本人選手は減少傾向にある。2014年に5月まで正田が在籍していたのを最後に、以降は中華職業棒球大聯盟でプレーした日本人選手はいない。

関連項目編集

脚注編集

外部リンク編集