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内藤 国貞(ないとう くにさだ)は、戦国時代武将細川氏三好氏の家臣。丹波国守護代。同国八木城主。

 
内藤国貞
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文22年9月18日1553年10月25日
官位 備前
幕府 室町幕府 丹波守護代
主君 細川高国氏綱三好長慶
氏族 丹波内藤氏
父母 父:内藤貞正
兄弟 国貞松永長頼正室[1]
貞勝

目次

略歴編集

丹波内藤氏は代々丹波守護・細川氏に仕え、守護代を務めていた。国貞は同国守護を兼ねる管領細川高国より偏諱を受け、国貞と名乗る。

『高野山西院来迎堂勧進帳』に細川氏の守護代として安富元成香川元綱薬師寺国長とともに国貞が署名をしている。元成は永正11年(1514年)に遁世しているため、同年以前に国貞が守護代に任じられたと考えられる。もっとも、父の貞正は依然として丹波で活動し、国貞が主に京都で高国を補佐していたと考えられている[2]

その後、波多野氏など有力国人と手を組みこれに反抗した。高国が没落し阿波国出身の細川晴元が台頭すると高国の残党と結託して引き続き反抗するが、天文7年(1538年)に晴元に鞍替えした波多野稙通三好政長の追討を受けて居城・八木城を落とされた。晴元の敵として細川氏綱が挙兵すると氏綱に呼応するが、天文14年(1545年)に三好長慶世木城を落とされた。

天文17年(1548年)、細川晴元と三好長慶が対立すると長慶方につき独立した。天文22年(1553年)、丹波で勢力を伸ばしてきた波多野氏に対し、三好氏と組んで八上城を攻めたが、波多野氏の後援に現れた三好政勝香西元成に八木城を落とされ戦死した。ただし、馬部隆弘は国貞は一貫した氏綱の支持者とみなし、長慶と組んだのは彼が氏綱を擁したからで、長慶も国貞の存命中は氏綱の下で動いていたと見ている[3]

国貞死後、三好方の松永長頼が八木城を奪還し長頼は内藤貞正の娘[4]を娶って内藤家の名跡を継ぎ内藤宗勝と称し、一時的に内藤氏の勢力を盛り返したが、やがて宗勝も敗れ没落していった。宗勝(松永長頼)と貞正(もしくは国貞)の娘との子がキリシタンとして著名な忠俊(如安)であるとされる。

脚注編集

  1. ^ 子とも。
  2. ^ 馬部隆弘「細川高国の近習と内衆の再編」(初出:『史敏』通巻13号(2015年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P127-129.
  3. ^ 馬部隆弘「内衆からみた細川氏綱と三好長慶の関係」『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P680-716.
  4. ^ 国貞の娘ともされる。

出典編集

関連項目編集