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初瀬(はつせ)は日本海軍戦艦[14][15]敷島型戦艦の3番艦である。

初瀬
1902年2月から3月、清水沖と推定される初瀬[1]
1902年2月から3月、清水沖と推定される初瀬[1]
基本情報
建造所 アームストロング社エルジック造船所[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 一等戦艦(1899年10月18日)[3]
戦艦(1905年12月12日)[4]
艦歴
計画 第二期拡張計画[5]
起工 1898年1月10日[6]
進水 1899年6月27日[6]
竣工 1901年1月18日[6]
最期 1904年5月15日触雷、沈没
除籍 1905年5月21日
要目(竣工時計画)
排水量 公試時:15,240英トン[7]
常備排水量 15,000英トン[6]
全長 439 ft 8+1/2 in (134.02 m)[6]
または 439 ft 9 in (134.04 m)[8]
水線長 415 ft 0 in (126.49 m)[8]
垂線間長 400 ft 0 in (121.92 m)[6][8]
水線幅 76 ft 8+1/2 in (23.38 m)[6]
または 76 ft 9 in (23.39 m)[8]
吃水 27 ft 0 in (8.23 m)[6]
または 27 ft 6 in (8.38 m)[8]
ボイラー ベルビール 25基[6]
主機 直立3段レシプロ[9] 2基[6]
推進 2軸 x 120rpm[6]
出力 計画:14,500馬力[6]
公試:16,117馬力[7]
速力 計画:18.0ノット[6]
公試:19.1ノット[7]
燃料 石炭:1,643トン[6][10][7]
航続距離 (7,000カイリ / 10ノット)[注釈 1]
乗員 竣工時定員:836名[11]
1903年12月31日現在:849名[12]
兵装 40口径12インチ(30.5cm)連装砲 2基[6]
40口径6インチ(15.2cm)単装砲 14基[6]
40口径3インチ(7.6cm)単装砲 20基[6]
47mm単装砲 12基[6]
45cm水中発射管 4門[6]
装甲 舷側:9in(228.6mm)-4in(101.6mm)[13]HS鋼[6]
甲板:4in(101.6mm)-2.5in(63.5mm)[13]
砲塔:14in(355.6mm)-8in(203.2mm)[13]
砲郭:6in(152.4mm)-2in(50.8mm)[13]
司令塔:14in(355.6mm)-3in(76.2mm)[13]
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艦名の由来は奈良県を流れる初瀬川大和川上流部別称)による[16]日露戦争における旅順港閉塞作戦に従事中の1904年(明治37年)5月15日、ロシア海軍が敷設した機雷により爆沈した[17][18][19]

艦歴編集

日露戦争編集

1896年(明治29年)度から10カ年計画による「第一、二期海軍拡張計画」の中の1艦として英国ニューキャッスルのアームストロング社エルジック工場で建造。 1898年(明治31年)1月10日、起工[16]。 同年3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、1万トン以上の戦艦を一等戦艦と定義した[20]。該当する4隻(富士、八島、朝日、敷島)が一等戦艦に類別された[21][22]。 4月27日、第三号甲鉄戦艦は「初瀬」、第六号一等巡洋艦は「出雲」と命名される[23][14]。「初瀬」は1899年(明治32年)6月27日、進水[16]10月18日、軍艦4隻(初瀬、三笠出雲磐手)等は軍艦及水雷艇類別等級表(艦艇類別等級表)に類別された[24][15]1901年(明治34年)1月18日、竣工する[16][25]。 2月2日、ポーツマスを出発し、プリマス軍港へ移動した[25]。2月12日、プリマスを抜錨した[26]。4月15日、横須賀に到着する[27]

竣工4年目で日露戦争に参加した。1904年(明治37年)2月9日からの旅順口攻撃に参加、砲撃により戦死者2名を出す[28]

沈没編集

同年5月15日、「初瀬」は第一戦隊司令官梨羽時起少将の旗艦として旅順港閉塞作戦に従事していた[16][19]。 旅順港外の老鉄山沖を初瀬敷島八島笠置龍田等で行動中[29][30]ロシア海軍機雷に触雷した。敷設艦アムールは前夜に機雷50個を敷設しており、これが日本艦隊に大打撃を与えることになった[31]。午前11時頃、「初瀬」は左舷艦底に触雷し、航行不能となる(舵機故障、左舷傾斜、艦後部沈下)[32][33]。 当時は好天で、初瀬乗組員達は全く警戒していなかった[32]。 続いて初瀬救援中の僚艦「八島」も触雷する[34](夕刻になり沈没、戦死者なし)[35][36][37]。 「敷島」は戦場を離脱した[38]。日本側は機雷もしくは潜水艦に襲撃されたと判断していた[17][39]。 救援のためかけつけた「笠置」が曳航準備をほとんど終えた午後0時33分、2回目の触雷があり「初瀬」は後部火薬庫の大爆発を起こして艦後部より沈没した[40][33]

初瀬・八島触雷時、旅順要塞よりロシア海軍の駆逐艦や水雷艇が出撃してきたため[19][41]、救援各艦(笠置、龍田、明石千代田秋津洲大島赤城宇治高砂)等は、敵艦を撃退しつつ生存者の救出に従事する[36][33][17]。初瀬戦死者492名(傭人12名を含む)、生存者337名(梨羽少将、中尾艦長を含む)[16]。後年の調査では、戦死者495名(乗員834名)[42]。 梨羽司令官、中尾雄(初瀬艦長)、千坂智次郎(初瀬航海長)、佐藤亀太郎(初瀬機関長)、小林恵吉郎(初瀬水雷長)等の主要幹部は「龍田」に収容され、梨羽は「龍田」に将旗を掲げた[39]。だが第一戦隊司令部人員のほとんどが戦死した[39]。のちに芥川龍之介の妻となる塚本文の父、塚本善五郎(第一艦隊第一戦隊先任参謀)も、本艦と共に戦死している[43]

日本海軍は当時保有していた主力戦艦6隻(富士、八島、敷島朝日初瀬三笠)のうちの三分の一を数時間のうちに喪失した[34][44]。また同日未明に巡洋艦「吉野」が沈没[19][45](味方艦春日との衝突による)[46][47]。初瀬生存者(梨羽司令官を含む)・八島生存者を収容していた「龍田」も座礁、5月15日は日本海軍厄災の日となった[48][49]

1905年(明治38年)6月15日、「初瀬」は艦艇類別等級表(軍艦及び水雷艇類別等級表)より除籍された[50][51]

影響編集

日本海軍の保有戦艦6隻(富士、八島、敷島、初瀬、朝日、三笠)のうち戦艦2隻(八島、初瀬)の同時喪失[52]、大きな衝撃を与えた[53][54]。海軍は艦艇緊急補充(装甲巡洋艦の国産化と潜水艇の建造)を提議、5月23日に諒承された[55]。この装甲巡洋艦が筑波型巡洋戦艦2隻(筑波生駒[56][57]、潜水艇がエレクトリック・ボート社より輸入したホランド型潜水艇である[55][58]。また第一戦隊は戦艦4隻(三笠、朝日、敷島、富士)と装甲巡洋艦2隻(日進春日)の6隻編制となり[59]黄海海戦日本海海戦で活躍した[60]

1935年(昭和10年)10月2日、昭和天皇は弟宮の崇仁親王大正天皇第四皇男子)の称号について「泊瀬(初瀬)」を選んだが[61]、後日「三笠」に変更されている[62]

太平洋戦争大東亜戦争ガダルカナル島攻防戦が繰り広げられていた1942年(昭和17年)10月から11月にかけて、日本海軍はアメリカ軍が保持するガダルカナル島ヘンダーソン基地飛行場に対し、金剛型戦艦重巡洋艦による艦砲射撃を幾度か実施していた(ヘンダーソン基地艦砲射撃[63]。11月中旬に実施予定の戦艦「比叡」(第十一戦隊司令官阿部弘毅少将)と戦艦「霧島」による砲撃計画を説明された昭和天皇は以下のように訓示した[64]

一五五〇、戦況上聞。七日のd×9の輸送成功、但し敵機二〇機来襲、水上機一〇機上空直衛にて戦闘、昨夜迄未帰還機七機。ガ島(飛行機)場に対し、B×2にて砲撃の予定に対し、仝一作戦を繰返し「初瀬」「八島」〔日露戦争当時の戦艦で旅順口の作戦でともに敵機雷に触れ爆沈した〕の如きことなきや警戒を要すと、仰せあり。
米英軍、モロッコ大西洋岸及地中海岸に上陸の報あり。 — 昭和17年11月8日 日曜日、城英一郎著/野村実編『城英一郎日記』204ページ

アメリカ軍は日本艦隊を待ち構えており、11月12日夜以降ガダルカナル島やサボ島近海で繰り広げられた夜間水上戦闘や空襲によって日本軍は戦艦2隻(比叡、霧島)を含む多数の駆逐艦や輸送船を喪失、天皇の懸念は適中した(第三次ソロモン海戦[65]

年表編集

 
初瀬 (1901)

歴代艦長編集

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
艦長
  • 植村永孚 大佐:1900年8月1日 - 1901年7月5日
  • 梨羽時起 大佐:1901年7月5日 - 1902年7月18日
  • 島村速雄 大佐:1902年7月18日 - 1903年10月27日
  • 中尾雄 大佐:1903年10月27日 - 1904年5月24日

参考文献編集

  • 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
  • 勝目純也『日本海軍潜水艦百物語 ホランド型から潜高小型まで水中兵器アンソロジー』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年12月。ISBN 978-4-7698-3097-9
  • 鎌田芳朗『海軍兵学校物語』原書房、1979年7月。
  • 宮内庁編『昭和天皇実録 第六 昭和七年至昭和十年』東京書籍株式会社、2016年3月。ISBN 978-4-487-74406-0
  • 呉市海事歴史科学館/編『日本海軍艦艇写真集 戦艦・巡洋戦艦』ダイヤモンド社、2005年。ISBN 4-478-95053-9
  • 城英一郎著『侍従武官 城英一郎日記』野村実・編、山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。
  • 新人物往来社編『軍談 秋山真之の日露戦争回顧録 黄海海戦と日本海海戦勝利の要因』新人物往来社〈新人物文庫〉、2010年2月。ISBN 978-4-404-03809-8
  • 戸高一成編『日本海海戦の証言 聯合艦隊将兵が見た日露艦隊決戦』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年3月。ISBN 978-4-7698-3058-0
  • 豊田穣『旗艦「三笠」の生涯 日本海海戦の花形 数奇な運命』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2016年2月。ISBN 978-4-7698-2931-7
  • (社)日本造船学会/編『昭和造船史(第1巻)』明治百年史叢書 第207巻、原書房、1981年(原著1977年10月)、第3版。ISBN 4-562-00302-2
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
  • 野村實『天皇・伏見宮と日本海軍』文藝春秋、1988年2月。ISBN 4-16-342120-3
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第2巻 戦艦II』光人社、1989年。ISBN 4-7698-0452-0
  • 福井静夫『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語(1)』光人社、1992年。ISBN 4-7698-0607-8
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。
  • 官報
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『明治31年 達 完/3月(1)』。Ref.C12070040500。
    • 『明治32年 達 完/10月』。Ref.C12070042900。
    • 『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。
    • 『日露役旅順附近海戦一覧表(明治37年)』。Ref.C14120009300。
    • 『日露役(旅順附近黄海海戦)に於ける沈没艦船並戦死者一覧表(昭和10年6月7日旅順要港部港務部調製)』。Ref.C14120009400。
    • 『日露役旅順陥落迄の両国艦船勢力並亡失表(明治37年)』。Ref.C14120009500。

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 『日本戦艦物語I』による。ただし括弧書きで記載され、その説明はない。『昭和造船史』では空欄となっている。

出典編集

  1. ^ #艦艇写真集(2005)戦艦p.29
  2. ^ #日本の戦艦(上)2001p.19
  3. ^ #海軍制度沿革巻八p.62『明治三十二年十月十八日(達一八七) 明治三十一年達第三十五號軍艦及水雷艇類別等級表中別紙ノ通追加ス (別紙略)』
  4. ^ #海軍制度沿革巻八pp.66-68『明治三十八年十二月十二日(達一八二) 艦艇類別等級別表ノ通定ム (別表略)』
  5. ^ #海軍制度沿革8(1971)p.9
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t #昭和造船史1pp.776-777、附表第2 艦艇要目表 1.主力艦要目表
  7. ^ a b c d #帝国海軍機関史(1975)下巻p.278、戦役従軍艦艇及其の最近高力運転成績。
  8. ^ a b c d e #日本の戦艦(上)p.106、≪3-7表≫主要寸法一覧
  9. ^ #帝国海軍機関史(1975)別冊、表8 列国製艦一覧表 其ノ一
  10. ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.263、戦役中艦艇石炭搭載成績表
  11. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.356-357『明治三十二年七月六日(内令六二) 海軍定員令第二條別表定員表ノ次ニ別表ノ通り敷島、朝日、初瀬、出雲、八雲、吾妻定員表ヲ追加セラル (別表略)』准士官以上51人、下士135人、卒650人
  12. ^ #帝国海軍機関史下巻p.245(二〇九頁)、開戦前艦団体配置人員
  13. ^ a b c d e #日本の戦艦(上)2001p.218
  14. ^ a b #達明治31年4月p.25『達第七十六號 英國ニ於テ製造中ノ第三號甲鐡戰艦及第六號一等巡洋艦左ノ通命名セラル 明治三十一年四月二十七日 海軍大臣 侯爵西郷從道|第三號甲鐡戰艦 ハツ|第六號一等巡洋艦 イツ
  15. ^ a b #達明治32年10月pp.6-7『達第百七十八號 明治三十一年達第三十五號軍艦及水雷艇類別等級表中別紙ノ通追加ス 明治三十二念十月十八日 海軍大臣 山本権兵衛 |軍艦|戰艦|一等|初瀬 三笠|/|巡洋艦|一等|出雲 磐手|』
  16. ^ a b c d e f #幕末以降帝国軍艦写真と史実第60コマ(原本87頁)『初瀬(はつせ) 艦種戰艦 二檣(戰闘檣あり)
    艦名考川名に採る、初瀬川は大和國磯城郡上之郷の山中に發し、南流長谷寺の傍を過ぎ西流、朝倉三輪を過ぎ、西北に屈折し、山邊郡二階堂村に至りて佐保川となる、長さ凡そ十里。
    艦歴明治37・8年日露戰役に從軍:第一戰隊司令官少将梨羽時起の旗艦として行動中、同37年5月15日旅順口外に於て2回に亙り敵の機械水雷に觸れて沈没、副長中佐有森元吉外准士官以上35名、下士卒443名、傭人12名殉難。司令官及び艦長大佐中尾雄以下337名救助せらる。
    ―要目― 長400呎/幅75呎/吃水27呎/排水量15,000噸/機關 三聯成汽罐2基、ベルビル罐25臺/馬力1,000/速力18/乗組人員741/船材 鋼/兵装 12吋砲4/6吋砲14/3吋砲20/3听砲8/2.5听砲6/發射管4/起工 明治31-1-10/進水 同32-6-27/竣工 同34-1-18/建造所 英國エルスウィック安社』
  17. ^ a b c #日露戦争大本営公報集コマ36-37(原本51-52頁)『三、初瀬が敵の水雷に罹りしは老鐡山の南東約十海里の所にして當時同方面には霧なく又其附近に敵の驅逐艦もあらざりしと云ふ此事實より判断するときは敵は其附近に機械水雷を沈置したるか或は又潜水艇を利用したるものならん初瀬は約三十分間を隔て二回の被害にて瞬時に沈没したるも敷島、八島、笠置、龍田等にて梨羽少将中尾大佐以下三百名を救助収容せり初瀬沈没の頃的の驅逐艦十六隻旅順口内より出で來り我を追尾せしが會々其他に來りし明石、千代田、秋津洲、大島、赤城、宇治及高砂は前記諸艦と協力して之を撃退し初瀬生存者の収容を果たすことを得たり以上の報告は混信の爲め文意不明瞭なる無線電信と今朝遭難報告の爲め來し龍田の少尉並に八島の艦載水雷艇指揮官の口頭報告等を綜合して制作したるものなり當地近傍霧未だ霽れず(五月十六日午後四時三十七分大本營着電)』
  18. ^ #日露戦争大本営公報集コマ37(原本52-53頁)『五、昨朝濃霧霽れ各隊逐次入港す其報告により初瀬は全く敵の機械水雷に罹りしものなることを確かむることを得たり(五月十八日午後零時四十分大本營着電)』
  19. ^ a b c d #旅順附近海戦一覧p.5『五月十五日|夜|港口封鎖任務中濃霧ニ會シ我吉野ハ春日ト衝突ス|艦長以下三百十八名艦ニ殉セリ/敵驅逐艦「ウエマテリスイ」渤海灣ニテ坐礁放棄/晝|我「初瀬」及「八島」ハ敵監視中老鐡山ノ南東約十海里ノ地点ニテ敵機雷ニ觸レ此時敵驅逐艦十六隻大擧我艦隊ヲ襲撃セシモ我巡洋艦ノ爲撃退サル|初瀬八島沈没|五月初旬ヨリ海軍ノ援護ニヨリ續々我陸軍關東半島ニ上陸開始』
  20. ^ #達明治31年3月(1)pp.14-15『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道』
  21. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ50番『◎軍艦及水雷艇類別等級』
  22. ^ #達明治31年3月(1)pp.16-17『達第三十五號 軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道|軍艦|戰艦|一等|富士、八島、敷島、朝日』
  23. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ198番『◎戰艦初瀬及一等巡洋艦出雲命名ノ件』
  24. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ50番『明治三十二年十月十八日(達一七八)明治三十一年達第三十五號軍艦及水雷艇類別等級表中別紙ノ通追加ス』
  25. ^ a b c d 明治34年2月5日官報第5275号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○新艦領収及回航 英國ニ於テ製造ノ軍艦初瀬去月十八日領収ヲ了シ本月二日出艦本邦ヘ回航ノ途ニ就ケリ(海軍省)|○軍艦發箸 軍艦松島ハ佐世保ヘ、同敷島ハ清水ヘ、本月二日、常磐ハ呉ヘ、同千代田ハ横濱ヨリ横須賀ヘ、同初瀬ハ ポーツマウス ヨリ プリマウス ヘ一昨三日孰モ投錨、同秋津洲ハ佐世保ニ向ヒ岩國ヲ、同宮古ハ上海ニ向ヒ下關ヲ、同豊橋ハ横須賀ヲ、同赤城ハ呉ヲ、昨四日孰モ抜錨(海軍省)(以下略)』
  26. ^ 明治34年2月12日官報第5280号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○軍艦發箸 軍艦松島及豊橋ハ本月八日呉ヘ投錨、同赤城ハ同日宮島ヘ投錨、同九日呉ニ向ヒ同所ヲ、同初瀬ハ同日 モールタ ニ向ヒ プリマウス ヲ孰モ抜錨セリ(海軍省)』
  27. ^ a b 明治34年4月16日官報第5332号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○軍艦發箸(略)同初瀬ハ昨十五日横須賀ヘ投錨(以下略)』
  28. ^ #日露役旅順港海海戦戦死者p.1『年月日:明治三七-二-九|別:晝|沈没艦艦名:/|戰死者乗艦船名:初瀬|戰死名:二|概要:我聯合艦隊主力港外残留ノ敵艦砲撃』
  29. ^ #日露戦争大本営公報集コマ36(原本51頁)『二、本艦は海軍に在て最大不幸の日にして茲に又最も不幸なる報告を通達するの止むを得ざるに遭遇せり、初瀬、敷島、八島、笠置、竜田は本日午前11頃旅順口沖にて敵を監視中初瀬は敵の水雷に罹り先づ舵機を破られ初瀬より曳船送れの電信に接したるを以て将に之を發送せんとする時更に敷島より初瀬は第二の水雷に罹り沈没せりとの悲報來れりも本職は之を報告するに臨み只遺憾至極と云ふの外なし善後の處置に就ては夫々出來る丈けの手段を盡し災厄を増大せざるに努め居れり當地付近濃霧未だ霽れず(五月十五日午後六時大本營着電)』
  30. ^ #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ78-79(原本115-116頁)『龍田の遭難附初瀬八島の爆沈(龍田艦長海軍中佐)海軍中将釜屋忠道』
  31. ^ 野村實 1988, p. 122a日露戦争での先例
  32. ^ a b #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ90(原本140-142頁)『初瀬の遭難(初瀬水雷長海軍少佐)海軍大佐小林惠吉郎』
  33. ^ a b c #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ106-107(原本170-174頁)『笠置より見たる初瀬八島の遭難(笠置航海長海軍少佐)海軍中将内田虎三郎』
  34. ^ a b c 野村實 1988, p. 122b.
  35. ^ #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ97-98『八島の遭難(八島艦長海軍大佐)海軍中将坂本一』
  36. ^ a b #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ98(原本154-155頁)
  37. ^ #日露役旅順港海海戦戦死者p.2『明治三七-五-一五|晝|八島|同上|/|初瀨ト共同動作中敵機雷ニ觸レ沈没』
  38. ^ #日露戦争大本営公報集コマ36-37(原本51-52頁)『三、敷島は初瀬遭難状況報告の爲め今當地に歸港しつヽあり驅逐隊全部及二個水雷艇は敵の驅逐隊に當り溺者救助の爲め午後一時三十分當地を發して旅順口方面に向へり霧未だ霽れず(五月十五日午後十時三十分大本營着電)』
  39. ^ a b c #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ81-82(原本121-123頁)『(略)収容した人の中には梨羽司令官もあり、頭の光るので著しく判つてゐた。此に於て龍田の檣頭には梨羽司令官の将旗を掲揚した。幕僚は一人も助かつてゐなかつた。孰れも墨水の中から出て來た人の如く、顔と云はず手足と云はず黒く染まつて、目玉計りピカゝすると云ふ有様で、地獄の黒鬼も斯くやと許りに思はれた。初瀬の機關長佐藤亀太郎君は龍田の艦橋に上り來て、『艦長残念』と叫んで落涙した。予も思はず落涙した。(略)龍田に収容した初瀬の乗員は梨羽司令官、中尾初瀬艦長、外准士官以上十五名、下士官卒百九十八名で、其の中重傷者十九名、輕傷者二十六名であつた。』
  40. ^ #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ104(原本166-167頁)
  41. ^ 軍談秋山真之 2010, pp. 86-87「八島も機雷にやらる」
  42. ^ #日露役旅順港海海戦戦死者p.2『明治三七-五-一五|晝|初瀨|同上|四九五|敵監視中老鉄山南東方面約十里ノ地点ニテ敵機雷ニ觸レ沈没 乗員八三四名ノ内四九五名戰死』
  43. ^ #海軍兵学校物語p.73
  44. ^ #戦袍余薫懐旧録コマ101『初瀬八島の遭難(敷島艦長海軍大佐)海軍中将寺垣猪三』
  45. ^ 軍談秋山真之 2010, pp. 85-86.
  46. ^ 三笠の生涯 2016, pp. 339-340.
  47. ^ #亡失表p.2『二・三等巡洋艦|吉野|四,一五〇|春日ト衝突沈没|(濃霧中)五月十五日|』
  48. ^ #大戦余響コマ28-30(原本35-39頁)『〔十一〕吉野初瀬八島の沈没』
  49. ^ #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ86(原本130-131頁)
  50. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ52番『明治三十八年六月十五日(達八三)軍艦及水雷艇類別等級別表中軍艦ノ欄内八島、初瀨、吉野、高砂、濟遠、海門、平遠、愛宕、大島、宮古、速鳥ヲ、水雷艇ノ欄内第三十四號、第三十五號、第四十二號、第四十八號、第五十一號、第五十三號、第六十九號ヲ削ル』
  51. ^ #達明治38年6月p.7『達第八十三號 軍艦及水雷艇類別等級別表中軍艦ノ欄内八島、初瀨、吉野、高砂、濟遠、海門、平遠、愛宕、大島、宮古、速鳥ヲ、水雷艇ノ欄内第三十四號、第三十五號、第四十二號、第四十八號、第五十一號、第五十三號、第六十九號ヲ削ル 明治三十八年六月十五日 海軍大臣男爵 山本権兵衛』
  52. ^ #亡失表p.1
  53. ^ 軍談秋山真之 2010, p. 167「三十七年五月十五日の悲報」
  54. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 02a-03ホーランド型潜水艇の採用
  55. ^ a b 戦史叢書98 1979, pp. 02b-03.
  56. ^ 軍談秋山真之 2010, p. 168「苦心を重ね、装甲巡洋艦開発」
  57. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実第91コマ(原本144頁)「筑波(つくば)【二代】
    艦種一等軍巡洋艦 二檣(信號用)
    艦名考艦名の起源は初代「筑波」の項(p.3)参照。
    艦歴明治37年2月、日露開戰後僅かに數月ならずして我海軍は初瀬・八島兩艦沈没の不運に遭遇し、愈々之に代るべき大鑑の必要を痛感し筑波・生駒の建造を決し、呉海軍工廠に於て明治38年1月14日起工。同41年英國皇帝戴冠式に列する爲め同國に回航、次に欧米諸國を回航(筑波・千歳 第二艦隊司令長官伊集院五郎引率、艦長竹内平太郎)。大正元年8月巡洋戰艦に編入(昭和8年艦船類別標準改正により此の名稱廢され戰艦となる)、同3年乃至9年戰役從軍:同3年9月第一南遣支隊に属し南洋方面に行動、「マーシャル」・東「カロリン」群島の占領に任ず(艦長大佐竹内次郎)、同6年1月14日横須賀港に於て災禍の爲め爆沈。
    ―要目― 長440呎/幅75呎/喫水26呎/排水量13,750噸/機關 往復機關2基、宮原式罐/馬力20,500/速力20.5/乗組人員830/船材 鋼(甲帶7吋)/兵装 12吋砲4/6吋砲12/4.7吋砲12/3吋砲6/機關砲4/發射管5/起工 明治38-1-14/進水 同38-12-16/竣工 40-1-14/建造所 呉工廠」
  58. ^ 潜水艦百物語 2018, pp. 22-23.
  59. ^ 日本海海戦の証言 2018, p. 296.
  60. ^ 軍談秋山真之 2010, p. 32.
  61. ^ #昭和天皇実録六巻789頁『(昭和十年十月)二日 水曜日 午前十時三十分、宮内大臣湯浅倉平に謁を賜い、崇仁親王の青年に際して賜うべき称号の候補案として、「泊瀬(初瀬)」「真幸」「石瀬」の三候補の内奏を受けられる。なお、天皇は「泊瀬」を御採択になるも、その後、支障あることが発見され、候補案は再詮議のこととなる。』
  62. ^ #昭和天皇実録六巻809頁『(昭和十年十一月)四日 月曜日(崇仁親王に賜う称号候補の内奏)午前、宮内大臣湯浅倉平に謁を賜い、来る十二月二日、崇仁親王の成年に際して賜うべき称号の候補案として、「三笠」「常陸」「榛名」「筑紫」の四候補の内奏を受けられ、「三笠」を御採択になる。(以下略)』
  63. ^ 野村實 1988, pp. 115-117ガ島飛行場は必要だったか
  64. ^ 野村實 1988, pp. 120-121天皇の危惧
  65. ^ 野村實 1988, pp. 125-126「比叡」「霧島」沈没す

関連項目編集