伏見宮貞致親王
江戸時代初期の皇族。伏見宮13代。式部卿。子に微巌院(1666-1668.6.25、母は家女房、美厳院、徽巖院)、正宮(1687-1689、正受院)
伏見宮 貞致親王(ふしみのみや さだゆきしんのう)は、江戸時代初期の皇族。伏見宮第13代。父は伏見宮第10代当主の貞清親王と言われるが、一説には邦尚親王の王子とも伝えられる。母の少納言局・安藤定子は安藤定元の女で、曾祖父は邦輔親王の王子・安藤惟実(邦茂王)。同母弟に邦道親王がいる。妃は関白近衛尚嗣の女、好君。
伏見宮(第13代) | |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
寛永9年5月27日(1632年7月14日) |
死去 |
元禄7年5月18日(1694年6月10日) |
配偶者 | 好君(近衛尚嗣の女) |
家女房 | |
子女 |
邦永親王 真宮理子女王 他 |
父親 | 伏見宮貞清親王 |
母親 | 少納言局 |
役職 | 式部卿 |
サイン |
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生涯編集
母親の身分の低さゆえ、丹波国へ養子に出された。山城国西陣の鍛冶屋(元々は公家が兼業していた刀工の家系)[要出典]の徒弟となり、「長九郎」と称した[1]。
1651年、讒言によって母の実家に出奔するが、貞清親王の招きにより翌年に帰洛する。1653年、再び讒言により出奔する。
承応3年(1654年)に貞清親王、邦尚親王、邦道親王が立て続けに薨去し、伏見宮家は断絶の危機に直面したが、安藤家の働きかけにより京都所司代が吟味したところ伏見宮の落胤であると認められ、久我広通の後見のもとに伏見宮を継いだ。万治3年(1660年)に親王宣下、元服。
子女編集
出典編集
参考文献編集
- 倉山満 『日本一やさしい天皇の講座』扶桑社〈扶桑社新書〉、2017年6月2日。ISBN 978-4594077211。
外部リンク編集
- 『親王・諸王略傳』貞 [貞致] - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)[リンク切れ]
- 親王・諸王小傳(三)伏見宮貞致親王 - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)[リンク切れ]